第89話 ナナシフィーバー
フィーバー。
瞬時に感染していく様を思えば、それを最初に熱病と呼んだ人間は慧眼の持ち主だと言えるだろう。
ナナシ本人は目を背けてはいるが、今、機動城砦ペリクレスは、空前のナナシフィーバーの真っ最中である。
それもそのはず、ギリギリ人間の範疇、ヒエラルキーの最底辺であるはずの地虫の少年が、並み居る強豪をバッタバッタと打ち倒して、最強の剣闘士の称号である『剣帝』を手に入れ、挙句の果てには、領主の娘との婚約発表。次代のペリクレス伯にまで登り詰めたのである。
ただでさえ『剣帝』ともなれば、尚武の気風の強いペリクレスにおいては一種の崇拝の対象である。
消耗戦以降、瞬く間に街中にはマレーネ公認のナナシグッズが溢れ、非公認グッズを鬻ぐ露店が毎日の様に摘発されている。
更には、ナナシが比較的かわいらしい童顔であることと、脇に控える銀嶺の剣姫の存在も相まって、世紀のシンデレラストーリーだと持てはやされ、早くも吟遊詩人や劇作家の題材にもされようとしている。
ここまでくれば通常、嫉妬から発する非難中傷も上がろうというものだが、ナナシの一見すれば、腰の低さと謙虚さに見える、自己評価の低さが幸いして比較的そういう声は多くは無い。
強いて言うならば、一部熱狂的な女性ファンがついていることにやっかむ男達がいるという程度のことである。
そんな状況に全く自覚の無かったナナシが、サラトガで待つ者達の為にお土産を買おうと、剣姫と二人で街中に出た時には、瞬く間に大騒動に発展した。
街中でナナシを見つけるやいなや、駆け寄ってきた人に、やれサインをくれだの、やれ赤ん坊を抱いてやってくれだのと言われ、照れ笑いを浮かべられている内はまだ良かった。
しだいに黒山の人だかりとなり、調子に乗った鍛冶屋の親父が「胴上げだ!」と宣ったことを皮切りに、気が付けば人々がナナシの名を連呼する中を、胴上げされながら町中を練り歩くパレードへと発展していた。
ナナシはオロオロとただ戸惑い、涙目で宙を舞いながら、剣姫に助けを求めるも、剣姫は「ついに主様の時代が来ました!」とまともに取り合おうともせず、むしろ群衆を煽る始末。
結局土産の一つも買うことも出来ず、必死の思いでペリクレス城に戻った時には、喋ることもままならぬほどに憔悴したナナシの姿があった。
以降、ナナシは今日に至るまでペリクレス城から、一歩も足を踏み出していない。
尚、余談ではあるが、その翌日、剣姫が一人でお土産を買いに出かけ、それはそれで大騒動を引き起こすのだが、それは又の機会に述べる事とする。
ともかく、こんな状況であったが為に、もうすぐ首都に到着すると聞いた時のナナシの喜び様は通り一遍の物では無かった。
首都へと到着する日の早朝、ペリクレスの艦橋へと呼び出されたナナシと剣姫に、マレーネはあと数刻で首都に到着することを告げた。
「じゃあ今日中に、サラトガに帰れるんですね!」
「ええ、主様!」
ナナシが思わず剣姫の手を取って喜ぶ姿を見て、マレーネとトリシアは顔を見合わせる。
「何を言ってるんです? と仰られています」
いや、マレーネさんは何も言ってないよね。
という言葉をぐっと飲み込んで、ナナシはトリシアへと問い返す。
「だって、首都に着くんでしょう?」
再びマレーネとトリシアは顔を見合わせると二人して、はあと深い溜息を吐き、ナナシはちょっとイラッとした。
「若様。サラトガの正規乗員に若様のお名前はございませんでしたが?」
「そりゃそうです。ペリクレスから帰ったら、ミオ様に正式に雇っていただく事になっていますから」
「ところが、ドン! ペリクレスぅ乗員名簿ぉー」
どこから取り出したのか、トリシアは分厚いファイルのようなものをテーブルの上にどさりと置く。
「なんですこれは?」
「文字通り、この機動城砦ペリクレスの乗員名簿です。こちらには既に若様のお名前が記載されております」
「なんですと?!」
「ほら、こちらに」
トリシアがぱらりとページをめくり、ある一行を指さす。
「ホントです! 主様、領主代行補佐という役職で記載されております!」
慌てる剣姫、呆然とするナナシ。
それをドヤ顔で見回しながら、トリシアは口を開く。
「領主代行補佐、平たく言うとマレーネ様の補佐ですね。
というわけで、サラトガに行くなとは申しませんが、若様は既に書類上ペリクレスの乗員であり、『サラトガに帰る』という物言いは不適切です。
ですから、首都を離脱する前にはどんな手を使ってでも、ペリクレスにお戻りいただきます」
「そ、そんな横暴な……」
トリシアがパタリとファイルを閉じて、小さな声で呆れる様に「何を今さら」と呟くと、マレーネがテトテトと歩み寄り、蒼褪めるナナシへと悲しそうな顔で上目使いに問いかける。
「……イヤ、なの?」
こういう態度を取られるとハッキリ言って、ナナシは弱い。
「そ、そんな……こ、ことは、無いです・・・け、ど」
はっきり否定することもできず、ナナシはますます項垂れた。
「ははは、諦めな! 男は往生際が肝心だぜ」
その時、いつの間にか艦橋に来ていたキスクが、背後からナナシの肩をポンと叩く。
振り向けば、キスクの背後にはヘイザの姿もあった。
完全に他人事。
確実に面白がっているとしか思えない物言いのキスクへとナナシは恨めしそうな目を向けるが、キスクは意に介する風もなく、マレーネへと問いかける。
「で、マレーネ嬢ちゃん。こんな朝っぱらから、俺達まで呼び出したからには何か用があるんだろ」
マレーネは小さく頷く。
「確認」
「首都に着いた後の行動についての単純な確認です。と、仰られています」
キスクは小さく肩を竦める。
「確認も何も、到着次第、俺たちはハヅキを連れてストラスブルへ直行だ。
その後は話の流れ次第だな。
特にハヅキの方で必要がなけりゃ、俺はアスモダイモスに戻るさ」
マレーネは小さく頷くと、ナナシの方へ顔を向ける。
「旦那様はサラトガ?」
「そうですね、僕らはサラトガへ。
ミオ様の事も気になりますし、ミリアさんにこの後の指示を仰ぐ必要もありますから」
ミリア。その名前が出た途端、キスクがハッとナナシの方へと顔を向けた。
「ミリアって家政婦だな? 髪の短い」
「ええ、そうですけど」
ナナシがそう答えると、キスクは慌てる様な素振りでヘイザを振り返る。
「ヤベぇ、ヤベぇ。ハヅキの事が衝撃的すぎて思わず、忘れるところだったぜ。ヘイザ、ストラスブルの方はお前に任せた!」
「えっ?!」
「俺もサラトガの方へ行くわ、そのミリアってヤツと、ちょっとした約束があるのを思い出したんだ」
「ちょ、ちょちょちょ、キ、キスクさん」
ヘイザがいくら慌てたところで、キスクは一向に気にする様子はない。
それどころか、何か妄想するように宙空を見つめては、ニヤニヤとしていた。
そうこうしている内に、ペリクレスの艦橋乗員の一人が突然、声を上げる。
「正面に首都視認!」
ナナシ達は一斉に艦橋正面の窓に目を向ける。
「どこです?」
「黒い線」
「地平線に黒い線が見えませんか? と、仰られています」
「そう言えば、何か薄らと見えますね」
「あれ」
「あれが首都です。と、仰られています」
「あれがって……。見渡す限り続いていますけど」
困惑するナナシの肩に馴れ馴れしく腕を回しながら、キスクが話に割り込んでくる。
「なんだよ剣帝。おまえ首都は初めてか? あれ全部が首都なんだぜ、なあ?」
キスクがマレーネに同意を求めるとマレーネは小さく頷き、トリシアに向かって顎をしゃくった。どうやら説明しろと言っているらしい。
「正確にはあれは不可侵領域と言う、砂洪水が全く発生しないエリアを城壁で囲んでいるものです。
不可侵領域自体の規模は80ファルサング(約480キロメートル)四方と巨大な物ですが、その内側の首都そのものは20ファルサング(約120キロメートル)四方程度ですね。」
「20ファルサングというと……」
「機動城砦で言うと約40城分ですね。
首都に選ばれた機動城砦は、その中央にある千年宮と永続的に接続され、首都の中核となります」
トリシアはさらりと言うが、機動城砦40城分と言われても、規模が巨大すぎてナナシにはどうしても実感がわかない。
「あの不可侵領域の城門をくぐり抜けて、一刻もすれば、首都に到着します。おそらく、本日、太陽が中天に昇るまでには到着出来るでしょう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ナナシ達が不可侵領域の巨大さに溜息を吐いた頃、サラトガでは、いつもより早く目の覚めたアージュが、寝台の上で一人物想いに耽っていた。
あの時、私は何を言えば良かったのだろう。
ミオが皇家の兵士達に連れて行かれる時に言ったアノ一言が、アージュには引っかかっていた。
馬鹿馬鹿しいとは思うが、下手をすれば最後の言葉にもなりうるその一言に、アージュは何も応えられなかったのだ。
アージュは隣りで眠るニーノの頭を撫でながら、一晩かけて思いついた渾身のボケを呟いてみる。
「領主が虜囚になっちゃった」
しかし、残念、それはボケではない。ただの駄洒落だ。
うーっと唸りながら、アージュは再びばたりと横になると、寝台の横の脇棚の上へと目をやる。
「……なあ、お前いつ帰ってくんだよ」
そう呟いたアージュの視線の先には、露店で買ったナナシ人形(非公式)があった。
残念ながら、着実にナナシフィーバーはサラトガにも伝播していたのである。




