第52話 何か未知の力が目覚める前兆なんじゃないかと。
家政婦が一人、木製の盆に幾つかのパンを乗せて、下層フロアへと降りていく。
牢獄の入口にたどり着くとそこには白い鎧を着た兵士が一人。鋭い目で家政婦を睨み付けて誰何する。
この奥には、旧サラトガ領主……皇姫ファティマを殺害した皇国の敵が、収容されているのだ。それ故、ここを見張る彼としては、旧サラトガ領主を祭り上げて、反乱を画策するものが取り返しにくるのではないかと、終始緊張を強いられていた。
「罪人にぃ食事を出せぇとぉ、ご指示をぉいただきましてぇ」
「牢に放りこんでからまだ、半刻も経っておらんし、そんな話は聞いておらんぞ」
怪しい。
兵士は槍を構えたまま家政婦の方へと慎重に近づいていく。
灯りの乏しい牢獄フロアのこと、少し離れたところからでは、家政婦服を着ていること以外、影になって良くわからなかったが、近づくうちに女の姿がはっきりと見えてくる。
年齢は20代半ば、少し妖艶な雰囲気の漂う美女だ。
特に武器を隠し持っている様子もなく、その背後に人の気配もない。
兵士は槍を降ろして、家政婦に近づくと、その家政婦の身体のある一点に眼が釘付けとなった。
で、でかい。
白いブラウスを押し上げる二つのふくらみ。
無理やりにボタンを閉じているせいで、ボタンとボタンの間がダイヤ型に広がって、そこから肌色が覗いている。
「ご指示にぃ従わないとぉ、怒られちゃいますぅ」
兵士はなんとか目をそらそうとするが、家政婦は甘える様な声を出して兵士の身体にしなだれかかってくる。
「いや、しかしだな……」
兵士の胸に家政婦のふくらみが触れると、彼は顔を赤らめて目を反らした。その瞬間、家政婦は彼の額をそっと指で触れる。
「深淵なる眠りよ」
それは眠りの魔法。
一瞬にして、兵士はその場に崩れ落ち、床の上に大の字になって大きな鼾をかきはじめた。
それを見下ろして、家政婦はくすりと笑い、牢獄フロアの奥へと歩みを進める。
家政婦は順番に鉄格子の奥を覗きこみながら、目的の人物を探す。
そしてフロアの一番奥、その牢獄の前に立って中を覗きこんだ時、家政婦は小さく息を呑んだ。
そこには彼女が探していた主君。
サラトガ伯ミオが痛ましい姿で、石畳の上に転がっていた。
今日、サラトガには、首都から派遣された代官、ピピンが皇家直属の騎士団とともに到着した。その到着を出迎えたミオは、皇姫殺害の復讐に燃えるピピンと騎士団に、見せしめとして散々に殴り倒され、この牢獄へと放りこまれたのであった。
家政婦に身をやつして、ここを訪れた彼女はその現場を見てはいない。むしろ、何も知らずにここまで来た。
目的も知らされずに「この日、この時間以降に牢獄フロアを訪れ、娼を探すのじゃ」という数日前に与えられた指示に従っただけのことだ。
家政婦は慌ただしく魔法で開錠して扉を開け、鉄格子の中へと入る。
近づけば、ミオの状況がより一層はっきりとして、目頭が熱くなり、そして彼女の常日頃から穏やかな表情の奥に、沸々と暗い怒りが宿っていく。
「どうしてぇこんなことにぃ……」
思わず出た彼女の呟きに、弱弱しく答える声があった。
「……ちょっと……クロー……ゼットの……角に、小指をぶつけて……のう」
「笑えません」
「そう…か、笑えぬ……か」
そう言って、ミオは腫れ上がった瞼を歪めて微笑む。
ミオは思った。だからこそ笑え。
辛いときに辛い顔するのは、猿でもできる。辛いときに笑えるかどうかが人間の価値なのだ。それは父、前サラトガ伯の口癖である。
全くこの方はどこまで……。
家政婦は小さく肩を竦めるとミオの背に手を当てる。
「すぐにぃ直してさしあげますからねぇ。『再生!』」
生命の緑、誕生の黄、血流の赤。暗い牢獄の中に、三色に眩い光が膨らみ、ミオの身体へと流れ込んでいく。
それは、治癒系魔法ではなく、時系統の最上級魔法。
瀕死の人間の時間そのものを巻き戻し、元の状態へと再生する使えるものも数少ない魔法であった。
みるみる内に腫れが引き、頬を汚す内出血の黒い染みは薄くなって消えていく。 身体の小刻みな震えは止まって、安らかに胸が上下しはじめ、くすんだ浅黒い肌には赤みが戻ってきた。
「ふう」
光が静まり、再び牢獄が薄暗さを取り戻すと、家政婦は小さく息を洩らして、腕で額を拭う。
次の瞬間、ミオがぱちりと目を開き、モゾモゾと身体を起こすと、にこりと彼女に向かって微笑んだ。
「ご苦労じゃったのう、シュメルヴィ」
「全くですぅ。ミオ様は無茶しすぎなんですよぅ」
「いやあ、すまぬ。ちょっと計算がくるってのう。
娼ほどの美少女が相手じゃ。餓えた男どもに捕えられて、こう、何というか、エロい展開になることを期……予想しておったのじゃが、まさか相手がオネエとは想定外じゃったわ。
なにせ、ほれ、世の中で美少女に一番キビしいのはオネエじゃからな」
「しれっと2回も美少女って言いましたねぇ」
シュメルヴィはじとっとした目をミオへと向ける。
「ピピンであったか……代官殿も怯えておるのじゃ。
数少ない兵で、皇姫を殺害した反逆者どもを御して首都まで連れて行かねばならんのでな。彼らにとっては、とんだ貧乏くじであろうよ。
娼については、見せしめと人質じゃろうな。まあ、あそこまでガチでボコられるとは思っておらんかったが」
シュメルヴィには、ミオの言葉のトーンが、怯えるでもなく、怒るでもなく、どことなくピピン達を憐れんでいるように聞こえた。
「しかし参ったのじゃ。どつきまわされている内に身体が熱くなってきてのう」
「それはぁ……あれだけ腫れ上がっていればぁ、そうでしょう」
「で、娼は思ったのじゃ。これは、何か未知の力が目覚める前兆なんじゃないかと……」
「いや、なんでそうなりますか?!」
シュメルヴィは驚愕した。
思わずいつもの甘えるような口調が引っ込むほどである。
「それに、あまりにも右手が疼くので、『鎮まれ、娼の右手よ!』と念じて……」
「えーとぉ、折れてましたからねぇ。それは疼くでしょう」
「ところが疼きの方は治まりそうになかったので、次は新しい能力よ、目覚めろ!目覚めろ!と頭の中で念じておったんじゃが……」
「……ボコられている時にぃそんなこと考えてたんですかぁ」
「なんかちょっと気持ちよくなってきてのう」
「それは目覚めちゃダメです!!」
主君がMに目覚めるとか、仕える者の身にもなってほしい。しかも鞭をぶら下げたキリエが常に隣にいるのだ。そんな微妙な空気の漂う職場はイヤすぎる。
「して、シュメルヴィ、そちらの首尾はどうじゃ?」
「両方ともぉ、ある程度の成果がありますぅ」
実はシュメルヴィは出奔したわけでは無かった。
ミオの指示に従って、サラトガに曳航されているストラスブルにいたのである。
ストラスブルは学術都市。その下層フロアの書物庫に収蔵されている蔵書、古文書の数は大陸随一と言っても良い。
シュメルヴィは、ミオの指示の下、ファナサードの執事クリフトの協力を得て、そこで情報を集めていたのである。一つは特定の魂をゴーレムから排除する方法、一つは死霊術師マフムードについて。
ひとしきり知り得たことをミオに伝えると、シュメルヴィはあらためてミオに尋ね返す。
「これからぁ、ミオ様はどうなされますかぁ?」
「ふむ、娼はここを出るわけにはいかんのう。ここを出た途端キリエあたりが反旗を翻し、ピピンをぶち殺してしまうじゃろう。そうなると、ガチで反逆者になってしまうでな。キリエには悪いが、娼は、今しばらく酷い目にあっていることにしておくのじゃ」
「わかりましたぁ。じゃあ、瀕死の状態にぃ、見えるようにぃ、幻影のぉ魔法をかけておきますぅ」
「ああ、よろしく頼む。それとシュメルヴィ。お主にはミリアを見張ってもらいたい」
「ミリアですかぁ?」
「ああ、裏切りとかそういうことではない。あ奴は娼のために何か策を弄しておる気配があるのじゃが、無茶をしそうなのでな」
無茶をしそう。それをあなたがいいますか?
シュメルヴィはそう思ったが口には出さなかった。
「それではぁ、私は行きますねぇ」
そう言って、シュメルヴィが牢を出るべく扉をくぐろうとしたとき、ミオがシュメルヴィを再度呼び止めた。
「ところで、シュメルヴィ……」
「なんですかぁ?」
「……お主がそれを着ておると、夜のお店のお姉さんにしかみえんな」
「ぶっとばしますよ?」
◇ ◇ ◇ ◇
「き、キスクさん! ハヅキが! ハヅキがしゃ、しゃべ、った!」
シュメルヴィが、牢の扉を不機嫌に閉めた頃、ゲルギオスの宿屋の一室で、椅子に座って転寝していたキスクを、ヘイザが強引に揺り起こした。
「ああん? なんだって?」
「だ、だから、ハヅキがしゃべった、ん、だって」
そう言うと、ヘイザはベッドの上にペタンとすわりこんでいるハヅキの方へと顔をよせて語りかける。
「はーい、ハヅキ、ぼ、僕はだ、だれかなあ?」
「うー? うー……へーざ」
満面の笑みを浮かべてキスクを振り返るヘイザ。
「ほら、キスクさ、さん聞い、た?」
「おう、すげーじゃねえか」
「私がお教えしたんですよ」
ベッドの脇に立っていたマリーが自慢げに胸を反らす。そしてハヅキの頭をなでながら、マリーも続いて問いかけた。
「ハヅキ様、私は誰ですか?」
「うー? まーり」
「ほら、どうです!」
そういってマリーは、キスクにドヤ顔を向ける。
そうなるとキスクだって、自分の名前を呼んでもらいたくなるのが人情というものだ。キスクは、ハヅキに近づいて問いかける。
「じゃ、俺はだーれだ?」
「うー?、き……」
「そうだ、もうちょい。」
キスクは笑顔でハヅキを応援する。
「き○たま」
キスクの笑顔が凍り付く。
背後ではマリーが、口元を押さえて肩を震わせているのが見えた。
「オイ、マリー。お前ちょっとこい」
マリーはゲス乙女。
繰り出す下ネタも幼年学校の男子並みであった。




