第75話 何で脱いだ。
「勝者! マリスのナナシッ!!」
試合終了のアナウンスと共に観客席から、弾けるように歓声が上がる。
試合途中に起こった宙空での爆発や、外周部とはいえ領主の娘がアリーナへと乱入したことなど、とかく話題となりそうな出来事の多い試合であった。
ほとんどの観客には、これら一連の出来事の意味するところはわからなかっただろうが、少数ながらも何が起こったのかを正しく察している者もいる様だ。
時折、インゴに対して辛辣な罵声を浴びせる声が聞こえるのは、その証左と言って良いだろう。
神聖な剣闘試合で、不正を働いたのだ。
インゴとその主には相応の処分が待っているであろうことは想像に難くない。
ナナシは、弱々しく座り込む可哀相なインゴを見下ろしながら、構えた刀を下ろして、肩の力を抜く。
そして、「ふぅ」と小さく息を吐いたその途端、何処からか飛んできた白い塊がナナシの側頭部を強打した。
『目の前を星が飛ぶ』そういう表現をすることがあるが、それが決して比喩ではないことをナナシは改めて知る。
「う~ん」
唯でさえナナシは満身創痍。
この一撃がトドメとなって、唸るような声を上げたのを最後に、意識を手放した。
次にナナシが目を覚ましたのは、剣闘場の医務室。
その寝台の上であった。
首だけを動かして窓の方へと目をやると、外はとっぷりと日も暮れて、剣闘場の傍の家々からは、淡い精霊石の灯りが洩れている。
どうやら、ずいぶんと長い間、気を失っていたらしい。
試合が終わった途端、何かが頭にぶつかって気絶した。
ナナシもそこまでは覚えている。
ただ、何にぶつかったのかまでは分らない。
おそらく、酔っ払った観客が酒瓶でも投げ込んだのだろう。
寝ている間に魔法で治療してくれた様で、身体に痛むようなところはどこにも無かった。
目が覚めた以上、いつまでもここにいる理由はない。
とにかくペリクレス城へ戻ろう。
そう考えて、早速起き上がろうとすると、毛布の下でナナシの身体の脇にぴったりと寄り添うように寝ている人物がいることに気づいた。
しかし、ナナシに慌てる様子はない。
朝起きたら隣に剣姫が寝ているなんていうのは、最近では日常茶飯事である。
このパターンには、さすがに僕も慣れました。
ナナシはそう苦笑しながら、毛布をめくる。
「剣姫様、起きてくだ……えっ?! ええええええ!」
しかし、そこにいたのは剣姫ではなかった。
「マ、マレーネさん?!」
そこには、ナナシの身体にぴったりとしがみ付いて、静かに寝息を立てるマレーネの姿があった。
「ううん……」
長い睫毛が微かに揺れて、形の良い唇から掠れた呻きが洩れる。
精霊石の薄明かりの下、女の子の寝顔を見ては失礼だと思いながらも、目の端で、マレーネの寝姿を確認して、ナナシは思いっ切り硬直した。
上半身は薄いシャツ一枚。下半身はというと、辛うじてシャツの裾で隠れてはいるものの、ちらりと白い布地が覗き、そこから布地よりも更に白い脚がすらりと伸びている。
慌てて目を背けると、石畳の床に今日彼女が着ていたはずのハイウェストのスカートと黒いタイツが、乱雑に脱ぎ散らかされているのが見えた。
「何で脱いだ」
虚ろな目で呟くナナシ。
冷静に考えれば、皺になるからだとか、そんな理由が思い浮かぶはずなのだが、今のナナシにそれを求めるというのは酷というもの。
この状況は既に、ナナシの理性の許容範囲をぶっちぎっている。
ナナシが言葉を失って茫然としていると、ぐずぐずと目を擦りながら、マレーネが不機嫌そうに身体を起こした。
「……騒がしい」
「騒がしいじゃありません。スカート! スカートを穿いてください!」
床に脱ぎ散らかされたスカートを指さしながら、ナナシが必死の形相で叫ぶ。
寝ぼけ眼でナナシの指差す先、自分のスカートの方をぼんやりと眺めた後、マレーネはナナシへと向き直ると頬を染めた。
「気にすると恥ずかしい」
「気にしなくても、恥ずかしいです!!」
叫ぶようにそう言うと、ナナシはしがみつくマレーネの手を振り切って、寝台から飛び降りる。そして、そのまま壁際を張り付く様に部屋の隅へと移動して、マレーネから距離を取った。
「なにしてるんです! マレーネさん」
マレーネは、ナナシが慌てている理由がわからないとでも言いた気な表情を浮かべて、少しめんどくさそうに頭を掻く。
「ついウトウト」
「ついウトウトで、がっつり寝台に入ってくる人初めてみましたよ」
脱力するように俯くナナシ。
しかしそこで、はたと思い至る。
剣姫様はどうしたんだ?
そう、この状況をあの銀嶺の剣姫が黙っているわけがない。
勘違いで、紅蓮の剣姫に衝撃波を放ち、サラトガ城に風穴を開けたことも記憶に新しい。
もし、こんなところを見られたならば、はっきり言ってマレーネの命に係わる。
ナナシの背中から一瞬にして、どっと汗が噴き出した。
「け、剣姫様は?」
その問いかけは何か、マレーネの機嫌を損ねる様なものであったらしい。
マレーネが憮然とした表情を浮かべて口を尖らせる。
「ここにはいない」
しかし、この際マレーネの機嫌など問題ではない。
ここに剣姫はいない。その事実にナナシはホッと胸を撫で下ろした。
あからさまに弛緩するナナシを不思議そうに眺めながら、マレーネは口を開く。
「剣姫なら先に帰らせた。服が破れたから」
「破れた? 何かあったんですか?」
ナナシのその返答に、マレーネは一瞬目を丸くした後、肩を竦める。
あれだけの大きな爆発だったのに、この様子を見る限り、この少年は剣姫が魔術師を撃墜したことなどは、気づいて居ない様だ。
何らか不正をされていた事には、さすがに気付いているだろうが、それがどんな不正だったのかまでは、まだ思い至っていないのだろう。
この少年も、それだけ必死だったのだ。
剣姫やマレーネの活躍は、この大会の記録映像には残されるだろうから、後でそれを見た時、この少年はどんな顔をするのだろう。
そう思うと、マレーネは俄かに楽しくなった。
というわけで、マレーネはナナシの問いかけを放置して話題を変える。
「怪我は?」
「痛いところとかは、もう無いです。結構疲れてますけど、それも今晩ゆっくり休めば大丈夫だと思います」
その回答に怪訝そうに眉根を寄せると、マレーネはゆっくりと寝台を降りる。
そして、てけてけと小走りにナナシに駆け寄ると、ずいっと顔を近づけてきた。
「な、なんです?」
迫りくるマレーネを避ける様に、ナナシは壁に背をつけたまま、ずりずりと床に座り込んでいく。
気がつけば、ナナシの目の前にはマレーネの無防備な胸元。
今気づいたが、身体全体の発育に比べてマレーネの胸は相当に豊かだ。
シュメルヴィ程では無いにしろ恐らく、セファルと同程度のサイズはありそうに思える。
ナナシの視線がその一点に注がれているのを気にも留めず、マレーネはナナシのこめかみに指を伸ばすと軽くそこを撫でた。
「ここ、まだ赤い」
それは、マレーネの頭突きが炸裂したあたりである。
ナナシは目のやり場に困った末に、目を閉じて上擦った声で返事をする。
「そ、そんなの唾でもつければすぐに治りますから!」
はっきり言ってナナシは必死である。
マレーネに離れて欲しいという意味を込めてそう言ったのだが、マレーネにはそれは伝わらなかった。いや伝わっていたのかもしれないが、無視された。
「わかった」
一言そういうと、マレーネはナナシのこめかみをペロリと舐めた。
「ひゃっ!」
ナナシが情けなくも女の子のような声を上げると、マレーネはさらに勢いづいて、ナナシの頭を両手でつかむと、ひたすらこめかみをペロペロと舐め上げる。
「ちが! 違います! そういう意味ではなくて!」
「奴隷の面倒を看るのは主の務め」
必死で振り払おうとするナナシを押さえつけながら、マレーネは楽しそうにナナシのこめかみに舌を這わせる。
その行為はナナシが力尽きて、抵抗しなくなるまで続いた。
恐らくナナシのこめかみは、他の人間が舐めたところでもう何の味もしないだろうと思われた。まあ、誰も舐めることはないだろうが。
数分後、息も絶え絶えなナナシを満足げに見下ろしながら、マレーネは口を開く。
「明日は勝ってもらわないと困る」
「……が、がんばります」
「次の対戦相手は強い。アホだけど」
「アホ?」
怪訝そうに尋ねるナナシに、マレーネはコクリと頷く。
「ランキング第3位地獄死のゴードン。
正統派の剣士だが、すごいアホ。
次期領主として、アレに剣帝を名乗らせるのだけは絶対に避けたい」
「地獄死……なんだかスゴイ二つ名ですね」
マレーネは無言で首を振る。
「最初、剣帝のゴードンと登録しようとして却下された」
「それは、なんというか……すごい自信家なんですね」
「違う。アホなだけ。次に『なんとなく他の奴とは違う俺カッケー』的な発想で、異端のゴードンと登録して、その痛い二つ名と数々の痛い発言で、剣闘界を爆笑の渦に飲み込んだ」
「爆笑?」
「そう、爆笑」
ナナシは今一つマレーネの言わんとしていることが理解出来ず首を傾げる。
「こんな筈じゃなかったと、やけになって二つ名を変更。異端から何を思ったのか、健康のゴードンになって、ついこの間、それをさらに捻って地獄死のゴードンになった」
「…………」
二の句が継げないというのはこういうことを言うのだろう。
ナナシの微妙な表情を見ながらマレーネは頷く。
「典型的な捻りすぎて、訳が分らなくなってるパターン」
「め、迷走してますね」
「でも……」
急に真剣な表情になって、マレーネはナナシの目を凝視した。
「一撃で倒せなかったら、お前ではたぶん勝てない」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ナナシが医務室に運び込まれた頃のことである。
ペリクレスが停泊するオアシスからわずか6ファルサング(約36km)のところを機動城砦ゲルギオスは東に向かって低速移動していた。
そのゲルギオスの繁華街にある宿屋の一室でのこと。
「旦那様、朗報です!」
ドアを開けて飛び込んで来たのは楚々とした黒髪の少女。
外見と中身のギャップの大きさで言えば、チャンピオン級のこの少女。
名をマリー。ご存知、嘘つきマリーである。
「ああん?」
テーブルに肘をつきながら、キスクは気だるそうにマリーへと目を向ける。
「今、角の食堂のおばさんに教えてもらったんですけど、今晩、ゲルギオスがオアシスに着くみたいです」
「おお、意外。ホントに朗報だ」
キスクが目を丸くする。
「どういう意味ですか」
「自分の胸に手を当てて考えてみろ」
マリーは両手を自分の胸に手を当てて、そっと目を閉じる。
「ちっとも思い当たることがありません」
「一周回って、スゴいわお前」
呆れる様に肩を竦めるキスク。
しかし、確かにこれが朗報であることには違いない。
「とにかくゲルギオスから脱出するチャンスだ。俺達はどうあっても首都に向かわなきゃならねえ」
サラトガから試作型の砂を裂くもので飛び出したキスクとヘイザは、様々な経緯を経て、マリー達の待つ宿の一室に戻っていた。だが、いつまでもここに隠れているわけには行かない。
反逆者として認定されてしまったゲルギオスが、首都に向かうとは考えにくい。何処かでゲルギオスを降りて、他の機動城砦に乗り換える必要があった。
しかし、キスクの言葉にマリーは眉を顰める
「私は首都はちょっと……」
「うるせえ、首都に行くの! 絶対行くの! ハニーとのデートが待ってるんだぞ」
キスクは駄々っ子のような物言いで、マリーの意見を即時に却下。
ヘイザの幼馴染を探すという名目もあるが、キスクが首都へと向かうことに是ほど積極的なのは、ミリアの「お姉ちゃんとデートさせてあげる」という言葉が理由に他ならない。
「ハニーとのデート」その言葉に、マリーはムッとした表情でキスクに言い放つ。
「空想上の恋人の話はもう良いですから!」
「空想ちゃうわ!」
「もし実在の人物だとしても、どうせヘタレ旦那様のことだから、一方的に盛り上がってるだけなんじゃないですか?」
正解。マリーは鋭かった。
しかし、ベッドに座って、ハヅキと遊んでいたヘイザがキスクを擁護する様に口を挟む。
「ぼ、僕もみ、見たっ、よ? ききき、綺麗なウサギのは、半獣人の、女のひ、人だった」
マリーは、頭痛をこらえる様な素振りで、眉間を押さえると呆れた様に言った。
「……人間には相手されないから、とうとう動物に欲情しはじめましたか、ド変態旦那様」
「ちょ! おま、ド変態はヒドいだろ!」
キスクの言葉をさらりと流し、マリーは溜息を吐く
「まあ、いいです。とにかく今晩ここを出るんですね」
何か言いたげではあったが、とりあえず頷くキスク。
「わかりました。じゃあ、財布を忘れたフリしてツケで買い物してきます」
「買物?」
ここへきて何で買物なのか、意味がわからずキスクとヘイザが怪訝な顔をする。
それを呆れた様に見回して、マリーは言い放った。
「この日のために、近所のお店で愛想を振りまいて、良くできた娘さんを演じてきたんですから」
マリーはゲス乙女。ツケを踏み倒すための仕込みは上々。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
舞台は再びペリクレスへと戻る。
その日の深夜、マレーネはペリクレス伯の部屋を訪れていた。
マレーネが自分から父親の部屋を訪ねることなど、滅多にあることではない。
それだけに、ペリクレス伯は、最愛の娘の来訪を喜ぶと共に不思議がった。
マレーネは向かいあってソファーに腰掛ける父親を見て思う。
せめてナイトキャップは止めて欲しい。
ピンクのパジャマに、黄色のナイトキャップという威厳の欠片も無い姿のペリクレス伯は、マレーネに猫なで声で語りかける。
「マレマレぇ、どうしたんだい。パパが恋しくなっちゃったのかな?」
「それはない」
一刀両断とはこういうことを言うのだろう。
ペリクレス伯とマレーネの父娘関係はというと、良好とは言い難い。
娘を猫かわいがりするペリクレス伯を、マレーネが一方的に避けている。
「父様、お願い事がある」
マレーネがそう切り出すと、ペリクレス伯の表情が曇った。
「またそれかい? ミオちゃんのことなら、もう何度もダメだっていったよね。幾ら可愛いマレマレの頼みでもダメったらダメなの。マレマレの大事なお友達って言っても、領民の安全を天秤にかけるわけにはいかないんだからさぁ」
「違う」
「ウチの家訓は、『長いものには巻かれろ』だっていつも言ってるでしょ?」
「だ・か・ら、違うと言ってる」
毎度のことだが、胸を張ってその情けない家訓を口にする父親を、娘としては、どんな顔で見ればいいのかわからない。
「ん? そうなの? じゃ何だい? 新しいお洋服でも欲しくなったのかな?」
ミオの裁判の話でないとわかるとペリクレス伯は、再び猫なで声を出し始める。
「ちょっと、ビックリする話」
そう言ってマレーネは目を伏せる。
「えーなんだろ? もしかしてパパの誕生日のことかなぁ?」
やけにモジモジと言いにくそうにするマレーネ。
ペリクレス伯は慈愛の眼差しでそれを見つめながら、恥ずかしがり屋の娘が言葉をつむぐのを待った。
そして、
「赤ちゃんが出来たかもしれない」
「いや、爆弾発言すぎるだろ、ソレ」
愛しげにお腹のあたりを撫でるマレーネに、ペリクレス伯は真顔でツッコんだ。




