第65話 不吉の赤い星
陽が沈む。
エスカリス・ミーミルの人間にとって、太陽とは儚い物の象徴である。
朝、大地から生まれ、夕辺には世界の端から転げ落ちて死んでいく儚い存在。
エスカリス・ミーミルに住まう者なら、誰しも子供の頃に一度は、次の太陽が生まれなかったらどうなるのだろうと、ベッドの中で怯えた経験があるはずだ。
そして太陽は、今まさに地平線の向こうへと断末魔の血の色を残して、落ちて行くところであった。
ローダとゲルギオスに対して詐術を弄してから、半刻と少しが経過した頃、サラトガ城の自室の壁面に開いた大穴から、ミオが顔を覘かせる。
見上げれば中天には、早くも星が瞬きはじめ、中でもとりわけ大きな赤い星が著しく明滅を繰り返しているのが見えた。
「ははは、不吉の赤い星じゃな……」
乾いた笑いを中空に残して、そのままゆっくりと眼下を見下ろせば、そこには刀槍に赤光を反射させながら密集する、無数の敵兵の姿がある。
いや、無数という表現は大袈裟に過ぎるだろう。
たかが3000ではないか。
自身の心にある怯えが、過剰に敵を大きく見せているだけに過ぎない。
ミオはそう思い返して、意識的に呼吸のペースを落とし、ゆっくりと、細く、長く息を吐く。
ローダ伯がゲルギオス同様に、射出された砂を裂くものを追って、サラトガへと掛けたその腕を離していたならば、ここから先の作戦は必要が無かった。
サラトガは、ゲルギオスとローダを振り切って無事首都へと到着し、そのままミオは裁判に臨むことになっていただろう。そして裁判最終の多数決では、ミオの有罪に投票するであろうゲルギオス伯と無罪に投票させられると踏んでいたローダ伯が共に脱落し、結果として3対3のイーブンに持ち込むことができたはずだ。
これだけでも、つい先日までの状況を思えば、充分に満足すべき逆転劇と言って良いだろう。
しかし、なんと強欲なことであろうか。
ミオの家政婦はそれで、満足する気は無いらしい。
振り返れば、テーブルの上には、ぼうっと淡い光を放つ精霊石が転がり、その光が滲む向こうには、先刻までミオが腰を預けていた椅子がある。
他には、何もなく、誰も居ない。
今、ミオは一人である。
キリエとアージュは、この後に控える戦闘に備えるため、城壁の内側で再編成を続けている軍の方へと差し向けた。
ミオとて、領主という役職を剥ぎ取れば、12歳の少女である。
一人という状況は、無条件に心細さを増していく。
とはいえ、ここから先は詐術とも呼べない道化回し。
ローダ伯にご満足いただける様に精一杯演じるばかりだ。
ミオの役割は、例えるならば英雄譚の中盤にて、姫を人質に勇者に何らかの労役を強制する小狡い魔女。まあ、そういう役どころだ。
すでにローダ軍の兵士達はミオの姿を大穴の内に見とめ、ローダ伯の指示を待ちながら注視している。
徐々にざわめきが広がっていく様子を見る限り、どうやら観客達は既に痺れを切らしているらしい。
では、幕を開けるとしようではないか。
「お主は追わなんだのじゃな」
ミオは声を張って、眼下のローダ伯へと尋ねる。
ローダ軍の本陣。一際豪奢な鎧を着込んだローダ伯は、半刻前同様に眉ひとつ動かすこともなく、ミオを見据えていた。
「目論みが外れた様だな、サラトガ伯。私には寧ろ、ゲルギオス伯が追っていったことの方が、不可解極まるのだがな」
「そうかのう。娼には、貴公が単にハズレを引いただけにしか見えぬが?」
「有得ぬ」
「ふはははははは、そうか、有得ぬか。ならば交渉に入るとするかのう」
意外にも不愉快そうな表情を見せたローダ伯の様子をあざ笑いながら、ミオは話題を次の俎上へと乗せ換えた。
「交渉だと?」
「ああ、そうじゃ。ストラスブル伯の命が惜しくば、全軍を率いて撤退してもらおうか、ローダ伯」
ミオは口元を厭らしく歪めて勝ち誇る。しかし再び表情の無い顔へと戻ったローダ伯は事も無げに吐き捨てる。
「かまわんよ。殺せば良い」
ミオが片方の眉を跳ね上げて、怪訝そうな表情をローダ伯へと向ける。
「なんじゃと?」
「だから、殺せば良いと言っておる。ストラスブル伯を殺したならば、その途端に我が兵達に押しつぶされる自らの運命が見えぬほどに、貴公が盲いておるというのであればだがな」
「ぐっ……な、ならば貴公が退くまで、ストラスブル伯を拷問することにしようではないか」
「それこそかまわんよ。例え四肢を失おうが、顔の造形が変わろうが、どんな姿になったところで、ストラスブル伯への我が愛は変わらぬ」
ミオは驚愕のあまり、大きく目を見開く。
この男は本当に魔法で強制されて、ファナサードがサラトガにいると思い込まされているだけなのか?
もしそうであれば、今の答えが此奴の本質なのか?
ミオはローダ伯の中に、愛すると言う行為を隠れ蓑にした、歪んだ自己愛を垣間見た。
「く、狂っておるのう」
ミオの頬を一筋の汗が滴り落ちる。
「狂う? 結構なことだ。愛するという事と、狂うという事は、ほぼ同義だと知るが良い」
やはりこの男は貴公子などではない。
言うなれば、歪んだ自己愛が生み出した化物だ。
ミオは静かに目を瞑る。
それを観念したものと受け取ったローダ伯は、左右の者に目配せし、進軍の太鼓を打たせ始めた。あとはローダ伯が手を一振りすれば、ローダ兵は一斉にサラトガ城へと襲い掛かるのだろう。
ミオは口から、ふぅと息を吐き出し、再び目を開く。
「折角、情けを掛けてやろうと思ったのじゃが、狂い者相手では、それも甲斐が無いわ。人質はストラスブル伯だけでは無いのじゃがのう」
「ハッタリをかますには、タイミングが遅すぎるのではないか、サラトガ伯」
ミオの言葉をハッタリと断じて、揶揄するローダ伯。
しかしその言葉をまるで耳に入らなかったかのように無視して、ミオは空を指差した。
その先には中天で明滅する赤い星。
「古来より赤い星は不吉の象徴と言われて来たが、今、頭上にて冥くも瞬く、アレのもたらす不幸は貴様達の上へと降り注ぐのじゃろうな」
「貴公、何を言っている」
「いやなに、ウチには『青いの』には出来たぞと焚き付けたら、張り合って同じことをやりたがる『赤いの』がおってのう」
世間話の調子で、話を続けるミオ。
話の内容は要領を得ず、意味不明。
しかしどういうわけかローダ伯は、自分の身体に戦慄が走る感覚を味わっていた。
「何を企んでいる。サラトガ伯」
ローダ伯のその問いかけに、ミオは無言の微笑で応じる。
今まさに、太陽が最期の吐息を洩らしたかの様な、一本の赤い線を地平線の輪郭上に残して、儚く燃え尽きようとし、その赤い光に照らされてミオの姿は薄闇の中に浮かび上がっている。
睨みあうでもなく、ただローダ伯を哀れむように見つめてミオは口をひらいた。
「哀れな貴公に用兵というものを教えてやろう。寡兵を用て大軍を打ち破るは邪道。邪道の本質は詭道なり」
邪道、詭道という言葉に、ローダ伯の左右の者達は暗殺や狙撃を警戒してローダ伯の周りを楯で固める。
しかしローダ伯は目の前の兵を押しのけて、前へと進み出た。
「今さら貴公に用兵を説かれるに及ばず! 敵に対するに、それ以上の兵力を以ってする我が軍の在り方はまさに王道。邪道が王道に勝てる道理など無いのだ」
「否、王道に奢る者の虚を突くこと。それが詭道の本質じゃ」
「我が軍に虚など在りはせん。小生意気な娘の口を閉じさせてやれ!」
ローダ伯が怒りに任せて手を振り下ろし、兵達は猛然とハンマーを振るって城壁を突き崩さんと突進する。
外部の城壁ならばいざ知らず、たかが5ザールの内部城壁では、こそ泥を防ぐことはできても、軍を押し返すにはいかにも頼りが無い。
「見よ!」
城壁への打撃音が木霊する中、再びミオは中天へと指を突き上げて、声を限りに叫んだ。
既に薄闇は夜へとその黒の深みを増し、人気の絶えたサラトガの市街地は死んだように灯りひとつない。
地上に光が絶えれば、空の星はより一層輝きを増すのは自明の事。
見上げた先、そこにあったのは、やはり著しく明滅を繰り返す不吉の赤い星。
そして、次の瞬間。
空を横切って、赤い星が流れ落ちた。
一呼吸の間の出来事である。
中天にて明滅を繰り返していたあの赤い星が、赤い赤い尾を引いて、空を滑り落ちたのだ。
流れた赤い星の行末に目をやり、ローダ軍の将兵たちは目を疑う。
それは、サラトガの左舷城壁の向こう側。
突如激しい光が兵士達の網膜を灼き、轟音が響き渡ると、遅れるようにして衝撃が大地を揺らす。
兵士達は振り上げたハンマーを取り落とし、踏鞴を踏みながらも、何が起こったのかわからず、ただ呆然と右舷の方角を見つめている。
そして次の瞬間、兵士達の目には城壁の向こう、黒煙とともに炎の柱が立ち昇るのが見えた。
「な、なんだ?!」
さすがにローダ伯の表情にも狼狽の色が浮かび、その様子を楽しげに見下ろしながらミオが揶揄する。
「我が軍に虚など無いと、戯けたことを抜かしておったがそれが、当に驕りというものじゃ。
これだけの頭数をこちらに裂いておるのじゃからのう、ローダ城の守りはいかほどのものじゃろうな」
これまで保たれてきた威厳は崩れ落ち、ローダ伯は憎しみの篭った視線でミオを睨みながら声を限りに叫ぶ。
「貴様ァ! 何をした」
呆れた様に肩を竦め、ミオは言い放つ。
「何をしたも何も、虚を突くぞと、あれだけ言うたじゃろうが。守りの薄い場所へ兵を送り込んだだけじゃの」
「兵? あれが兵だというのか!」
「まあ、たった1人じゃがな」




