第88話 僕達が飲みます
『火球』の破裂音を背後に聞きながら、『剽軽』と『若造』に引き摺られる様にしてミリアが廊下へと飛び出す。
『若造』が乱暴に扉を閉じると、『剽軽』がミリアを振り返って声を上げる。
「お嬢ちゃん、剣を捨てろ! 走るぞ!」
逃げるとなれば、使えもしない剣など重りでしかない。
ミリアは言われるままに、慌ただしく剣帯ごと剣を外すと、床の上に投げ捨てる。
『剽軽』がミリアの手を曳いて先頭を走りはじめ、剣を抜いて後ろを警戒しながら、『若造』が最後尾をついてくる。
「お嬢ちゃん、あの乳のでけえ姉ちゃんは何なんだ?」
『剽軽』は振り返りもせずに、ミリアへと尋ねた。
「シュメルヴィ様はサラトガの魔術師だよ。腕の立つ魔術師だとは聞いてるけど、どれぐらい強いのかは、ボクにはわかんない」
「腕の立つ魔術師か、それなら安心したぜ!
俺たちの逃げる時間さえ稼いでくれれば、魔術師ならどうとでも逃げられる算段があるんだろう。
女をただ犠牲にして逃げたとあっちゃあ、後で親方から大目玉をくらうからな」
長い廊下を走り切って、階段のところまで到達すると『剽軽』は『若造』に、剣をしまう様に指示する。
「いいか、ここから二階まで全力で駆け下りるぞ、二階から下は巡回兵もたくさんいるし、一緒にサラトガから帰ってきた連中もいる。
そこまで降りちまえば、奴も無茶はできねえはずだ。
そこから先は何食わぬ顔で城門を目指して、モルゲンの親方の使いって事でアスモダイモスから脱出するぞ、いいな!」
『剽軽』、『若造』、ミリアの三人は顔を寄せ合って頷き合う。
「よし、行くぜ!」
『剽軽』の掛け声とともに三人はそれぞれに、階段を駆け下り始めた。
足の速さでいえば、やはり『若造』が一番早い。
『若造』は、最後尾のミリアよりも数段先を駆け下りていったかと思うと、余裕ありげに時々振り向いては、ミリアの様子を気遣う素振りを見せる。
しかし3階へと続く階段の半ば、踊り場の手前で突然、『若造』がビクンと身体を震わせたかと思うと、前のめりに倒れ、糸が切れた操り人形のように、手足をあらぬ方向に振り回しながら、階段を転げ落ちていく。
「若造?!」
「若造さん?!」
ミリアと『剽軽』は、慌てて若造の元に駆け寄る。
しかし助け起こした時には『若造』が、既に息絶えているのは、誰の目にも明らかであった。
その額には鋭利なもので一突きしたような、大きな穴が穿たれていたのだ。
「ちくしょう!」
『若造』の身体を離して立ち上がると『剽軽』は剣に手を掛けながら、周囲を見回す。
『若造』の身に何が起こったのかは分からないが、ここに何かがいることは間違いない。
痛いほどの静寂が『剽軽』とミリアを包む。
時間の流れが遅くなっていく様な錯覚を感じて、『剽軽』の額にじわりと冷たい汗が滲んだその時。
「ふおっ、ふおっ、ふおっ」
今駆け下りてきた階段の数段上の辺りから、余りにもわざとらしい笑い声が響いた。
慌てて振り返るミリアと『剽軽』。
その視界に、ずんぐりと丸い男のシルエットが映る。
「ふおっ、ふおっ、ふおっ、ミリアさんお久しぶりですな。お元気でしたか」
「お陰さまでね。で、ボクはキミの事、どう呼んだらいいのかな?」
聞き覚えのあるその声に、ミリアの頬を一筋の汗がつたい、その様子を見下ろしながら、男は太鼓腹を揺らして、楽しそうに笑う。
「ボズムスで結構ですよ。少なくとも一部はそうなのですから」
サラトガが砂洪水に襲われたあの日。混乱のドサクサに紛れて消えた家宰ボズムス。いや、正確にはそれに成りすましたゴーレムであった。
「そう、旧交を温めるのも良いけど、ボク達は急いでるんだよ。又の機会にお願いしたいところなんだけど?」
ミリアが擦れた声で憎まれ口を叩くと、『剽軽』が剣を引き抜いて、ミリアを背に隠す様にボズムスの前に立ちはだかる。
「ふおっ、ふおっ、ふおっ、若い人は気が早くていけませんなぁ」
そう言って、にやりと口元を歪めると、ボズムスの口調がガラリと変わる。
「で、ネエちゃん。テメェもう分かってんだろ、マフムードの野郎が何企んでるのかをよぉ」
ミリアはボズムスをキッと睨み付ける。
「皇王暗殺。いや、国そのものの乗っ取りと言った方が良いんだろうね」
「へへへ、そこまで分かっているって事は、当然手を打ってるんだろうな」
「それはどうかな」
自分の推論の裏付けを取るために、ミリアはボズムスにカマを掛けたのだが、ボズムスの反応は、その推論の正しさを裏付けるものであった。
このやりとりに一番驚いたのは『剽軽』。
どこがどう繋がって、皇王暗殺に至るかはわからないが、少なくとも自分達アスモダイモスの兵達は、その片棒を担がされていたことを察したのだ。
「うわあああああああ!」
次の瞬間、暴発するかのように『剽軽』は雄叫びをあげながら、大上段に剣を振り上げてボズムスに切りかかる。
「おじさん! ダメぇぇぇ!!」
ミリアの絶叫。
しかし、その終わりを待たずに、カランカランと音を立てて剣が階段を転がり落ちると、『剽軽』は首筋から噴水の様に血を吹き出しながら、踊り場の床に膝から崩れ落ちていく。
「ああっ……」
ミリアの喉から嗚咽にも似た声が洩れる。
絶対絶命。
肉食獣の目の前に放り出された小動物のようなものだ。
しかし、そんな状況になればなるほど、因果にもミリアの思考は冷静に回転を始める。
自分がここで敵の手に落ちれば、どういう状況が発生するのかを一瞬のうちに頭の中でシミュレーションし終わると、ミリアの胸には一つの決断が宿っていた。
ボズムスはボクを殺さない。
でも、それではダメなのだ。
この状況で取ることのできるベストの選択。
それはここで自分が死ぬことだ。
自分が達した結論に小さく震え、ミリアは目を瞑る。
頭を過ぎったのは最愛の姉の姿。
ただし、その姿は下着姿のまま、ベッドの上でぼけっと胡坐をかいている寝起きの状態であったことに、思わず苦笑する。
さよなら、おねえちゃん。
ミリアが意を決して、舌を噛み切ろうとしたその瞬間。
音もなく、近づいたボズムスがミリアの口に指を突っ込んだ。
ミリアは、ボズムスの指ごと舌を噛み切ろうと顎に力を込めるが、そんなことは出来っこない。
息苦しさに思わず、涙が流れ落ちる。
ボズムスは、ミリアの口に指を突っ込んだまま、もう一方の手でミリアの腕を捩じり上げる。
そして、ミリアの耳元で囁いた。
「お前は俺達の切り札だ。死ぬのはもう少し後にしてもらおう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ミリアが敵の手に落ちたその頃。
ナナシ達を乗せたペリクレスは首都まで、あと二日という位置を疾走していた。
丁度その頃、ナナシとヘイザは二人して、わなわなと震えていた。
こんなことが許されていいのか?
こんな退廃的なことが本当に許されるのか?
驚愕とも怒りともつかない感情の渦の中、二人はただ互いに顔を見合わせて、言い難い想いに身を焦がしていた。
二人がいるのは、ペリクレスの上層階から張り出したデッキ。
人の手によって作り出され、並々と水を湛えた全長25ザールにも及ぶ長方形の背徳の泉がそこにある。
有体に言えば、プールである。
これだけの水があれば、砂漠の民の全員が一年は喉を潤すことが出来る。
産まれた時から、渇きを抱えたまま砂漠を旅する辛さを味わってきた二人には、それは受け入れがたい光景であった。
今、ナナシとヘイザの二人は、黒いオーラを纏いながらプールを、そして、そこできゃっきゃっと燥ぎまわる女達を、眺めている。
ハイビスカスの柄をあしらった黄色いビキニ姿のマリー。
それに手をひかれて、きゃっきゃと大騒ぎでバタ足を繰り返すピンクのワンピース水着を着たハヅキ。
マレーネは腰回りに短いスカートの様なヒラヒラがついた黒のワンピース水着で浮き輪に腰掛ける様にして、さっきからずっとぷかぷかと浮かんでいる。
ただ一人、股間の切れ込みも危うい青のビキニ姿の剣姫だけが、ストイックに何往復も泳ぎ続けている。
下着同然の恰好で燥ぐ、美少女たちの姿は普通であれば、余りにも魅惑的に見えたことだろう。
しかし、今のナナシとヘイザには、それも悪魔の所業にしか見えない。
プールサイドで、黒いオーラを放っているナナシへとマレーネが呼びかける。
「旦那様は泳がない?」
「旦那様は泳がないのですか、と仰られています」
ナナシ達の直ぐ隣りで、バスタオルを持って控えているトリシアがそれを代弁する。
「絶対無理です!」
ナナシがブンブンと首をふって断っている間にも、ヘイザはハヅキのバタ足によって、プールサイドへと水が飛び出す度に「ああっ」と声を上げている。
二人にしてみれば、それは黄金が無碍に捨てられていくのを見ている様なもの。
ナナシは震える声で、トリシアへと尋ねる。
「トリシアさん、泳いだ後、この水はどうするんですか?」
トリシアは顎に人差し指を当てて、目線を上へとやりながら応える。
「そうですね。定期的には入れ替えますから、古い水は捨てます」
「「捨てる?!」」
途端にヘイザが、驚愕の余りぶくぶくと泡を吹いて気を失う。
「気を確かに! ヘイザ! へ、ヘイザアァァァァ!」
絶叫しながら、ヘイザを助け起こすナナシ。
しかし、ヘイザが意識を取り戻したのを見届けると、ナナシは猛然と立ち上がり、大声を上げてトリシアに詰め寄る。
「そんなのダメです!」
ナナシの叫ぶような声に、剣姫は泳ぐことを、ハヅキはバタ足を止め、マリーとマレーネが目を見開いて注目する。
「捨てるぐらいなら……」
グッと拳を握り、俯いて唇を噛みしめるナナシ。
ヘイザが背後からナナシの肩をポンと叩き、二人は頷きあう。
そして二人は声を揃えて言った。
「「ぼ、僕達が飲みます!」」
その瞬間、時間が止まった。
引き攣った表情で口元をひくひくと震わせるトリシア。
意味もわからず、燥ぎ続けるハヅキの「キャッキャッ」という声だけが、砂漠の青空に響いていった。
ちなみに余談ではあるが、そこからは本当に酷かった。
マレーネとマリーが流石にドン引きして、そそくさとプールから上がると、遊び足りないハヅキが不機嫌になってバシャンバシャンと水面を叩きはじめ、プールサイドへと飛び散る水の量にヘイザは再び、泡を吹いて気を失った。
そんな最中、剣姫だけは通常運行。
主様にご満足いただける様、濃厚なお出汁が出るまで頑張りますと、「私は昆布」と謎の言葉を唱えながら、一層激しく泳ぎ始めたのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
更に同じ頃、舞台は首都へと移る。
皇王が住まう千年宮にほど近い、緑溢れる公園。
薔薇が蔦を絡めるアーチの下、そこを少女が一人、幼女の手をひいて歩いている。
傍目には、二人は歳の離れた姉妹の様に見えていることだろう。
それは皇姫ファティマとマーネ。
二人は、ゲルギオスを脱出した後、『飛翔』の魔法を繰り返しながら、つい先ほど首都へと辿り着いたのだ。
「ねぇ、マーネちゃん。私のお家、この薔薇園を抜けてすぐそこなんだけど、どうして帰っちゃだめなのかしら?」
マーネはじっとファティマを見つめる。
「おねいちゃんは、サラトガ伯を助けたい?」
「それはもちろん。だからお父様にお願いして……」
「無理、それじゃ助からない」
ファティマは小さく溜息をつく。
ミオは言っていた。マーネは絶対に嘘をつかないと。
「サラトガの家政婦は良い線までは行っている。でも、魔術師の罠を見抜けていないんだよ。
残念ながら、家政婦の策は失敗する。
その時にサラトガ伯を助けることができるのは、おねいちゃんだけなんだよ」
ファティマは、震える声で尋ねる。
「助けることが……出来るのね」
マーネは、ファティマをみつめたまま頷く。
「うん、サラトガ伯はね」




