第2話 さて、これからどうしましょうか……
鮮やかな緑の羽を広げて、砂漠に鳥が舞う。
四方いずれに目を向けても、見渡す限りの地平線。
連綿と続く砂の海。
時折、吹き抜ける風がゆるやかに、その姿を砂の上に描き出しながら、人の営みが付けたあらゆる痕跡を消していく。
足跡、轍、そして死者。
夕暮れ時。
太陽は揺らめきながら大地に沈み込み、やがて一条の線となりながらも微かに大地を照らしている。昼と夜の狭間、黒と橙と青で、空が幾層にも塗り分けられる僅かな時間。
地を這う者達を、嘲るように鳥は舞う。
鳥が落とした長い影を追うように、大地を巨大な城壁が、西へと向かって疾駆していた。
それは、あまりにも巨大な建造物であった。
上空を飛ぶ、鳥はその全容を俯瞰して見ていたことだろう。
全長約4000ザール、全幅約1500ザール。(1ザールは約1メートル)
中央に巨大な尖塔を持つ城砦都市が、一つ丸ごと砂煙をあげながら移動しているのだ。
「あ、ダメ。もう無理です」
少年が、今日6回目の弱音を吐いたのは、疾走するその巨大な建造物の外壁の上だった。もう二刻ほども登攀し続けているというのに、まだ全体の半ばを過ぎたところだ。
未だ頂上は遠く、あきらめて飛び降りるには、大地はすでに遠い。
どこまでも平坦な砂漠で生きてきた少年にとっては、これほどまでに高い場所にいること自体が初めての体験だった。
石と石の間にナイフを差し込みながら、ゆっくり、ゆっくりと上を目指して昇っていく。ときどき来る大きな揺れに怯えながらも、歯を食いしばって昇り続けた。
「つ……着きました」
少年が城壁を昇り切ったのは、太陽が沈んでずいぶん経った頃。
闇が濃くなるにつれて、三日月が明るさを増し、多くの人々がすでに夕餉を済ませたであろう時刻であった。
頭だけを城壁の上に出して、キョロキョロとあたりを見回した後、少年は転がるように城壁の上にあがった。
幸いにも城壁の上に人の影は無く、少年は大きく息を吐くとその場で、大の字に寝転がる。呼吸は荒く、腕は既に感覚がなくなって、脚もがくがくと震えていた。
「これはもう使えませんね。ご苦労様でした。」
両手に握ったままだった、刃先の潰れた2本のナイフを、寝転んだまま城壁から投げ落とし手を合わせた。
しばらく横たわって息を整えた後、城壁の上から、その内側を見下ろして、少年は息を飲む。
そこには、砂の海で一生を過ごす砂漠の民として生まれた少年にとっては、見たことも無い光景が広がっていたのだ。
巨大な尖塔を持つ城を中心に、放射状に伸びる石畳の道。その両側に並ぶ無数の石造りの建物。一つ一つの建物の窓からは、 精霊石のものと思われる温かい光が漏れだしていて、いくつかの煙突からは遅い夕餉の支度をする煙が立ち上っている。
「す……すごい。これが貴種達が住んでる町なんですね」
少年は思わずつぶやく。
特定の住居を持たず、漂泊しながら、夜は砂に潜って眠る砂漠の民として育った少年にとって、それは異世界も同然の光景であった。
石作りの家を見たことがないわけではない。オアシスの傍には、少数ながらも定住する非貴種と呼ばれる人達がいる。。
しかし、ここまで整然と沢山の建造物が立ち並んでいるのを見たのは初めてだった。
この砂漠の国では、生活圏によって人間は大きく三種類に分けられる。
機動城砦、その城壁の内側に住むもの貴種。城壁の外、数少ないオアシスの傍に定住するもの非貴種。そして砂漠の民だ。
貴種達は、罪を犯した者を処刑する時には、ただ砂漠へと放逐するだけなのだという。城壁の外は彼らにとって地獄と同義なのだ。昼間は50度に迫り、夜間は零下にも落ちる気温。体長1000ザールにも及ぶ巨大蚯蚓が群れを成すこともある。
貴種達は、そんな地獄で生活する砂漠の民を、人間だとは思ってくれない。ただ、蔑んで地虫と呼ぶのだ。
これまでも非貴種の商人から食糧を調達するときに、彼らに地虫と呼ばれることはあったが、特に気にしたことは無かった。
しかし、今少年の胸に芽生えたのは、微かな羨望であった。
少年は、膝を抱えて座り、長い間、呆けるように夜景を眺めていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「さて、これからどうしましょうか……」
まさかのノープラン。
別に少年は冗談を言っているわけではない。そもそも、この城砦都市への潜入からして、あまりにも衝動的なものだったのだ。
城壁を登っている途中で、あまりの辛さにテンションが落ちて、我に返った後の絶望感。その低いテンションのまま、城壁を登攀する辛さは筆舌に尽くしがたいものがあった。
なぜ、この城砦都市に潜入したのか。それは目的があるからだ。
目的はあるが、プランはない。
今さらではあるが一応言っておく、少年は割と無鉄砲な性格をしているのだ。
少年の目的はただ一つ、さらわれた妹を救い出すことだ。
妹とは言っても義理の妹。早くに両親を亡くした少年を引き取って、育ててくれた義理の両親の娘だ。名をキサラギと言う。
キサラギは、小さな頃から「大人になったら、あんちゃんのお嫁さんになる。」と言い続けていた。少年が暮らす少人数の部族では、そうなるのがむしろ自然であった。ただ、どんどん世話女房じみていく妹に軽い恐怖感を覚えていたことは否定できない。
閑話休題。
今朝、少年がオアシスで水を汲んで戻ってみると、そこで野営をしているはずの部族の姿はなかった。ただ一人、一つ年下の幼馴染ヘイザが、砂に胡坐をかいて、少年を待っていた。
「みんなは?」
「う、うん、こ、ここから4ファルザング(約20キロメートル)ほ、ほど、南にい、いる…よ」
完全に目元が隠れるほど伸びた前髪の奥から少年をみながら、いつも通りのおどおどとした口調でヘイザは答えた。
「急ですね。僕以外にも、まだ戻ってきてない人もいるんじゃないですか?」
「う、うん。だ、だから、ぼ、ぼ、僕がここで待ってるように言われたんだ。移動したんじゃなくて、に、逃げたんだよ」
「逃げた? 砂洪水でも起きたんですか?」
「ち、ちがうよ。機動城砦に、お、襲われたんだ」
「機動城砦?」
「う、うん。貴種が、た、たくさん出てきて、お、追いかけられた」
「みんなは大丈夫だったんですか?」
「う、うん。だ、誰も怪我とかは、し、してない。……けど」
「けど?」
ヘイザは一度口ごもり、そして言いにくそうに口を開いた。
「き、キサラギが、つ、つれ、連れて行かれちゃった。」
そのあとのことは正直よく覚えていない。
ロバに跨って駆けだす少年をヘイザが声を張り上げて制止しようとしていたような気もするが、些細なことだ。そのまま、一日中走り回って、この機動城砦を見つけ、勢いのままにロバの背から壁面に飛びついたのだ。
妹が機動城砦にさらわれたことを聞くや、この行動。この辺の思考回路は、それこそ地虫と蔑まれても仕方がないような気もする。
ここまで来てしまったのだから仕方がない。このままでは帰る方法もないのだ。
どうにかしてキサラギの居所を探さなくては。
「やっぱり、誰かに聞くしかないんでしょうね……。」
多少、手荒なこともしなくてはならないかもしれない。
少年は腰に下げた得物を触ってその感触を確かめる。
それは、鞘に収まった緩やかに湾曲する細身のブレード。本来、ここにあるべきではないもの。オサフネという銘を持つ日本刀であった。