第31話 私がお前の生きる理由になってやる
アージュがダストシュートに飛び込んだことを後悔するまでには、たいして時間はかからなかった。
直滑降と言っても良いスピード。下から上へと吹き上げる、息苦しいほどの風圧に晒され、ばさばさと音を立てて、髪が靡く。
光ひとつない闇。自分の身体の幅ギリギリの細いスペースを滑り落ちていくうちに、次第に方向感覚が失われていった。
いつまで落ち続けるのだろう。
落ち始めて数秒。しかし、アージュには永遠とも思えるほど長い時間。
最悪の状況は考えちゃダメだ。
そう考えてしまったことが、最大の失敗だ。
『白熊の事は考えるな』そう言われて、頭の中に白熊がコンニチワしない人間は居ない。むしろ大量の白熊が、頭の中でパレードし始める人間の方が多いぐらいだ。
アージュの頭の中を『最悪の状況』が塗りつぶしていく。
この先が細くなっていて、途中で詰まってしまったらどうしよう。
こんなところで身動き一つとれず、ただ死を待つ。
そんな状況に陥った自分の姿が頭の中でループして、項の辺りに冷たいものが走り抜けるような感覚を覚えた。
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁああ!」
アージュはとうとう耐え切れなくなって、悲鳴を上げる。
その瞬間、黒一色のアージュの視界に変化が訪れた。
足元が明るくなった。アージュがそう思った途端に、身体を支えるものが無くなって、無様に手足をバタつかせながら、広い空間に投げ出される。
「ヒッ!」
しゃくり上げる様な声を空中に残して、そのままゴミの山の上に尻から転落。水気を含んだグチャッという音を立てて、生ゴミが周囲に跳ね飛んだ。
「いやあぁだ、もう! 気持ち悪いぃ!」
その声は、いつもの若干ヤサグレ気味のアージュではなく、14歳という年齢相応の少女のものであった。
臭いと、感触は最悪だが、ともかくゴミの集積場まで、無事に落ちることが出来た様だ。
胃からこみ上げてくるものを必死に堪えながら、手に付いた正体不明の粘液状のゴミを、ぶんぶんと振り落としつつ、アージュは考える。
サラトガと同じような構造になっているならば、ここは機動城砦の最下層、城や市街地のフロアの下。非戦闘員の避難エリアよりもさらに下。下水とゴミ処理のためのフロアだ。
今いる此処は、ゲルギオス城の直下、城から出るゴミの集積場だろう。
数十ザール四方の広間の中、天井に開いた幾つもの穴の下に、それぞれゴミの山が出来ていて、ドアの無いアーチ状の出口が壁面の一画に確認できる。どうやら、その先は通路になっているようだ。
そこまで冷静に確認した上で、アージュはやっとナナシの事を思い出す。
「ナナシ! 何処だ!」
慌てて周りを見回すと、ゴミ山の向こう、石造りのフロアの上に、大の字に転がっているナナシの姿があった。ゴミ山に落ちて、そのまま更に転がり落ちたのだろう。アージュより更にひどいゴミ塗れの姿である。
「おい……大丈夫か?」
アージュの問いかけに、返事は返ってこない。
しかし、遠目にもナナシの胸が上下していることがわかって、アージュは、ホッと胸を撫で下ろした。
いや、心配したってわけじゃねえぞ……アイツが居ないと砂を裂くものも動かせねえしな。
と、アージュは、ホッとしたという事実を誰に向かってか、言い訳した。
「よっこらしょ」
年寄りのような掛け声とともに、なんとか立ち上がって、アージュはナナシの方へと歩み寄る。
ナナシの頭のすぐ脇に立って見下ろしながら、アージュはナナシに声を掛けた。
「オマエに関わると、ホントこんなんばっかだ……な」
苦笑しながら、軽口を叩くようにそう言いかけて、そのままアージュは言葉を失う。
アージュの足元に転がるナナシの顔には、表情と呼べるものが何も無かった。
それは、溢れ出ようとする感情が巨大すぎて、どこからも出すことができない。アージュにはそんな風に見える。
ただ、光の無い眼から、はらはらと零れ落ちる涙が、隙間をぬって洩れだしたナナシの感情の上澄みのように思えた。
「キサラギを……妹を守れませんでした」
喉を締め上げられたような声で、ナナシが呻く。
家族を――妹を化物に喰われるという、現実を突き付けられた15歳の少年の姿がそこにあった。
オマエのせいじゃない。
アージュはそう言いかけて……止めた。
きっと今のナナシには、こんな言葉では届かない。
かける言葉を失ってアージュは、ただ無言でナナシを立たせると、手を牽いて、ごみ集積場の隅に積まれている樽の前まで連れて行った。
ゴミ集積場にも、それを処理する作業者がいる。
おそらく作業者の手洗い用だろう。樽の中には真水が並々と湛えられていた。
それを床に転がっていた手桶で掬って、アージュは頭からかぶる。
「ああ、気持ちいい」
そしてナナシにも、ざぱんと頭から掛ける。
「どうだ、気持ちいいだろう」
その問いかけにもナナシはピクリとも反応しない。
自分がかぶり、ナナシに掛ける。
アージュはしばらく、それを無言で繰り返した
樽の中の水が、もうほとんど掬えないほどになると、身体についたゴミはほとんど流れ落ち、二人ずぶ濡れのまま、ただ立ち尽くす。
自分の髪の先から滴る水滴越しに、アージュはナナシの様子を窺った。
額に張り付いた髪、死人のような顔、力なく落ちた肩。だらりと垂れた腕。頬を伝う水滴は、水か涙か。
もうコイツはダメかもしれない。
アージュをして、そう思わせるような雰囲気をナナシは纏っていた。
死の誘惑に取りつかれている。アージュにはそう見えたのだ。
確かにこの少年は失敗した。妹を救えなかった惨めな敗残者だ。
この馬鹿な少年をここまで突き動かしてきた『理由』は、今はもう、煙の様に消滅してしまったのだ。
アージュは、溜息をつく。
この状態のナナシを連れて脱出することは、不可能だ。
……置いていくか。
アージュはそう自問して、すぐに苦笑する。
出来るわけが無い。
自分は既に、この少年に係わり過ぎた。
アージュには、自分が何をすべきか、もう分かっている。
今、この少年には、生き残るための『理由』が必要なのだ。
仕方がない。これは緊急避難だ。人助けだ。
自分に向かって、そう繰り返せば繰り返すほど、心はそれが嘘だと大きな声で叫びを上げる。
……わかったよ。正直に言う。私も、それを望んでるんだ。
そう認めた途端、アージュのささやかな胸の奥で、心臓がビクリと跳ね、そのまま大暴れしはじめた。
大きく息を吸って吐く。もう一度吸って……吐く。
さすがに初めてが、ゴミの山の中というのは、幾らなんでも酷いと思う。
神様という奴がいるなら後でぶん殴ってやる。
アージュは、再びナナシに目をむける。
その時、それまで表情の無かったナナシの顔に、微かな表情が浮かんだ。
それは、泣いている人間が無理やり作った微笑み。
苦しそうで、寂しそうな、胸を刺す別れ際の笑顔。
「アージュさん、僕のことはもういいですから……」
ナナシが穏やかな声でそう言った瞬間、アージュの中で何かが決壊した。
アージュは乱暴にナナシの髪を掴むと、力いっぱい下へと引き下ろす。
ナナシの顎が上がって、上を見上げる様な体勢になると、アージュは身体ごと覆いかぶさるようにして、ナナシの唇に、自分の唇を押し付けた。
「ん、んんっ」
突然のことにナナシは驚き、目を見開く。
しかし、髪を引っ張られ、腕の関節を取られたナナシは動くこともできない。
アージュのソレは、キスなどという、生易しいものでは無かった。
ガチガチと歯が当たり、口の中が切れて、鉄の味、鉄の臭いが口腔に充満する。
しかし、それを物ともせず、ただひたすらにアージュの舌が、ナナシの口内を貪り、蹂躙し続けていった。
それはまるで、獣の侵略。獣欲の奔流。――――実際のところは、がさつなくせに純情な一人の女が、経験のないまま、思いの丈を全力でぶつけた結果であった。
余りの息苦しさに、ナナシは目を白黒させて、アージュの身体を跳ね除ける。
呼吸を荒げて、よろよろと後ずさるナナシ。
そのナナシを真っ直ぐに見据えて、アージュは言った。
「どうだ! 私のことが好きになったか?」
「え?」
アージュの突拍子もない発言に、ナナシの頭の中で思考が上滑りする。
「私のことが好きになったかと聞いているんだ! 馬鹿野郎!!」
「は、はい!」
アージュの権幕に押されて、ナナシは反射的に応える。
それを満足そうに見据えると、アージュはビシリとナナシを指さして言った。
「よし! 私がお前の生きる理由になってやる! お前は今、私を無事にここから逃がす責任を負ったんだ」
「え?……それはどういう……」
ナナシの狼狽をよそに、急に顔を赤らめてモジモジとしながら、アージュは消え入りそうな声で言う。
「あ…愛する女を死なせるわけにはいかんだろう? 男として」
そのまま、恥ずかしそうに俯くアージュ。沈黙が二人の間に舞い降りた。
そして次の瞬間。
「ぷっ! ぷぷ、ははははは……」
ナナシが噴き出した。
「な、何がおかしい!」
顔を真っ赤にしてナナシへと詰め寄るアージュ。それでも一向に笑うのをやめないナナシの身体をポカポカと叩く。
「なんだよぅ。わ、わたしが愛する女とか、そんなおかしいかよっ」
ナナシは目尻の涙を指先で拭いながら、アージュに微笑みかける。
「ありがとうございます。もう大丈夫です。サラトガに戻るまではアージュさんを守りきって見せますから」
ナナシのその微笑には、もう翳りは無い。
アージュはナナシに微笑みかえしながら、聞こえないように小さな声で呟いた。
「サラトガに戻るまでは……か」




