第79話 話はついております
「表彰式が始まるまでは、しばらく安静にしていてください」
治療が終わるとそれだけを言って、治癒担当の魔術師は部屋を出て行った。
ここは剣闘場に併設された医務室。
ヘイザとは、積もる話もあったのだが、ナナシは剣姫と代弁家政婦トリシアによって強制的にここへと運びこまれたのだ。
実際のところ傷の一つ一つは、見た目ほどに深くは無いが、自分の血と返り血で、比喩ではなく全身血塗れだ。
さすがに寝台を汚すのは躊躇われて、ナナシは椅子に座ったまま魔法による治療を受けた。
魔術師が出て行ってしまうと脇に立って、治療の様子を窺っていた剣姫が口を開く。
「お疲れ様でした、主様。痛むところはございませんか?」
「大丈夫。見た目ほどは、大したことは無いんです」
実際のところ傷は既にほとんど塞がっているが、流石に衣服まで回復するわけではない。血に汚れた肌や服はそのままで、確かにずいぶんと痛ましげに見える。
「流石にそのまま式典に出るわけには参りませんから。少しお待ちください」
そう言って剣姫は部屋を出て行くと、直ぐに湯を湛えた桶を手にして、戻ってきた。
「主様、服を脱いでください。身体をお拭きします」
石畳の上に跪いてお湯にひたした布を絞りながら、剣姫はそう言った。
自分でやると言っても、結局は押し切られるであろうことを想像してナナシは素直にフードマントを外し、短衣を脱ぐ。
言われるがままに行動する様になったあたり、大分ナナシも調教されてきていると言って良いかもしれない。
ナナシの背をしばらく無言で拭っていた剣姫が、耳元で囁く。
「主様」
「はい、なんでしょう?」
「仕方がないこととは、分かっていますが、ああいう戦い方は出来れば避けていただきたいのです」
傷つくことを厭わない、接近戦のことを言っているのだろう。
「僕がやられると思いました?」
肩越しに振り向いたナナシに、剣姫はゆっくりと首を振る。
「主様の勝利を疑うことはありませんでした、でも……」
背を拭く手が止まり、剣姫が俯いた。
「大切な方が傷ついていく姿に、胸を痛めない者はおりません」
「……すいません」
ナナシは、ゆっくりと顔を上げる剣姫と肩越しに見つめ合う。
小さく震える長い睫毛、オアシスの湖、その水底を思わせる澄んだ蒼い瞳。
ナナシは、あらためて剣姫の美しさに目を奪われた。
静かな部屋に、窓の外、通りを行きかう人々のざわめきが遠く響き、二人だけがどこか世界から切り離されたところにいる様な、そんな気さえしてくる。
剣姫がゆっくりと目を瞑ると、ナナシの目は剣姫の艶やかな唇に釘付けになって、どちらからとも無く互いに顔を近づけていく。
そして、唇が触れようかというその時。
バタン!
と、ノックの一つもなく乱暴に扉が開き、二人は飛び上がる様にして離れた。
「な、なんです?」
ナナシが扉の方へと目をやると、代弁家政婦トリシアが無表情に立っている。
「ノ、ノックぐらいしてください!」
顔を赤くした剣姫が、珍しく取り乱す様に言った。
しかし、トリシアはしれっとした顔で二人の様子を見回すと薄笑いを浮かべる。
「いえ、これは失礼しました。なにか不快な気配がしたものですから」
ナナシと剣姫はそう言って見つめてくるトリシアから、気まずそうに目を逸らした。
そして、コホンと一つ咳払いをしてトリシアはナナシへと向き直る。
「若様、あと一刻ほどで式典が始りますので、身支度をお手伝いしに参りました」
わかさま?
「あ、ありがとうございます」
動揺しながらも、とりあえず礼を言うナナシ。
そして思い出した様に幼馴染の事を尋ねる。
「トリシアさん、ヘイザはどうしましたか?」
「ご友人は、同行の方が外で待っているという事で、呼びに行かれました」
「そうですか」
誰か砂漠の民が一緒に来ているのだろうか?
「それとマレーネ様が、式典にはご友人がいらっしゃった方が、若様の気が楽だろうとおっしゃられましたので、ご友人にもご参加いただける様に手配しておきました」
「あ、ありがとうございます。ところで、そ、そのわかさまと言うのは……?」
しかしナナシのその質問は黙殺され、トリシアは後ろ手に持っていた服をおもむろに取り出して言った。
「今夜は若様が主役ですので、コチラに御召し替えください」
それは、金糸で飾り付けられた、真っ白な長い上着と同じように白い下袴。
「……派手すぎません?」
トリシアは何故か半笑いで、首を振った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
天使の姿が描かれた高い天井。
そして、コリント式の円柱に囲まれた白壁の大ホール。
剣闘場から渡り廊下で繋がる式典会場の扉を開けたその瞬間、ナナシは気後れしてしまった。
立食形式に設営された会場で、着飾った多くの男女が、飲物を片手に笑いさざめきあっている。
あまりにも縁遠いその光景に、ナナシは場違いさを感じて、思わず後ずさりした。
人々の好奇の視線が、一斉にナナシを貫く。
もちろんそこに悪意があるわけではない。
ナナシは、今大会の優勝者なのだ、注目を集めないはずが無いのだ。
今にも逃げ出しそうな様子のナナシの、その腕に、剣姫がそっと自分の腕を絡ませた。
「主様、私にお任せください」
最近、頓にアレな部分が目立ってはいるが、そもそも剣姫は永久凍土の国の貴族出身である。
こういう場面での立居振舞に関しては、幼い頃から経験し、熟練している。
傍目にはナナシが剣姫をエスコートしている。そう見える様に腕を絡め、緊張のあまり同じ手足が同時に前へ出かけるナナシの耳元で、「右、左、右、左」と小さく囁きながら、歩を進めさせる。
ぎこちなく緊張しながら歩を進めるナナシの隣で、悠然と微笑を振りまき、剣姫を見つめる男たちはその美しさにただ、溜息を吐いた。
「メフメト卿は一度屋敷にお戻りになられて、まだいらっしゃっておりません。準優勝の表彰はいかがいたしましょう?」
ナナシが入城したことを確認して、司会としてこの式典を取り仕切る、シャリス家の家宰がペリクレス伯に耳打ちする。
ゴードンの主、メフメト卿は気位が高い。
その顔を思い浮かべて、ペリクレス伯は小さく溜息をついた。
「あやつのことだ、優勝できなかったことでヘソを曲げたかもしれんな。かまわん準優勝の表彰は飛ばして、優勝の表彰に移れ」
「かしこまりました」
恭しくそう答えると、家宰は壇上へと登り、声を張り上げる。
「それでは、これより表彰式を執り行います。優勝のナナシ様!」
「ハ、ハイッ!?」
突然、大声で名前を呼びつけられて、ナナシは大袈裟に飛び上がる。
周囲からクスっと笑い声が洩れた。
「壇上へお上がりくださいませ。お付き添いの方もご一緒で結構でございます」
「は、はい」
「主様、落ち着いて。このマリスにお任せください」
慌てて駈け出そうとするナナシを窘めて、剣姫がナナシの耳元で囁く。
剣姫に牽かれるままに、ゆっくりとした足取りで登壇すると、壇上には細身だがどこか威厳を感じさせる壮年の男性が待っていた。
ペリクレス伯である。
長い髪を後ろに撫でつけて、豪奢なローブを羽織った壮年の男性。
たしかにどことなくマレーネと、面立ちが似ている様に思えた。
ペリクレス伯の前まで来ると、剣姫は組んだ腕を離して、ナナシから一歩後ろに退がる。
「今大会の優勝者! ナナシ様に皆様、大きな拍手をお願いいたします!」
家宰の言葉に、慌てて人々へ向けてナナシがペコリと頭を下げる。
万雷の拍手。
唯でさえ、人から賞賛されることの少なかったこの少年には、それは夢の中の出来事の様に思えた。
心臓が高鳴って、息苦しさを覚える。
余りの恥ずかしさに逃げ出してしまいたい気持ちで一杯になった。
「優勝のナナシ様には第5代剣帝の称号が贈られます。皆さま、親しみを込めて、剣ちゃんとお呼びください」
軽いな剣帝!
心の中でツッコみを入れたのは剣姫。
今現在のナナシに、そんな余裕はなかった。
緊張のあまり、目が眩みそうになって俯いたナナシの目の前に、スッと手が差し伸べられる。
慌てて顔を上げると、ペリクレス伯が満面の笑みをナナシに向けていた。
「主様、握手です。握手」
剣姫が後ろから小声でそう促し、ナナシは慌ててペリクレス伯の手を握る。
「ナナシ様には、まず副賞として金貨500枚とご領主様に願いを1つ言う権利が贈られます」
ナナシはハッと気付いて、慌ただしく口を開く。
そう、これこそが剣闘トーナメントに出場した目的なのだ。
「ぼ、僕の願い事は、」
ナナシが慌てて、そう言いかけるのを、握手しているのとは逆の手で遮って、ペリクレス伯は小声で囁く。
「待ちたまえ。マレーネから聞いておるよ。サラトガ伯の無罪へと票を投じるということだろう? 聞かれると良い気がしない者もおるだろうからな。それは後にしよう」
笑顔を崩すことなくペリクレス伯はそう言い、ナナシは小さく頷いた。
「そして最後に優勝賞品の入場です」
入場?
おかしな言い回しだなとナナシが首を捻った途端、どこからか歯車の回る様な音が聞こえてくる。
周囲を見回すと、皆がざわめきながら、ナナシの上の方を見ていることに気付いた。
ナナシがゆっくりと上を見上げると、頭上を白鳥を模した巨大なゴンドラが降りてくるのが見えた。
え? なんじゃこら?
まだ何が起こっているのか理解できず、ぽかんと口を開けているナナシ。
次第に降りてくるゴンドラの上、純白のドレスに身を包んだマレーネの姿が見えた。
「優勝賞品は領主様ご令嬢、マレーネ様です。」
家宰のその言葉に会場中が色めき立つ。
「マレーネ様とのご成婚ということなのか?」
「ということは、あの少年が次代のペリクレス伯ということか?」
驚きの言葉が会場中を飛び交う。
ナナシが困惑のあまりオロオロしていると、握手しているペリクレス伯の手に俄かに痛いほどの力がこもる。
そして押し殺すような声で、ペリクレス伯が言った。
「ワレェ、ようもウチのかわいいマレマレを傷モンにしてくれたのぅ、しゃあないから婿養子に向かえて、死ぬまでイビリ倒してたるからなァ、往生せえや」
驚いて見上げるとペリクレス伯は、顔は満面の笑みのまま、こめかみには極太の青筋が浮かび上がっている。
ヒィィィィィィ!
ナナシが声にならない叫び声を上げた途端、背中に戦慄が走る。
背後から凄まじい冷気を感じて思わず振り向くと、満面の笑みを浮かべた剣姫の足元が凍り付きはじめていた。
マ、マズい!
「け、剣姫様、逃げましょう!」
ペリクレス伯の手を振りほどくとナナシは剣姫の手を牽いて、この会場から脱出すべく、走り出そうとした。
ミオの救出は失敗してしまうことになるが、それはもう別の手を考えよう。このままでは怒り狂った剣姫が、機動城砦ペリクレスごと沈めてしまいかねない。
しかし、ここで予想外のことが起こった。
ナナシの手を握り返した剣姫は、逃げようとするナナシを引きとどめて、こう言ったのだ。
「この話、お受けください。主様」
思わぬ剣姫の言葉に。ナナシは「へ?」と間抜けな声を洩らす。
「マレーネ殿とは話が付いております」
「ど、どういうことですか?」
「申し上げた通りです。
私が第一夫人、マレーネ殿が第二夫人、将来ペリクレスはマレーネ様との間に生まれる子供が継ぐということで話はついております。
イヤなことはイヤですが、主様の出世を邪魔するわけには参りません。
後で城壁の外へ出て、二、三発も「蹂躙の吹雪」を打ち込めば大丈夫。きっと気が晴れます」
剣姫は、比喩ではなく血の涙を流しながらそう言った。
万事休す、外堀が完全に埋まり切っている。
むしろ外堀があったところが、こんもりと盛り上がっているぐらいの勢いである。
しかし、ナナシはそれでも足掻く。
「ぺ、ペリクレス伯様、ちょ、ちょっと、僕の話をですね」
「お義父さんと呼びなさい。貴様が次期ペリクレス伯なのだ。妻ぐらい何人いてもワシはかまわん。」
ペリクレス伯は、全く聞く耳を持っていなかった。
そして、遂にゴンドラが壇上へと到達すると、魔法で焚かれたスモークの中からマレーネがナナシの前へと降りてきた。
「不束者」
「不束者ですが、これからよろしくお願いします、旦那様。と、仰られています」
マレーネの一言を背後に控えていた家政婦が代弁する。
「あ、あの、えーっと」
周りに助けを求める様に視線を泳がせた後、ナナシはそのまま力なく、肩を落とした。
 




