第76話 変わった剣
深夜、ペリクレス伯とマレーネの話題が婚礼の段取りへと移った頃、機動城砦ペリクレスが停泊するオアシスからわずか1ファルサング(約6km)の位置まで近づいて、機動城砦ゲルギオスは停止した。
当然、この位置までゲルギオスが接近している事など、ペリクレスの管制員は把握しているはずで、如何に好戦的ではないペリクレスと言えど、皇王への反逆者と認定されたゲルギオスが、これ以上近づいたならば、戦闘へと発展することは避けられない。
接近できるギリギリのラインがこの位置であった。
機動城砦ゲルギオスが停止して、しばらくするとその城門が開き、稼働橋の上を、二頭の驢馬に引かれた荷馬車が引っ張り出される。
荷馬車とは言っても、その車体を支えているのは車輪ではなく橇のような2枚の細い板。車輪では、沈み込んでしまって砂漠を走ることは出来ないのだ。
荷馬車に乗っているのは二人。御者台には男が一人、後部の荷台には大量の荷物と共に、少女が一人乗り込んでいる。
「キサラギ様、出発します」
「うん、良いよ。出して」
男が、手綱を弾くと驢馬がゆっくりと荷馬車を牽いて動き出す。
「ねえ、シュルツぅ、この荷物なんなの?」
「魔法で冷凍した魚介類です」
「魚介類?」
砂漠の国エスカリス・ミーミルも、最南端へ下れば豊かな海へ出る。
そこで獲れた海産物は魔法で冷凍されて、各所へ出荷されるのだが、流通手段の乏しさから、凡そ庶民の口には入らない高級品となっている。
「はい、南方の商人から買い付けた冷凍の魚介類が倉庫に残っておりましたので、南方から行商に来た商人という名目でペリクレスに入城します」
「ふうん、そんな回りくどい事しなくても、ペリクレス程度だったら砂巨人で襲えば、陥落させられると思うんだけど?」
キサラギのその大雑把な意見にシュルツと呼ばれた男は眉を顰める。
「キサラギ様、我々は皇王だけでは無く、マフムードからも反逆者として追われる立場でございます。もっと慎重にお考えください」
キサラギはつまらなさそうに口を尖らせて「はーい」と気の無い返事をする。
何を敵に回したって、アンちゃんさえ手に入れてしまえば、アタシの勝ちなんだけどなぁ。
そう胸の内で呟いて、キサラギは、そのまま荷台に寝転がった。
本人たちは知る由もないが、この日ゲルギオスから出て行った人間は、彼女達を含めて8名にのぼった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『皆様! お待たせいたしました!これより『決勝戦』を開始します! 選手入場です。まずは左舷のゲートにご注目ください』
剣闘場に流れるアナウンスを聞きながら、マレーネはナナシに言葉を投げかける。
「一撃で仕留めろ」
「わかりました」
二人は、互いに頷き合って、通路の向こう、アリーナの方へと向かう。
「シャリス家の剣闘奴隷、ランキング無し、マリスのナナシッ!!」
自分の名前をコールされると共にナナシは、アリーナへと足を踏み出す。
刹那、大地を揺るがすような大歓声に迎えられて、ナナシは少し戸惑い、足を止めた。
そんなナナシの腰をパンと叩いて、ヴェールの奥からマレーネが囁く。
「飲まれてどうする」
「す、すいません」
そのままマレーネはセコンド席へ向かい、ナナシはアリーナの中央へと歩きはじめた。
ぐるりと観客席を見回すと、所謂ナナシ応援団は今も拡大を続けている様で観客席の1/3ほども、ナナシそっくりの白のフードマントを羽織った女性客が占めている。
どうやらレプリカフードマントは剣闘場の売店で絶賛発売中らしく、ナナシは、先程マレーネが商人らしき男にライセンス料を要求していたのは、これの事かと思い至って、苦笑した。
黄色い歓声が飛び交う中、「ナナシくーん」と呼びかける声がたまたま耳に入ったので、そちらに向かって軽く手を振りかえすと、それとは逆方向の貴賓席の辺りに禍々しい殺気が立ち昇る。以降、ナナシは歓声へのリアクションを自重する事にした。
ナナシがアリーナの中央へと辿り着くと一旦歓声は鎮まり、次に対戦相手がコールされる。
「メフメト家の剣闘奴隷、ランキング第3位、地獄死ゴードンッ!!」
途端に剣闘場を覆ったのは、ナナシを凌ぐ大歓声。
男性ファンが多い様で、声援そのものが野太い。
その歓声の中には「あほー!」という声も多数混じっているが、そこに貶める様なニュアンスはない。むしろ客観的に聞いていても、愛されていることがわかるような温かい声援に思えた。
ナナシは逆サイドのゲートから姿を現す、対戦相手へと目を向ける。
はっきり言って、マレーネから事前に聞いている話はものすごく偏っている。
正統派の剣士、凄く強い。でもアホ。
どうにも人物像を描けないままに、時間が経過して今に至る。
対戦相手はゆっくりとした足取りで、アリーナの中央へと歩いてくる。
油をべっとりと塗って、後ろへと撫でつけた髪。
精悍な顔立ちと屈強な体つき。
その風貌は幾つもの修羅場を超えてきた、歴戦の戦士といったところである。
にも拘らず、観客席からは男の姿を見るやいなや、指をさして笑う人の姿と「あほー」という愛のある声援(?)が絶えない。
遂にアリーナの中央で向かい合う決勝進出者の二人。
ナナシ、そしてゴードン。
ナナシは、目の前に立っている男の徒ならぬ殺気を敏感に感じ取っていた。
この人は、確かに強い。
ゴードンはナナシの身体を上から下まで見回すと、むっつりと不機嫌そうな顔のまま口を開いた。
「お前が噂の新人か。俺様ほどではないが、ずいぶんと強いらしいじゃないか」
尊大な口調、威圧するような態度。
ナナシからしてみれば、こういうタイプは珍しくもない。
しかし、実力が伴っているケースは非常に少ない。
「胸を借りるつもりでがんばります」
ナナシはいつも通りの腰の低い態度。しかしナナシのその言葉を聞いた途端、ゴードンは片眉を跳ね上げて、小声で「む、胸?」と呟く。
その姿は何かに驚いている様に見える。
そして額の汗を拭うような仕草をみせると、何故か少し上ずった声を出した。
「い、いぃだろう。俺様も胸には自信がある。たっぷり揉みしだくつもりでかかってこい」
「揉みしだ……」
思わずナナシがツッコみかけると、セコンド席からマレーネが大声で叫んだ。
「ツッコんじゃダメ!」
そうだった。ナナシは思い返す。
今朝、マレーネから出来るだけツッコまない様にとアドバイスを受けていたのだ。
マレーネによれば相手はとんでもないアホなのだから、相手のボケで自分のペースを乱されるのは愚の骨頂というわけだ。
慌てて押し黙るナナシに向かって、ゴードンはさらに話を続ける。
「但し、あんまり揉むと母乳が出るかもしれんから気をつけろ」
出んの?!
思わずそう言いかけて、唇を強く噛む。
ぷるぷると肩を震わせて耐えるナナシを気にも止めず、腕を組んで顎の下に指をあてると、ゴードンは独り言のように呟いた。
「いや、待てよ……男だったら父乳か?」
どうでもいいよ!!
ナナシが心の中で絶叫する。
そもそもナナシはツッコミ体質の人間である。
このボケっぱなしの男を放置しなければならないと思うと、気が遠くなりそうだった。
しかし、そんなナナシの胸の内を知ってか知らずかゴードンの話は終わらない。
「乳から父が出ると思うと人体の神秘を感じるな」
「逆! 逆!」
それでは、ミルク風呂から飛び出すおっさんではないか。
さすがに今のはツッコまざるを得ない。
マレーネが額を押さえて天を仰ぐのが見て、ナナシはツッコまないと言う自分の決意をあっさりと突破されたことに気付いた。
なんだこの人は……。
ナナシは、胸の奥に恐怖に似た得体のしれない感情が湧き上がるのを感じた。
そして、ついに試合開始のブザーが響き渡る。
ナナシはいつもどうり、構えも取らずに相手の出方をみる。
話さえしなければ、心を乱されることもない。そう自分自身に語りかけて、心の乱れを抑え付けた。
これまでの相手と違い、ゴードンも後ろには引かずその場で、腰から得物を引き抜く。どちらかが一歩踏みこめば、相手へと届く所謂『どつきあい』の間合いである。
ゴードンは手にした得物をナナシへと突きつける。
その瞬間、ナナシはその得物と目があった。
観客席の剣姫は、ゴードンが手にしている物を自分の見間違い、そう信じて直ぐ隣りに座る代弁家政婦のトリシアへと語りかける。
「はは……変わった剣ですね」
「あれは……。鯖ですね。冷凍の」
「さ、鯖?」
「ええ、腹が白いので、多分真鯖です。かなりお高いですよ」
剣姫は聞かなかったフリをして、再びナナシへと視線を戻す。
うん、アレは剣。銀色だし。剣姫は現実を見ることを拒んだ。
「あの……ゴードンさん?」
「なんだ、恐れるのも無理はないが、命乞いするには早すぎるぞ、新人」
ナナシがおずおずと問いかけると、余裕ぶった雰囲気を醸し出しながら、ゴードンが鷹揚に応える。
ナナシはそこでもう一度躊躇する。しかし言わなければ話が進まない。
「それは何…ですか?」
「何って、貴様……うわああぁ! いつの間に俺様の剣が鯖に!?」
陽光を反射して輝く鯖。その鯖を手に慌てふためくゴードン。
しかしナナシのじとっとした視線に気づくと、ゴードンは鯖を片手に、何事も無かったように振る舞おうとする。
「ふっ……。家を出る時に取り違えた様だ」
取り違えた? 剣と? 鯖を?
それが本当なら、アホという言葉で表現できる領域をぶっちぎっている。
「まあいい」
「いいんですか?!」
「君ごとき鯖で充分だ」
ビシッと再び鯖をナナシに向かって突きつけるゴードン。
再び、コンパスで書けそうな鯖の丸い目と、ナナシは目があった。
魚類の目って何を考えているのかわからないよな。
この時、ナナシは現実逃避気味にそう思った。
「いや、あの……。さすがに決勝戦ですから、観客の皆さんもさすがに鯖で戦われたら怒りますよ。代りの剣を取ってくる間ぐらい待ちますし……」
「むむっ、そうか」
そして、アナウンスが一時中断を観客に伝える。
観客は中断前の鯖を巡る一幕にやんやの喝采である。
中にはナナシにも鯖を持たせて鯖でドつき合いさせれば良いという声まで上がった。
それが決勝戦では、さすがにこれまで散っていった剣闘奴隷達が報われない。
ゴードンが一時退場したので、ナナシはセコンド席のマレーネの元へと向かう。
「どう? ヤツの恐ろしさがわかった?」
何故かちょっと得意げなマレーネの物言いにナナシはイラッとした。
「全く狙っていなさそうなのが、恐ろしいですね」
マレーネはコクリと頷く。
「無視するのが一番」
「わかりました」
しばらくしてゴードンが戻ってくると、再び試合開始のブザーがなった。
「待たせたな! さあ仕切り直しだ!」
そう言って、突きつけてきたのはやっぱり鯖。
再び鯖と目があったナナシは、「やあ!」という鯖の声が聞こえたような気がした。
「……いや、ゴードンさん? 剣を取って来たんですよね?」
「うむ、剣ならばここにある」
確かにゴードンの腰には、鞘に収まった剣がぶら下がっている。
「じゃあ、何で……」
「私は騙されないぞ!」
ナナシの当然の疑問に、ゴードンは芝居がかった態度で大声を上げる。
何言ってんの、この人? それがナナシの偽らざる気持ちであった。
「ズバリ、貴様の弱点は鯖だ!」
ビシッとナナシを指さして、ゴードンが叫ぶ。
その瞬間、
「「「「なんだってえぇ!」」」」
と、観客がノリノリで合いの手を入れた。嫌なコール&レスポンスである。
腕を組んで鯖を抱え、ゴードンはナナシの周りをぐるぐる回りながら話始めた。
「おかしいと思ったのだ、鯖を突きつけられた時の貴様の挙動不審な態度」
「いや、普通この場面で鯖突きつけられたら挙動不審になりますよね」
至極真っ当な筈のナナシの返答は黙殺され、ゴードンはお構いなしに結論に突入する。
「隠しても無駄だ。自分の苦手な鯖を突きつけられて動揺した貴様は、口車で俺様に鯖を手放させようとした。そうだろう!」
そう言って、また鯖を突きつける。
鯖と目が合うのも4度目ともなると、ちょっと可愛く見えてくる不思議。
しかし幾ら温厚なナナシにも我慢の限界というものがあった。
「さすがに、もういいです」
そう言って小さく溜息を吐くとナナシは腰を落として、愛刀の柄に指を這わせる。
「一撃にして一殺と心せよ」
身体中の神経に気を行き渡らせながら、心得を唱える。
雑念が風の無い水面の様に静まり、目の前にいる男の身体にこれから刻む剣線が浮かぶ。
ナナシの神速の抜刀。
心の目が見た剣線に軌道をあわせてスッと引く。意識の上では、それだけの行為。
ナナシの両の手に、手ごたえが残る。
胴体を真っ二つにされて、地面へと転がった。
鯖が。
(※この鯖は大会スタッフがおいしくいただきました。)
観客が一斉にどよめく。
ふざけ続けるゴードンに対して、ナナシが鯖を切り落として抗議した誰もがそう思った。
そうで無いことが分かっているのは、当のナナシと、剣姫。そしてゴードンだけ。
ナナシは確かにゴードンを切った。そのつもりであった。
「鯖がなかったら、危ないところだったぞ、新人」
驚愕の表情を浮かべるナナシに、ゴードンは賞賛する様にそう言った。
しかし、その声はナナシには届いていない。
何が起こった? ナナシは、ただ呆然と自問を繰り返している。
そんなナナシを見やりながら、楽しそうにゴードンが囁く。
「面白い技を使うなぁ、新人」
そう言うとナナシの構えを真似する様に、腰を落として剣に指を這わせる。
似ても似つかない不格好な構え。重心の位置も出鱈目だ。
「たしか、こんな感じか?」
しかし、ゴードンが呟いたその瞬間、ナナシの身体中の神経が警告を発する。
有り得ないほどの殺気が走り、戦慄がナナシの背中を凍らせる。
ナナシは、全ての力を逃げることに充てて、なりふり構わず後方へと飛んだ。
おそらく観客の目には、突然ナナシが後ろに向かってはじけ飛んだ様に見えたことだろう。
次の瞬間、ナナシの短衣の胸元が横一文字に切り裂かれた。
それは間違いなく『ジゲン』の一撃。
ナナシの目に微かに見えたゴードンの剣線も『ジゲン』のそれに相違なかった。




