第36話 ニーノは1/4
下水道が脇を走る暗い通路。
ナナシとアージュは、長い時間、無言のままそこを歩いていた。
機動城砦の最下層に広がる下水道とゴミ処理のフロア。
その規模は、機動城砦のほぼ全域と同じサイズである。
サラトガの倍ほどもあるゲルギオスならば、ほぼ8000ザール四方程と見ていいだろう。
そこを歩いている間にも二人の胸の内には、様々な思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返してはいたが、言葉という形を伴って、表出出来たものは何一つ無かった。
ただ、あまりにもお互いのことを意識しすぎて、相手が少し動いただけでも、ピクリと反応してしまう、そういう行動を繰り返している。
もし、他の人間がこれを見ていたならば、前後に列をなして歩きながら、時々ピクンピクンと身体を跳ねさせる、ちょっと変わった病気の人達だと思ったことだろう。
しかし、2刻ほども歩いた頃、アージュの中でやっと一つの思いが形になった。
「なあ……」
「はい?」
アージュの呼びかけにナナシは立ち止まって振り返る。
その表情は少し強張っていた。
「手」
「手?」
「繋いでいいか……な」
そう言って上目使いに、ナナシを見上げるアージュ。
熱っぽいその表情にナナシは息を飲む。
この人、アージュさんですよね……?
これまでに散々、ナナシの尻を蹴り上げてきた女性と同一人物なのだと思うと、キサラギではなく、こっちの方が偽物なんじゃないかとさえ思えてくる。
僕の知ってるアージュさんがこんなに可愛いわけがない。なのである。
硬直して、返事を返さないナナシの顔をアージュは不安そうに覗き込み、慌ててナナシは返事をする。
「は、はい」
そう言って、ナナシが手を取ろうとした瞬間、アージュの身体がピクリと跳ねた。
「あ、火傷、痛かったですか?」
「ううん、違うの。嬉しかった……んだ…よ」」
最後の方は消え入りそうな声。
アージュは恥ずかしそうに俯いた。
ナナシもどう反応していいか分からず、ただ顔を赤くして下を向く。
ナナシは思う。
さすがにこれは、誤解してしまいそうになる。
アージュは身体を張って、ナナシのことを元気づけようとしてくれているだけなのだと、あらためて自分に戒めた。
動くためのタイミングを失い、二人はしばらくそのまま佇む。
しかし、いつまでもこうしてはいられないと、ナナシは話題を変えた。
「ああ、それはそうと、機動城砦の最下層フロアってこんな地下迷宮みたいになってたんですね。ハハハ……」
「う、うん……そうだね ふふふ」
それだけ言って、二人また沈黙。
ど……どうしよう。
気まずくも妙に熱に冒されたような空気が、薄暗い地下通路に漂う。
「い、行きましょうか。出口はどっちかなぁ~」
妙に白々しい口調でそう言いながら、ナナシは歩きはじめる。
しばらくすると、手を牽かれるままに無言でついてきていたアージュが、再びナナシを呼び止めた。
「なあ……」
「はい?」
ふりむいたナナシは、熱っぽい目で見つめるアージュの姿を見た。
「やりなおさない?」
「なにをですか?」
「キス」
ピキッという音をたてて硬直するナナシ。
反面、心の中で「えええええええ」と驚愕の叫びを上げている。
「イヤ?」
ナナシはブンブンと首を振る。言葉は出てこない。
「だって、さっきのは血の味しかしなかっただろ。その……やっぱり、あの、初めてのああいうことが、それじゃあイヤというか……なんというか。キミは目を瞑っててくれるだけでいいから……さ、ねっ」
「わ、わかりました」
ゴクリと唾を飲み込むと、ぐっと力を籠めて目をつぶるナナシ。
その必死な様子にアージュはクスリと笑う。
「じゃ、いくよ」
アージュの唇がゆっくりとナナシの唇へと近づいていき、それがほんの少し触れたその瞬間。
「コラァ! どこから入り込んだジャリども!」
「ひゃ!」
ナナシの背後から大きな怒鳴り声が響き、二人は身体を跳ねさせるようにして離れる。
慌ててアージュを背中にかばって、刀に手を掛けながら、ナナシは声のした方へと向き直った。
「まったく、最近の若い者は逢引きするのに、こんなところまで入りこんでくるとは……」
暗闇の中からブツブツと文句を言いながら歩いてきたのは、老人。手に大きな熊手のような道具を持った、やけに肌の白い老人であった。
「もう、朝方じゃぞ。とっとと家に帰れ、このジャリタレが! 仕事の邪魔じゃ」
「あ、す、すいません」
どうやら、この老人はゴミ処理の作業員の様だ。
あの白い肌は年がら年中、地下で作業しているから全く日焼けをしないのだろう。
ナナシとアージュのことを、イチャイチャするためにここへ入り込んだカップルだと思っている様だった。
誤解を解きたいという衝動を抑えながら、ナナシは老人へと尋ねる。
「僕たち道に迷ってしまって……。上のフロアに出るにはどうしたらいいんでしょう?」
「あん?」
老人が不機嫌そうに眉を吊り上げる。
「何を言っとる。目の前に梯子があるじゃろが」
老人が指さす方向に目をこらすと薄暗闇の中、数メートル先の壁面に梯子がかかっているのが見えた。
なんだか、俯いたり、目を反らしたりばかりしていたので、それに気が付かなかったのかと思うと、異常に気恥ずかしくなる。
「あ、ありがとうございます」
老人に礼を言うと、そそくさと梯子に向かって二人は歩いていく。その様子を見送りながら、老人は「ふん」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
梯子は、さすがに二階層分の高さだけあって、相当に長かった。
手に火傷を負っているアージュを気遣いながら、なんとか登り切って、四角い鉄の蓋を少し開け、外を見回す。
大丈夫……誰もいない。
そこは、町はずれの公園の一角。生い茂った木々、そのすぐ脇に粗末な小屋が建っている。おそらくあの老人の棲家なのだろう。
音を立てないようにゆっくりと鉄の蓋を持ち上げて外へでると、ナナシは手を伸ばしてアージュを引っ張り上げる。
早朝の涼やかな空気。
ゴミ捨て場と下水道の悪臭から解放され、地面にペタリと座り込むと、二人して大きく息をすいこんだ。
「やっと出られましたね」
「ああ、でもここからが大変だ。たぶん、街中は警備兵が一杯出ていると思うぜ」
気が抜けたのだろう。それまで女の子らしいものになっていたアージュの言葉づかいが、いつものぞんざいな男言葉に戻っていた。
「宿屋にニーノを迎えに行って、それから脱出ですね」
アージュはこくりとうなづく。
「アージュさんは砂を裂くものを回収して、城壁のところで待っていてください。僕がニーノを迎えにいきます」
ナナシのその言葉に、アージュは表情を曇らせる。
「足でまとい……か?」
確かにアージュは、今、武器を失い、手に火傷を負っている。戦闘ということを考えるなら戦力とカウントすることは難しい。
「違います。そうじゃありません。僕たちだけならともかく、ニーノを連れた状態で見つからずに移動するのは、相当難しいと思います。ニーノを連れ出したら、とにかく走って城壁にたどり着きますから、直ぐに飛び出せる様にしておいてほしいんです」
「…………わかった。でも約束だからな。ちゃんと私をサラトガまで連れて帰ってくれよ」
「必ず連れて帰ります」
「気を付けろよ」
寂しそうにそう言うと、アージュは突然ナナシの頬に唇を当てて、振り向きもせず、城壁の方へ向かって走り出した。
茫然とアージュの背中を見送った後、ナナシは自分の頬を叩く。いつまでも呆けているわけにはいかない。
ナナシは、フードを目深に被ると、市街地の方へと歩き出した。
慎重に建物の角から通りを覗きこむと、案の定、武装した兵士達がうろうろと巡回している。
路地裏を縫うようにして、慎重に移動を繰り返す。
そうして、なんとか宿屋へとたどり着き、入口から中へと走りこむと、そっと階段に足を掛ける。
「おう、旦那さん、散歩かい」
その瞬間、後ろから声を掛けられ、ナナシの心臓が跳ねあがった。
大丈夫、宿屋の主人だ。どきどきとおさまらない鼓動を気にしながらも、自分にそう言い聞かせ、背を向けたまま、何事も無かったかのように返答する。
「ええ、気持ちのいい朝ですから」
「ああ、そうだな。兵隊達がやたらうろついてんのが目障りだが、良い天気だからな」
「そうですね。じゃ、これで」
ナナシが話を切り上げて、階段を登ろうとすると宿屋の主人が言った。
「そうそう、旦那さんにお客さんが来てるぜ、一応部屋に通しといたけどよ」
「客ですか?」
「ああ、お前さん、領主様の兄さんだったんだな。魂消たよ」
その瞬間、ナナシの中で、激しい焦燥が火の手を上げた。
宿屋の主人に返事を返すことも忘れ、全力で階段を駆け上がると、乱暴に部屋のドアを蹴破り、中へと飛び込む。
「ニーノ!」
ナナシの目に飛び込んで来たのは、壁際にぺたりと背を付けて、警戒感を露わにしているニーノと、緩やかに微笑みながらベッドに腰掛けるキサラギの姿。
見る限り、キサラギの右手はアージュに切り落とされたそのままだ。ゴーレムとはいえ簡単につけたり、外したりできるものでは無いらしい。
突然飛び込んで来たナナシに驚いて硬直するニーノ。一方キサラギは驚く様子も見せず、満面の笑みを浮かべて口を開く。
「あんちゃん、お帰りなさい」
キサラギを睨みつけながら、ナナシはニーノへと歩み寄る。
ナナシの姿にほっとしたような表情を浮かべて、ニーノは訴えかける。
「ゴミカス旦那様、おかしいこの人。ネィ、人の臭い、ない」
ナナシはニーノを背中に庇うように、キサラギに向かって立ちはだかる。
「あんちゃん、そんな怖い顔しないでよ。キサラギ寂しいよ」
声音こそ神妙なものであったが、キサラギの顔には、ぺったりと張り付いたような笑顔が浮かんでいた。
「化物、お前はキサラギじゃない!」
「酷いなぁ、あんちゃん。私の中のキサラギちゃんが悲しんでるよぉ」
そう言って、キサラギはイヤらしく顔を歪める。
『私の中のキサラギちゃん』
その言葉はナナシを動揺させるのには充分であった。
「あんちゃんは優しいから、キサラギに酷い事なんてできないよね。私が傷ついたら、私の中のキサラギちゃんも一緒に苦しむんだから」
そう言って立ち上がると、キサラギはそのままナナシの方へと、ゆっくりと歩みよってくる。
ナナシは、目を離すことができない。逃れようとしても、全く足が動かない。そしてどんどん息苦しくなっていくのを感じていた。
「あんちゃん、キサラギと一つになろうよ」
鼻先が当たるほど顔を近づけられているというのに、ナナシは硬直してしまって動くことができない。目を見た時点でなんらかの術を掛けられてしまった様だ。
「んふふ、呆気ないなぁ。やっぱあんちゃんは、お人よしなんだよ」
言葉を絞り出そうとするが、やはり唇一つ動かすことができない。
ナナシの額に玉の汗が浮かぶ。
「じゃ、いっただきまーす!」
キサラギが無邪気な様子でそう言った瞬間。
「ぎゃああ!」
ナナシの背後から飛び出した影が、キサラギの頬を切り裂いた。
化物じみた悲鳴を上げてよろめくキサラギ。
その影はベッドの上に、ストンと着地するとナナシに向かって声を上げる。
「ネィ! 旦那様しっかりする」
ニーノだった。
ニーノの頭からはピョコンと三角の耳が飛び出し、手足は髪と同じ赤い毛で覆われている。
「半獣人!」
キサラギが頬を押えながら、しゃがれた声で絞り出す様に叫んだ。
「ネィ! その半分。ニーノは1/4」
予想外の出来事に、ナナシ自身も驚いたが、ニーノがキサラギを攻撃してくれたおかげで術が解けたようだ。
身体が動くようになっていることを確認して、ナナシはニーノに向かって声を上げる。
「逃げるぞ、ニーノ! 来い!」
「ヤー 旦那様」
笑顔で返事をするとニーノはベッドの上から跳躍し、ナナシの背中にしがみつく。
次の瞬間、ナナシは背中にニーノを背負ったまま、一切振り返りもせず、宿屋の階段を駆け下りると、外へと向かって脱兎の様に飛び出していった。
ナナシとニーノが飛び出した後、部屋の中には静寂が居座る。
そこに、一人取り残されたキサラギは、膝をついたままつぶやいた。
「あんちゃん。逃がさないよ」




