第38話 サイレンを鳴らせ!
「うぅ……あ、暑い」
「も、もう少しの辛抱です」
ゲルギオスから脱出して、数刻が経った頃。
ナナシとアージュの二人は灼熱の砂漠の只中で、頭だけを出して砂に埋もれていた。
「これホントに効果あんのかよぉ……」
「大丈夫です。信じてください。砂漠の民の生活の知恵ですから」
「まあ、お前がそう言うんなら信じるけどさぁ……」
そう言ってナナシの方へと顔を向けたアージュは、思っていたよりも近くにナナシの横顔があることに気づいて、顔を赤らめながら目を逸らす。
そんな暑苦しい二人を他所に、ニーノは砂に突き刺した砂を裂くものの影に入って、時折吹くそよ風に髪を撫でられながら、気持ちよさそうに眠っている。
なんでこんなことになってしまったのか。
ゲルギオスからの逃避行の末、砂を裂くものに乗った3人は順調に北西へと向かって疾走していた。
しかし、二人の間に挟まれていたニーノが、突然こう訴え始めたのだ。
「二人ともくちゃい。生ゴミくちゃい」
考えてみれば、当然である。
二人は、生ゴミと下水のフロアに一晩近くいたのだ。それどころか実際に、生ゴミの山に落ちてさえいる。
今や二人は『生ゴミの化身』と言っても過言ではない。
臭って当然。少々水を被ったぐらいで、臭いが落ちるなら、世の中に消臭剤などという物が生まれる余地は無いのだ。
ナナシ一人の臭いならばまだしも、『生ゴミの化身』二人に挟まれては、例え1/4とはいえ嗅覚に優れた獣人であるニーノに我慢できよう筈もなかった。
どれほど男勝りとは言っても、アージュも恋する乙女の端くれ……まあ女子力は本当に底辺ではあるが、意識している相手の前で臭いとまで言い切られてしまっては、流石に放置するわけにもいかない。
かくして「焼けた砂には消臭効果があります」というナナシの主張に従って、二人して、砂に埋もれているという訳である。
まあ、これも見様によっては、牧歌的と言えなくも無い風景ではある。
こんな緊張感のかけらも見当たらない光景があるかと思えば、同時刻、同じ砂漠の上でも極限状態まで緊張感が膨れ上がっている場所もある。
この三人の向かう先、機動城砦サラトガが、今、当にそれであった。
◇ ◇ ◇ ◇
「嵐が来る……か」
50ザールにも渡って、城壁の崩れ落ちた一画。
砂洪水の爪痕生々しく、その一画だけを切り取って見れば、古代の遺跡のようにすら思える。
昨晩はここで、キリエ率いる黒筋肉と敵将キスク率いる獣人達が、文字通りの肉弾戦を繰り広げ、サラトガの傷跡をさらに広げた。
これだけの規模で城壁を破損した状態で走行すれば、忽ち城壁の内側は砂に埋もれてしまうことだろう。
今、剣姫はその場に立って、崩れた城壁に手を掛けながら、城壁の傍に広がる砂漠を見回している。
遠く東の空には、晴天が常の砂漠には珍しく、黒く重苦しい雲が垂れ込めていた。
「敵はあの雲の方からやってくるのですね」
それは、剣姫の目にはあまりにも不吉に見えた。
剣姫の故郷、『永久凍土の国』には『嵐の使者』という伝承がある。
それは、青ざめた馬に跨った騎士が、嵐と共に現れて、不幸を運んでくるという不吉な物語。
夜、いつまでも眠らない子供には、親達はこう脅す。
「良い子にしないと『嵐の使者』がやってくるぞ」と。
胸騒ぎが治まらない。
「まさか、主様の身になにか……」
完全に気のせいであった。むしろ不整脈を疑った方が建設的なぐらいである。
今、剣姫の傍には人影は無く、周囲からは物音一つ聞こえてこない。
いや、ここだけでは無い。
サラトガ全体が無人の廃墟のように静まりかえっている。
それは、死者の沈黙ではなかった。
むしろ、虎視眈々と息を潜めて獲物を狙う、野獣の静謐に似ている。
地面は濡れている。
つい先ほどまで、多くの兵士達がここで大量の水を撒いていたのだ。
この時間ならばまだ、サラトガの真上には太陽が燦々と輝いている。
中天を過ぎてこそいるが、午後の日差しは甚だ厳しい。
水に濡れた地面からは、濛々と湯気が立ち昇り、この一画の不快指数はうなぎ昇りだ。しかし、そんな最中にあっても剣姫の表情は涼しげで、汗一つかいている様子はない。
振り返れば、サラトガ城からは、幾筋もの煙が立ち昇っている。
サラトガ城は燃えてはいない。が、相手がそう思い込んでくれるなら、それも一つの隙となるのだろう。
剣姫は再び砂漠へと視線を移す。
その視線の先、地平線の向こうから這い出る様な黒い影。
夜の色に染め上げられた黒い機動城砦が、砂煙を上げて近づいてくる。
嗚呼、『嵐の使者』がやって来る。
良いでしょう。
不幸を運んでくると言うならば、主様が戻るその前に、その不幸の芽を全て刈り取ってみせましょう。
◇ ◇ ◇ ◇
剣姫が地平線の向こうに黒い機動城砦を見止めた頃、サラトガの艦橋でも精霊石板には、それが映し出されていた。
「あれがアスモダイモス……ずいぶんと禍々しい姿をしておるのう」
艦橋の最後方、一段高いところにある豪奢な自席に腰を埋めながら、ミオが呟いた。
しかし、その呟きは誰にも伝わらず、空しく壁に吸い込まれていく。
いつも傍に控えているキリエの姿はここには無い。
昨日のキスクとの戦いで負った傷は予想以上に深く、キリエは病室の病床の上。そして、その妹ミリアも、全ての策をミオに預けて、今は病室に付き添っている。
「接触までどれぐらいじゃ」
「半刻……もっと早いかもしれません」
艦橋クルーの一人が自信なさげにそう答える。
「半刻か……」
口の中でその言葉を転がしながら、ミオは窓から城の周囲を見下ろした。
其処には、異常な光景が広がっている。
城から放射状に伸びた鎖に無数の人間が、鈴なりにしがみついているのだ。
ここにいるクルー達と、焚火を煽いで煙を立てている工兵達を除けば、その数はサラトガ軍のほぼ全員といってもいい。
反対に、敵が接舷し、侵入してこようという城壁の周囲には、破損した一画にいる剣姫を除けば、誰一人配置されていない。
城壁の上に迎え撃つ兵の一人も配置しないというならば、諦めて無抵抗に降伏しようとしている。そう見られても仕方がない。
しかし、ミオをはじめ、サラトガの兵士達に降伏するなどという考えは、微塵も無かった。
「やれるか?」
ミオが、艦橋クルーの一人に問いかける。
「ミオ様がやれとおっしゃるならば、どんなことでも」
ベテランのクルーが冗談めかして答え、ミオはそれに笑顔で応えた。
◇ ◇ ◇ ◇
精霊石板越しに敵の姿を捉えているのは、サラトガ側だけではない。
同じ頃、アスモダイモスの艦橋では、映し出されたサラトガの姿に、早くも戦勝ムードが漂っていた。
精霊石板に映るサラトガは、廃墟のような様相を呈している。
城壁の一角は50ザールあまりに渡って崩れ落ち、そこに人影はない。さらには中央の城のあたりからは、黒い煙が幾筋も立ち昇っているのだ。
「ふむ、先遣隊は、どうやら上手くやったようだな」
アスモダイモス伯サネトーネは艦橋の自分の席に深く腰掛け、長く伸びた髭を神経質に摘まんでは、ひっぱりながら呟いた。
先に送り込んだズボニミルとキスクが、サラトガを占拠していたならば、少々の抵抗があったとしても、容易くサラトガを落とすことができるだろう。
「呆気ないものだな」
サネトーネのすぐ脇に座っている、暗褐色のローブを着た男が囁く。
ちらりとそちらに目を向けたサネトーネに、その男はさらに囁き続ける。
「お主の復讐も、これで終わりだ。後は私の目的のために、全力を注いでもらうぞ」
「ああ、本当に終わりならばな……」
これで本当に終わりならば、良い。
そうすれば、あんなまどろっこしい策謀など、使わずに済む。
そう考えながらも、サネトーネは油断をするつもりは無かった。
剣姫であろうと、あの悪魔憑きの男だろうと、力で押してくるものであれば、何とでもできる。サネトーネはそう信じていた。
ただ一人恐れなければならないのは、あの家政婦だ。
今、サネトーネを名乗っているこの男を、生前、散々に打ち破り、命を奪ったのは結局、あの小賢しい家政婦の策謀なのだ。
『罠』
このサラトガの惨状も、サネトーネにはそう思えて仕方がない。
それゆえ、サネトーネは慎重に策を実行に移す。
接舷が完了した時点で、サラトガが手も足も出ない状態に持って行くのだ。
通常、機動城砦が接舷する際には、側部を並べて橋を渡す。
しかし、今、アスモダイモスはサラトガの左舷、その中央に向かって正面から接近している。
上空から俯瞰してみれば、両者の位置関係は最終的にはT字の形となるはずだ。
これには理由がある。
通常、機動城砦の正面には、二門の発射口がある。
その大きさは、直径46センチ。
魔力を砲弾として撃ち出す魔力砲と呼ばれる強力な兵器の発射口である。
ただ、魔力砲を実際に放つことのできる機動城砦は、非常に少ない。
というのも、それを撃つ魔術師が、一人でその膨大な魔力を賄わなくてはならないからだ。例え、発射できるだけの魔力を持った魔術師を抱えていたとしても、一発撃てば、その魔術師はしばらく使い物にはならない。
戦略的に考えるならば、ほとんど意味の無いものだ。
しかし今回に限って言えば、話は別である。
動けないサラトガにこの形で接舷すれば、サラトガはどてっ腹に巨大な銃口を突きつけられた様なものである。
この場合、撃てるかどうかが問題なのではない。
撃てるかもしれない。そう思わせることが重要なのだ。
抵抗すれば撃つ。
ホールドアップ。
そして、チェックメイトである。
こうなってしまえば、いかにあの家政婦が、悪魔のような策謀を巡らせようとも、もう遅い。
サラトガの人間の生殺与奪は、全てサネトーネが握ることになる。
サネトーネは再び精霊石板に目を向ける。
今、まさにサラトガの側面に、アスモダイモスの正面が押し付けられるところであった。
「ははは! やった! やったぞ!」
子供のようにはしゃぐ声を上げた後、サネトーネは周囲を見回して咳払いをする。
そして、別人の様に顔を引き締めて、艦橋クルー達にこう宣言した。
「架橋後速やかに、進撃せよ。抵抗しようがしまいが、かまわん。一人残らず殺せ。我々の目的はサラトガの占領ではない。殲滅である。この地上からサラトガという機動城砦があったという痕跡を何一つ残さず消し去るのだ!」
◇ ◇ ◇ ◇
サラトガの左舷中央に鼻先をくっ付けるようにして、アスモダイモスが停止した。
艦橋で精霊石板を見守るミオの目に入ってくるのは、ガタンガタンという音を立てて、次々に屋根付き梯子が架橋されて行く光景。
その屋根付き梯子を伝って、黒一色に統一されたアスモダイモス兵が続々とサラトガの城壁に降り立つ光景は、群がる蟻の大群を思わせる。
「我慢……我慢じゃ。我慢……我慢……」
大量の蟻に群がられる想像に怖気を感じて、ミオの腕にはぷつぷつと鳥肌が立っている。
その不快さに顔を歪めながら、ミオは唇を噛みしめて耐えていた。
もう少し……もう少しじゃ。
城壁に降り立つ敵兵は凡そ3000を超え、一部は市街地へ向かって、階段を駆け下り始めている。
そして、その数が4000に届こうかという時に、屋根付き梯子から降りてくる敵兵が、一瞬途切れた。
ここが、限界だ。
ミオはあらん限りの声を上げ、腕を振り上げて命令を下す。
「サイレンを鳴らせ!」




