第7話 妹よ、それは目覚めてはいけないものだ。
砂漠に生息する鳥には、極彩色の羽を持つものが少なくない。
殺風景な砂漠において、個体数の少ない鳥達が、番となるものを見つけるため、あるいは見つけてもらうために、進化の階段を昇るたび、より鮮やかに変化していったのだという。
しかし、どれほど鮮やかな羽の色も、この宵闇の中では漆黒に染まる。
機動城砦サラトガの中央、尖塔を戴く城。
その窓の一つに止まったこの鳥も、その例にもれない。
希少でもなければ、特別、価値があるわけでもない。
砂漠においては珍しくもない、緑の羽をもつインコの一種。
今は、夜の闇に紛れて、そして昼間は日常の風景に紛れ、その姿を隠している。
いかに鮮やかであろうと、ありふれてしまえば、それはただの風景でしかないのだ。
それ故に、この鳥の異常さに気付いたものは、誰も居ない。
この数日間、機動城砦サラトガにまとわりつくように、飛び回っていたこの鳥が、ただの一度も地面に降りてはいないことを。
渡り鳥ならいざしらず、ただのインコがありえない高さを、飛び回っていたということを。
その鳥は窓枠を飛び越えて、部屋の中へとゆっくりと舞い降りる。
そこは幹部フロアの一室。
精霊石が淡い光を放つ薄暗い部屋の中、男が一人、寝台の上に座っている。
頭から毛布を被り、ヘッドボードにもたれかかった姿勢のまま、男は呟くように言った。
「マフムードか?」
答えは返ってこない。当然だ。この部屋にいるのは彼と一羽の鳥なのだ。
にもかかわらず、男は鳥に向かって再び言葉を投げる。
「サラトガに地虫が湧いた。計画の邪魔になるかもしれん」
「排除シロ」
それは、男とも女ともつかない奇妙な声。
インコの嘴の奥、声帯を震わせて発せられたのは、人の言葉であった。
「魔術師殿は気軽に言ってくれる。ヤツにはミリアがくっついてる。ただ頭が固いだけの姉と違って、アレは敏い。悟られたら、それこそ本末転倒だろうが」
男は、鳥が言葉を発したことに驚く様子もなく、ただ苛立ちをぶつける様に吐き捨てる。
「実行ハ明後日、ソレマデ二排除シロ」
「チッ!」
排除しろ一辺倒の回答に、男が舌打ちをすると、その鳥は寝台の上へと飛び上がり、男の傍へと移動した。
「ツカエ」
その一言とともに、鳥が大きく体を膨らませると、口から白い塊を吐き出す。
見ていて気持ちのいい光景ではない。
男が顔をしかめながら、吐き出されたその白い塊を指先でつまみ上げる。
「ほう。気前がいいじゃねえか」
男が拾い上げたソレは、牙。
売り払ってしまえば、屋敷の一軒も建てられようという希少な、そして危険な、魔道具の一つ。『竜の牙』であった。
男が牙を指先で弄んでいる間に、廊下の方からにわかに、人の声が聞こえてきた。
騒がしいというほどでもないが、こんな時間に廊下を行き来する者がいること自体、住人の少ない幹部フロアでは珍しいことだ。
だが、気にすることではあるまい。
どうせミオの馬鹿あたりが、いつもの様にロクでもないことで、キリエを振り回しているのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「そんなに押さないでくださいよ」
「ダーメ! 早く行かないとお姉ちゃん、待ちくたびれちゃうよ」
「待ってませんって」
自分たちが今通り過ぎた扉の奥で、鳥と男による妖しいやり取りがなされていることなど知る由もなく、ナナシはミリアにぐいぐい背中を押されながら、キリエの部屋へと向かっていた。
いかに足取りが重くとも、歩みを止めなければ、いつかは目的地に辿りつく。
良い言葉だが、今日のナナシにとってはあまりいい響きに、聞こえはしないだろう。
幹部フロア。その一番奥の扉の前まで来ると、ミリアは大きく声を上げた。
「とうちゃーく!」
ナナシが深呼吸して心の準備をしようとしたその瞬間、ミリアは間髪いれずに目の前のドアをノックする。
すると、一呼吸入れるまもなく、サッとドアが開いた。
まるでドアノブに手をかけて待機していたかのように。
そして、少し開いたドアの隙間から、硬い表情のキリエがそろりと顔を出す。
「き、来たか……」
「お姉ちゃん、お待たせー!」
「待ってなんぞおらん! ホントだぞ、ホントだからな!」
少し、おどおどとした姉の様子に、にまにまと、含み笑いを浮かべる妹。
姉は、妹から視線を外して、わざとらしい咳払いをする。
「ところでだな。部屋に入れる前に、ミリア。コイツは風呂に入らせたのか?」
「え? 幹部フロアは、部屋にお風呂あるじゃない」
「わ、私の部屋で風呂に入らせろだと! ダメだ! ダメだ! ダメだ!」
ドアから顔だけを出したまま、キリエは真っ赤な顔で、ぶんぶんと頭を振る。
この人は今日、これで何回ダメって言ったんだろう。ぼんやりとナナシは考える。
「風呂といえば、砂はどこにあるんですか?」
ナナシの言葉に、キリエとミリアがピタリと動きを止める。
「ちょ、ちょっと待て。貴様、今なんと言った?」
「砂はどこにあるんですか? ですけど……」
自分が何を聞かれているのかわからず、怪訝な表情でナナシは答える。
もちろん、キリエとミリアの表情が若干、青ざめていることには気づいていない。
「も、もしかして、お前。身体はどうやって洗ってるんだ。」
「それはもちろん砂ですが?」
「砂?」
「乾いた砂はとても清潔なんですよ。砂で擦れば、汚れも綺麗に落ちますから」
「ずっとか?」
「そうですよ」
「生まれてこの方?」
「そうですって」
バン!と勢いよくドアを開け放つと、キリエが無言のままナナシの肩を掴む。
「あ、あの? き、キリエさん?」
ナナシの呼びかけを無視して、キリエは叫ぶ。
「ミリア! 今すぐコイツを風呂に放り込め!」
「がってん! お姉ちゃん! 洗濯部屋の洗濯槽でいいよね。」
「かまわん! 汚物は消毒だ!」
「やめてぇぇぇぇ!」
かくして、アルサード姉妹に両脇を抱えられ、強引に廊下を引きづられていくナナシ。その悲痛な声が夜の廊下に響き渡った。
そして一時間後。
「うっ……こ、これは…」
「たはは、なんだか、変な気分になっちゃうね……」
顔を真っ赤に上気させたアルサード姉妹の視線の先。
そこにいるのは、裸にひん剥かれたナナシ。
いろいろ危ない部分を手で隠しながら、目に涙を浮かべて、床の上で項垂れている。
既に精霊石の起こす水流が渦巻く洗濯槽に放りこまれて、強制的に身体中を洗われた後。
つい先ほど、目をまわしながらも、なんとか洗濯槽から脱出したところだ。
「うぅっ……ひ、ひどい…ひどいですよぉ」
髪から水をしたたらせながら、ナナシは潤んだ瞳で、上目使いにアルサード姉妹を見上げる。
「……」
なんという破壊力。キリエとミリアは絶句する。
「お、お姉ちゃん、な、なんか目覚めそう……」
「お、落ち着け妹よ。それは目覚めてはいけないものだ」
「お姉ちゃん、よだれ、よだれ」
「す、すまん」
二人のやりとりを、情けない表情で眺めながら、ナナシがつぶやく。
「いいから、僕の服を返してください……」
その後、キリエの部屋への帰り道。
冷静さを取り戻したキリエとミリアは、それぞれに明後日の方向に視線を泳がせ、その後ろを砂漠の民の少年が疲れきった表情でトボトボと歩いていたそうだ。
たまたま目撃したミリアのメイド仲間の話によると、かつて見たこともないような、気まずい空気が漂っていたという。
◇ ◇ ◇ ◇
「ミリア…今晩、泊まって行ってもいいんだぞ」
上から目線の言葉にもかかわらず、キリエのその声は弱弱しい。
「明日フロア清掃の日だから、早いんだよねー。ゴメンねー。お姉ちゃん」
早口でそういうと、ナナシの脇をすり抜けて、ミリアは足早に部屋を出る。
バタン
ドアの閉じられる音がやけに大きく響いた。
「……」
放っておけばいつまでも続きそうな沈黙。
尋常ではなく重い空気。
意識すればするほど、この狭い部屋に男女二人でいるという事実が浮き彫りになっていく。
目の前のキリエは、落ち着かない様子で、身体の前で両手の指をくねくねと絡め、何かを話そうと、息を呑んでは言葉が出ず、再び沈黙してしまう。
「あ、あの……」
ナナシが意を決して口を開いた瞬間、キリエの身体がビクッと跳ねた。
「な、な、な、なんだ!」
「僕は、どこで寝ればいいですか?」
「あ、ああ、そうだった! お前は、あ、あっちだ」
そう言ってキリエは、彼女の寝台から一番遠い部屋の隅を指さす。
目を向けると、そこには不自然にスペースが空いていた。
近寄って見れば、カーペットには家具の足の形が残っていて、直近までそこに、何らかの家具があったことがわかる。
そう思って見回せば、この部屋の家具の配置は、不自然なように思えてくる。
たしかに昼間、キリエは『部屋の隅を貸してやる』と言っていたが、どうやら比喩ではないらしい。
キリエにとっては、隅と言ったら隅なのだ。
一人で、重い家具を動かしているキリエの姿を想像して、ナナシはクスリと笑う。
「ほら、この毛布を使え」
そう言ってポンと毛布を渡すとキリエは、リスが巣穴に逃げ込むように、自分の寝台へと入っていく。
ナナシは、一言礼を言うと、部屋の隅で毛布に包まった。
部屋に再び静寂の帳が下りて、眠気がゆっくりと身体の上に圧し掛かってくる。
このまま眠ってしまえば、女性と同じ部屋と言ってもなんのことはない。
ところが……。
「お、おいクソ虫、寝たか?」
寝入ろうとしたその瞬間、キリエが声をかけてくる。
「いえ、まだ起きてます」
「床、固くないか? 何か敷いたほうがいいか?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「そ、そうか……」
キリエの気遣いを意外に思いながら、再度、目を閉じて、眠気に身を委ねる。
あらためて寝入りかけたまさにその瞬間、ふたたびキリエが声をかけてくる。
「お、おいクソ虫、寝たか?」
「…………起きてます」
答えはしたものの、もう半分ぐらい眠りの世界に旅立った後だ。
「寝苦しかったりしないか? この部屋は風通しがあんまり良くないのだが……」
「大丈夫です」
「そ、そうか……」
頭の片隅で、意外と気を使うタイプなんだなぁなどと思いながら、再び目を瞑る
すでに半分眠っているようなものだ。おそらく次に呼びかけられても、その時にはすでに眠りの世界の住人となっていることだろう。
ナナシは決して寝起きの良い人間ではない。少々話しかけられても、もう目覚めることはないだろう。
ところが……。
「腹は減ってないか? 良い焼き菓子があるんだ。そうだ、貴様に分けてやろう」
間髪いれずに呼びかけられた。
居候の立場としては、家主の好意を無に出来ない。
ナナシは寝ぼけ眼のまま身体を起こし、差し出された焼き菓子を受け取って、ほぼ無意識で口に咥える。
「どうだ? うまいか?」
「おいしいです」
一度、完全に寝入る直前まで行っているので、正直、味より何より、眠くて仕方が無い。
「そうか! うむ。そうだろう」
満足そうに腕を組んで頷くキリエの姿を見て、寝ぼけているせいか、思っていることがストレートに口から出てしまう。
「キリエさんって、実はいい人なんですね」
一瞬、きょとんとした顔をした後、キリエは小さく笑った。
「あのなぁ……いい人ってのは、軍人にとっては褒め言葉じゃないぞ。戦場ではいい人から順番に死んでいくもんだ。そもそも、子供の分際でいい人とか悪い人とか大人を評価するなんぞ、生意気だぞ」
クソ虫呼ばわりする口と、同じところから出たと思えないくらい優しい声。
子供に諭すような、母性に溢れた言葉。
どうやら、母性と胸の大きさは、必ずしも比例しないらしい。
しかし、ナナシはこう思った。『気に入らない』と。
具体的には子供扱いされていることについてだ。
砂漠の民は13歳で成人扱いされ、15歳なら子供が居てもおかしくはないのだ。だから、つい反発する言葉が口から出た。いわゆる売り言葉に、買い言葉だ。
「じゃ、男として女を評価します。キリエさんはいい女です」
ぽろり
キリエの口元から、咥えていた焼き菓子が落ちる。
目を丸くして固まった後、油の切れた機械のように、ギギギと首を動かして、ナナシの方へと顔を向ける。
キリエは思う。
頬が赤くなっているのが、自分でもわかる。
目が潤んでくるのが、自分でもわかる。
顔が熱を持っているのが、自分でもわかる。
たった一言でこんなに動揺するなんて、なんと自分は脆いのかと。
言うだけ言って、ふてくされるように毛布を被るナナシ。
暗い部屋、一隅の闇の中から、すぐに小さな寝息が聞こえ始める。
「お、おい。もう寝たのか……」
返事はない。
キリエは、そっと寝台を降りて、ナナシの眠る傍にしゃがむ。
寝顔を見れば、15という年齢よりもナナシは、ずっと幼くみえた。
「なぁにが、いい女だ。マセガキめ」
指先で少年の髪に触れる。湿り気が多く、まだ乾いてはいない。
こんな状態で寝てしまえば、明日の朝はひどい寝癖になっているだろう。
丁度いい。少年のボサボサの髪は気になっていたのだ。
明日、時間が空いたら私が切ってやろう。
そんなことを考えながら、キリエは自分が笑っていることに気付く。
その時、背後に気配を感じて振り向くと、どこから迷い込んできたのか窓辺に一羽インコが止まっているのが見えた。
「覗かないでよ……」
すこし照れるようにキリエが言うと、インコは首を傾げた後、そのままどこかへ飛び去っていった。