第80話 その眼、ちょうだい。
話は少し時間を遡る。
白鳥を模したゴンドラがマレーネを乗せて、天井へと引っ張りあげられている頃、つまりは表彰式がスタートする1刻程前の事。
「貴様のせいで、もう表彰式には間に合わんではないか!」
「……申し訳ございません」
家々から洩れる精霊石の灯りが、石畳の道に陰翳を落とす宵の口。
裕福な人々の屋敷が集まる一画を一組の主従が歩いていた。
主の方は、見るからに上流階級の人間で、金糸銀糸の刺繍を施した絹服を身に纏った恰幅の良い男。それに付き従う従者は、全身こげ茶色に汚れきって、まるで沼から這い出てきたかの様なみすぼらしい姿の剣闘奴隷であった。
剣闘奴隷の全身に纏わりつく血の汚れは、つい数刻前まで死闘を演じていたという証ではあったが、今となってはパリパリに乾いて罅割れ、一部は既に白い粉状になって剥がれ落ち始めている。
それが、どんな背景を持っていようと、その姿はみすぼらしいとしか表現のし様が無かった。
従者の名はゴードン。恰幅の良い男はその主、メフメト卿である。
消耗戦決勝戦の後、ゴードンはナナシとは別の治療室に運び込まれたのだが、ナナシの飛び膝蹴りで叩き折られた鼻骨の治療が予想外に長引き、結果として、付き添っていたメフメト卿は散々待たされる羽目となった。
おかげで屋敷へと向かうこの帰り道、メフメト卿の機嫌は、非常に悪かった。
ゴードンからしてみれば、奴隷である自分の事など置いて、先に帰ってくれた方が気を使わずに済んで、むしろ有り難いのだが、そうしないあたり、少々気位は高くとも、メフメト卿はそれなりに善良な人間であることが見て取れる。
結局、ゴードンの折れた鼻が、何とか真っ直ぐに戻ったのは、つい先程の事。
これから一旦屋敷に戻って身支度を整え、急いで表彰式の会場へ向かったとしても、閉会の挨拶に間に合うかどうかというところであった。
ゴードンが悪い訳でも無いのだが、優勝を逃したこともあり、メフメト卿のゴードンへの風当たりは非常に強いものとなっている。
「あんな子供に負けおって、このミラクル馬鹿!」
「さすがにミラクルという程では……」
「うるさい、何処の世界に剣と鯖を間違う奴がおるか、このマーベラス馬鹿!」
「いやいや、ご主人。それが剣と鯖は意外と似ておるのです。色や形だけではなくて語感も」
「どこがだ!」
「サバとサーベル。つまりこんな感じです。さーば、さーヴぁ、さーヴぇ、さーヴぇる、サーベル! バンザーイ!」
「やかましい! 微妙に似てるのが、また腹立たしいわ!」
こんな調子で、ゴードンのボケにメフメト卿がひたすら喚き散らすということを繰り返している内に、二人は、いつの間にか屋敷へと到着していた。
ところが到着してみれば、見慣れた筈の屋敷の様子が、いつもとは少し異なっている。
いつもであれば下女が門の前で待っており、足元を照らして玄関まで先導してくれるのだが、今日に限っては誰もおらず、また屋敷そのものも暗く静まり返っている。
思わずメフメト卿は眉根を寄せた。
「灯りも点けず、出迎えもせんとは、下僕共は何をしておるのだ」
しかし、いつまでも外で突っ立っている訳にもいかない。
屋敷の玄関まで移動すると、ゴードンが警戒しながら玄関扉を開き、続いてメフメト卿がゆっくりと屋敷へと脚を踏み入れる。
屋敷の中は静まり返っていて、人の気配は無い。
玄関ホールの吹き抜けに備え付けられた、明り取りの窓から洩れ出ずる月光だけが、薄らと蒼く邸内を照らしていた。
見回せば、今朝屋敷を出る時に、倉庫へ運んで置けと下僕共に命じておいた木箱の山が、玄関ホールに積み上がったままになっている。
箱の中身は、早朝、南方からの商人が売り込みに来た海産物。
魚料理に目が無いメフメト卿が、全て言い値で買い取った物だ。
「ば、馬鹿にしおって、ぐうたら奴隷どもが! どいつもコイツも勘にさわるわ!」
顔を真っ赤にして猛り狂うメフメト卿。
「全員、売り飛ばしてやるから覚悟しろ! 後悔しても知らんぞ! ワシ程、寛大な主はそうはおらんのだからな!」
しかしメフメト卿のその怒鳴り声も、邸内の静寂に吸い込まれて消えていくばかり、屋敷の中からは物音一つ返ってこない。
まさか全員で逃亡したか? メフメト卿の頭の中をそんな考えが過ぎる。
逃亡奴隷は問答無用で殺処分。それが奴隷制度の根幹にある鉄則である。
特に惜しむほど可愛がっている者がいる訳ではないが、奴隷も財産の一部だけに、10人からの奴隷を失うとなれば、かなり大きな損失だ。
「誰か! 誰かおらんのか!」
「はぁーい」
メフメト卿の呼びかけに、必死さが少し滲み出てきた頃、間の抜けた返事をする者があった。
「どこだ? 誰だ?」
声は意外と近くから聞こえた様に思ったのだが、姿を見せる者はいない。
辺りを見回しながら、メフメト卿が木箱に手を掛けたその瞬間、バキッという音を立てて、木箱の蓋が跳ね飛んだ。
突然のことに、ウヒッ!と喉に何か詰めた様な声を上げて、メフメト卿が尻餅をつき、ゴードンは眼を鋭く細めながら、剣を引き抜く。
「キサラギさん、華麗に登場、じゃじゃじゃじゃーん!」
場違いに明るい声が玄関ホールに響き渡り、蓋が跳ね飛んだ木箱の中から少女が一人、両手を掲げるようにして立ち上がった。
間髪いれず、ゴードンは少女の首元へと剣を突きつける。しかし、少女は何ら怯えるような様子も見せず、ニコニコと微笑んでいる。
何者だ? そう言いかけてメフメト卿は、その少女に見覚えがあることに気付いた。
「お前は、今朝、魚売りの商人と一緒におった娘ではないか」
「あ、覚えててくれた? でもね。おじさんにはあんまり興味無いんだよね」
そう言って少女はメフメト卿から眼を逸らすと、自分に剣を突きつけているゴードンに微笑みかける。
「ねぇねぇ、お兄さん。アンちゃんとの試合見てたよ。面白いね、お兄さんは」
「アンちゃん?」
「アンちゃんのジゲンを見切れる人なんて、初めて見たよ。格好良かったなぁ」
『格好良かった』その一言にゴードンは、ついつい頬を緩める。
「なんだお前、俺様のファンか?」
「ファン? うん、そうだね。とっても良いと思うよ、全てを見切る眼なんて最高だよ」
「おう、お前、良くわかってるじゃあないか。でもなぁ、ファンなら少しは考えてくれ。こんな所まで押しかけられたら、ご主人にドヤされるのは俺様なんだぞ」
ゴードンは、にやけながら剣を下ろすと、少女に背を向けて、主に頭を下げる。
「ご主人、すいません。ウチのファンがこんなところまで来ちゃったみたいで」
しかしメフメト卿は、ゴードンのその言葉を解するだけの余裕を失っていた。
恐怖に引き攣った表情を浮かべ、後ずさるメフメト卿。
その視線は、ゴードンの背後で凶悪な形状に変貌していく少女の爪に釘付けになっていた。
メフメト卿の反応に、ゴードンが不思議そうに首を傾げたその時、少女はゴードンの肩越しにスッと顔を近づけ、耳元で囁いた。
「だからね」
それは、脳髄を痺れさせるような甘い声。
その短い一言が耳に入った途端、唐突に瞼が重くなって、意識が遠のいていく。
ゴードンは、抗い難い眠気の中、少女の爪が長く伸びて、主が貫かれるのを、まるで現実感の無い夢の中の出来事であるかのように見ていた。
「その眼、ちょうだい」
そして、少女のその囁きを最期に、ゴードンの意識は永久に途切れた。




