第67話 あわわわわ
一歩踏み出した瞬間、ヘルトルードの背にゾクリと戦慄が走った。
落ちる!
そう思った次の瞬間。
ヘルトルードの身体は、空気の渦に翻弄されて、幾度となく回転を繰り返し、完全に方向の感覚を失っていく。
足から踏み出した筈なのに、今は頭を下にして落ちているような気さえする。
目だけを動かして視線を上の方へと向けると、逆さまに微かな街の灯りが見えた。
間違いない。今自分は頭から落ちている。
薄闇の中に浮かぶ淡い街の灯は美しくもあったが、今はそれを賞賛する余裕など、欠片もない。ヘルトルードは指を差しながら、必死に自分が着地すべき場所をさがす。
あの灯りの中央がサラトガだとすれば、ローダはその隣のはず、ずいぶん灯りが少ないのは、兵達が皆サラトガの方へと駆り出されているからだろう。
「よっしゃ! あそこに降りたらええねんな!」
ヘルトルードは身体を捩る様にして、軌道を修正、落下点をローダ城と思われる尖塔に固定した。
あれがローダ城で間違えないとは思うのだが、若干不安も残る。
「あれ、ホンマにローダ城やんな……」
間違えてサラトガ城やストラスブル城に突っ込んだりしては流石にボケではすまされない。
いや、あのちびっ子領主ならばボケで済ましてしまいそうで、逆に怖い。
本来凄まじい風圧に晒されている筈なのに、先程からヘルトルードが平然と喋っているのには訳がある。
空に上がった段階で、ヘルトルードは寒さに耐えかねて、火属性の障壁魔法『炎壁』を展開している。
それが、ヘルトルードを球状に包み込んでいるために、風圧は全てシャットアウトされているのだ。
とはいえ、轟々と風を切る音と胃の腑が持ち上げられるような感覚で、自分が今猛烈な勢いで地面に向かって引き寄せられていることは体感している。
日没直後の黄昏時、薄闇の空を上下の感覚も怪しいままに重力に牽かれて、ヘルトルードの落下速度はどんどん上がっていく。
周囲が闇に包まれているだけに、その速度感からくる恐怖を味合わずにすんでいることは幸いであったかもしれない。
一般に地上5000mからのダイビングであれば、落下時間は大体1分間ほど。
終末速度としては時速200kmを超える。
周囲が見えていたならば、それは恐怖としてヘルトルードに圧し掛かってきたことだろう。
この急降下攻撃について言えば、問題となるのはただ一点。それは着地である。
飛び降りる前、ヘルトルードはベッドの上で色々と思案してみたが、実際にうまく行くかどうかは、やってみなければわからない。
ミオは『同じ剣姫ならばできるじゃろ』と気軽に言ったものだが、まずその大前提が間違えている。
これは、銀嶺の剣姫と紅蓮の剣姫のどちらが強いかという話ではない。
個性の違い、向き不向きの問題である。
炎属性と氷属性、その特性の違いと言い換えても良い。
銀嶺の剣姫が急降下攻撃を行った時、最期の着地をどうやったのかを思い起こせば自明のことではあるのだが、あの時、銀嶺の剣姫は自身の足元に巨大な氷山を出現させ、その氷山が地面に衝突する際に、潰れることで、クッションの役割を果たし、衝撃を殺したのだ。
では炎属性で同じことができるかと言えば答えはNOである。
炎属性の魔法には固形化できる物が何もないのだ。
このまま落下してしまえば、いくら炎壁を展開しているとはいえ、枝から落ちたトマトの様な有様を晒すことは必至。
この魔法は、炎や風によるダメージはほぼ100%殺すことができるが、物理的なダメージに関しては、全く効果がないのだ。
結局のところは、手持ちのカードでやりくりする他ないのだが、ヘルトルードの使える魔法にはバラエティそのものが少ない。
実際、使えそうなのは爆裂ぐらいのもの。
少なくともヘルトルードには、爆裂の爆風で、落下スピードを相殺する。それぐらいしか方法は思いつかなかった。
とはいえ、爆裂で起こせる爆発などたかがしれている。爆風が届く範囲。地上から10ザールにも近づいた段階でどれだけ多くの回数爆裂を撃ち出せるかが勝負である。
5000ザールのうちの10ザール。
感覚としては、ほとんど皮一枚の勝負と言ってもいい。
…………あれ、なんでウチこんな命懸けの危険なことやらされてんねやろ。
冷静になってみれば何かがおかしい。
不意に空に上がってから魔導通信でミオに告げられたメッセージが脳裏に浮かぶ。
「おはようヘルトルード君。
現在サラトガ城がローダ兵に囲まれているのは、君も知ってのとおりだが、反面、機動城砦ローダそのものは、ほとんど兵員が出払って無防備な状態である。
そこで今回の君の使命だが、空からローダに侵入し、艦橋を占拠。艦橋クルーを脅迫して、ローダをサラトガから引っぺがしてほしい。
ローダの破壊が目的ではない。兵員がほとんど出払っているローダのことだ、上手くやればほとんど戦闘の発生しない任務である。成功を祈る。
例によって、君が捕らえられ、あるいは殺されても当局はいっさい関知しないからそのつもりで。なお、この音声は自動的に死亡する。ぎゃぁーー! ブツッ!ツーーツー」
若干最後のあたりがおかしい気がするが、謎の秘密結社の黒幕じみた通信。
そして任務とか、何かいい感じの言葉に載せられて、雰囲気に流された。
それが真相であった。
「ウチのあほおぉぉぉぉお!」
ヘルトルードは激しく後悔した。
簡単に雰囲気に流されるあたり、彼女も相当にアホの子である。
しかし、後悔したところで状況は変わらない。
みるみる内に地上の灯りが近づいて、ローダ城と思われる尖塔のシルエットが大きくなっていく。
このまま落下したならば、ローダ城の5階あたりの壁面に斜めから追突する軌道。
もう時間はそれほど残されていない。
ヘルトルードは、紅い刀身の愛剣『紅蓮』を引き抜き、頭上に掲げた。
近づいてくるローダ城の城壁を睨みながら、窓に灯る明りの大きさを元に距離を測る。
あとは刹那の勝負。
目を瞑りたくなるほどに、壁面が近づいたその時。
今や!
「爆裂! 爆裂! 爆裂! 爆裂! 爆裂!」
ヘルトルードは力任せに『紅蓮』をふるいながら繰り返し聖句を唱えると『紅蓮』からは直径1ザールもの大ぶりな火球がいくつも射出された。
『爆裂』の威力は、普段好んで使う『火球』の数倍にも及ぶ。にもかかわらず、普段使わないのは射出速度が『火球』より若干遅い為、敵からしてみれば避けやすく、当たりにくいからだ。
着弾と同時に次々に火球は爆発。轟音を立てて石壁の破片が飛び散る。
四発目が着弾すると、重力と爆風による反発が釣り合ったのかヘルトルードは一瞬、空中で静止したような感覚に捉われた。
しかし、それも一瞬のこと、次の一発は爆風を返してこなかった。
「なんでや?!」
それもそのはず『爆裂』の連激によって、ローダ城の壁面に風穴が開き、5発目はローダ城の内部へと落ちていったのだ。
多少勢いを殺せてはいるが、このままでは転落死は免れない。
「くそぉぉお! 爆裂! 爆裂! 爆裂! 爆裂! 爆裂!」
半狂乱になって何度も聖句を唱えて剣を振るいながら、ヘルトルードは壁面に開いた穴から、ローダ城の内部へと突っ込んでいく。
内部の床面はヘルトルードが次々に放つ爆裂の威力に耐えられず、大穴を穿つばかりで、ヘルトルードに対して爆風は返ってこない。
幾つものフロアに大穴を開けながら、ヘルトルードは城内を落下。
そしてついに一階フロアへと到達する段になって、他のフロアより厚い床が爆裂の衝撃に耐え、三発分の爆風をヘルトルードに向けて返してきた。
「おっしゃあ!」
床への激突までほんの数ザール。
まさにギリギリのタイミングであった。
爆風の反発力で大きく減速できたものの、完全に勢いを殺せたわけではない。
ヘルトルードは着地と同時に、勢いを受け流すために、倒れこんで前転するように受け身をとる。
しかし、そう簡単に勢いは止まらない。
ごろごろと転がりながら廊下を横断、そのまま倉庫のような一室へと突っ込んで、中に積まれている無数の巨大な樽の一つに激突してやっと停止した。
「いたたたた……うー。ほんまに死ぬかと思ったがな。シャレにならへんで」
いまだに心臓はドキドキと脈打って、呼吸も荒い。
「ふう……」
強く打った腰をさすりながら、ヘルトルードは自分がぶつかった樽に背を預けて大きく息を吐き出す。
結局、上層階から一階までローダ城に吹き抜けを作ってしまったがこれは、もう不可抗力としか言いようがない。
目的はローダの破壊ではないとは言われているが壊してはいけないと言われたわけではない。むしろこの程度で済んだことがローダにとっては幸いだったろう。
もし、堕ちてきたのが、銀嶺の剣姫の方であったら、ローダ自体が跡形もなく吹っ飛んでいる可能性すらあるのだ。
しかし任務は、これで完了したわけではない。
むしろ、ここからが本番だ。少し休んだら、艦橋を目指して移動しなくてはならない。
通常であれば、休む暇もなく、敵兵との戦闘に突入してしかるべしなのだが、これだけの轟音を立てて城へと突っ込んだというのに、兵士が集まってくる様子もない。
「ガチで全兵力をつぎ込んだってことなんやろな……。ホンマに狂っとるわ」
そう一人呟くヘルトルードは、まだ気付いていなかった。
彼女がもたれ掛っている樽が、ぐつぐつと音を立ててパンパンに膨れ上がっていることを。
何とか着地できたことに安堵して、ヘルトルードが忘れていることがある。
それは炎壁が展開状態のままであること。
次の瞬間、轟音を立ててヘルトルードの背後の樽が爆発した。
炎壁のお陰で、炎によるダメージこそ無いものの、爆風で廊下まで吹っ飛ばされるヘルトルード。
「なっ! なんや!」
廊下に叩きつけられて潰れたカエルの様な恰好のまま、背後を振り返ると、自分がつい先ほどまで、もたれかかっていた樽が激しい火柱を吹き上げているのが見えた。そして周囲の樽にも引火。激しい音をたてながら次々に誘爆していくのがみえた。
「えっ?! えっ?!」
何が起こっているのかわからず、ヘルトルードは目を白黒させている。
実は、ヘルトルードが突っ込んだあの倉庫は、食用油の備蓄庫。
ローダの全住民に供給される食用油が数十樽ほども置かれていたのだ。
食用油そのものは、それほど簡単に火が付くものではないのだが、炎壁でじっくりと樽ごと炙リ続けた結果、見事に引火。
華麗に火柱を吹き上げて、全ての樽を火の海へと叩き込んだ。
ヘルトルードがただ慌てている間にも、火の手はどんどんと大きくなる。
「あわわわわわ……」
さすがにここまで大きくなると、いくら紅蓮の剣姫とはいえ、手の施しようがない。
炎壁を展開している限り、いくら炎が大きくなったところで、ヘルトルード自身にダメージが及ぶことはないが、爆発によって天井でも落ちてきた場合には、その限りでは無い。
「こらあかん、避難や、避難!」
ヘルトルードは一目散に逃げ出し、ローダ城の正面の門から外へと飛び出す。
振り向けば、赤々と燃えるローダ城。
「う、ウチ何もしてへんで、ウチは悪ないで」
ヘルトルードが茫然と見ている内に、さらに何か爆発物に引火したのだろう。
とてつもない破裂音とともに、巨大な火柱が立ち上り、夜空を赤く染める。
そして、次の瞬間、ローダ城は音を立てて瓦解した。




