第152話 断固としてイチャイチャを要求する
「ん、んんっ……」
ナナシはゆっくりと目を開いた。
部屋の中は真っ暗。
瞼を開いたすぐ後も、開く前と見える物には大差がない。
次第に目が慣れてくるにつれて、視覚を通して入ってくる情報が増えていく。
石作りの天井、鎧戸のついていない窓。
使用人部屋、二組の二段ベット。
ナナシはその片側の下段に横たわっていた。
「夜……か……、ん? 夜っ!?」
ナナシは思わず跳ね起きる。
――寝過ごした!
今頃、海岸には『海の死に物』が押し寄せている筈だ。
耳を澄ませば、確かに遠くの方から多くの人間が騒いでいる様な声が、微かに聞こえてくる。
―ー行かなきゃ!
ナナシが慌てて立ち上がろうと手を付いた途端、
ふにょん。
異常に柔らかいものが掌に触れた。
「あんっ」
艶めかしい女の子の声が身体のすぐ脇から聞こえて、ナナシの額にじわりと汗が滲む。
視界は真っ暗なのに、思考はいきなり真っ白。
「起きたんだ?」
盛大に顔を引き攣らせながら、声のした方へと視線を動かすと、そこにはコットン素材の少し子供っぽい夜着を纏ったミリアの姿があった。
じゃあ、この掌の感触は?
……などと考えるまでも無い。
「うわああああああああああああああああああああ!?」
ガタガタッ!
とベッドの枠から転がり落ちそうな程に動揺するナナシ。
くすくすと笑いながら、ミリアが身体を起こす。
「もう……悲鳴を上げるのは、普通女の子の方なんだけどなあ」
「ミ、ミ、ミ……ミリアさん、な、なんでそんなところに」
「なんでって……酷い。ナナちゃん、忘れちゃったの?」
よよよと泣き崩れるミリア。
冷静であれば一発でわかるレベルの大根演技なのだが、起き抜けで既に混乱状態のナナシに、それをツッコめというのはあまりにも酷な話だ。
「いや、あの……ええっ!?」
ナナシは蒼ざめてあわあわと宙を掻き、その様子にミリアは思わず噴き出した。
「ふふっ、冗談、冗談だよ。ボクが勝手に横で寝てただけだから」
ナナシはホッと胸を撫で下ろす。
「もうミリアさん! 剣姫様やマレーネさんはもう慣れましたけど、ミリアさんにまでそんな事されたら心臓に悪いじゃないですか」
「え”?」
今度はミリアが蒼ざめる番だった。
剣姫やマレーネが隣で寝ていることには慣れた、ナナシはそう言ったのだ。
ナナシとしては深い意味は無い。
ペリクレスにいる時には、朝起きれば大体すぐ隣に剣姫かマレーネ、酷い時には両方が潜り込んで来ていたのだ。
最初の頃こそ、いちいち悲鳴を上げて逃げ惑っていたものだが、何度言っても無駄、部屋の鍵を増やせば、壊れた鍵が部屋の隅に詰み上がる始末。
そう言う状況が長く続けば、終いにはもうどうでもいいやと、ナナシが投げやりになったとしても、それは責められない。
人間は環境に適応する動物なのだ。
「それはともかく、早く海岸の方へ行かないと……」
「え、あ……うん?」
ミリアはフリーズ状態からなんとか再起動して、多少戸惑いながらもナナシに向き直る。
「け、剣姫様とドンちゃんが行ってるから大丈夫だよ」
「しかし……」
確かに剣姫とゴードンが、あの魚の不死者ごときに遅れをとることなど有り得ない。
だが、二人が戦っているのに、自分は何もしないなど、ナナシの性格から言って出来る筈も無かった。
それを見越したのだろう。ミリアが、
「ダメだ! 我が弟よ! まだちゃんと回復してる訳ではないのだぞ、今日はゆっくり休むのだ!」
キリエの口調を真似しながら、鼻先に指を突きつけてきて、ナナシは思わず苦笑する。
確かにキリエにそう言われてしまったら、言う事を聞いてしまうかもしれない。
結局昨日はミシャが海に飛び込んだ後、ナナシはそこから動く事も出来ず、ミリアが衛兵隊長に船を出してもらってようやく回収されて、この部屋まで戻ってきた後、倒れこむ様に眠ってしまったのだ。
「一応、寝てる間に衛兵隊長さんにお願いして、回復魔法を使える魔術師さんを手配して貰ったけど、死にかけた直後だからね。体力の消耗も酷かったんだから」
「あ、ありがとうございます」
ミリアは腕を組んでふん反り返る。
「だからね。ナナちゃんは堂々と休んで良いの。ドンちゃんは、とばっちりだけど、剣姫様が少人数で対処しないといけなくなったのは自業自得。罰ゲームみたいなもんだよ」
「そう……なんですかね」
「そうだよ!」
ミリアが間髪入れずに口を開く。
罰ゲームと言われると、何だか気持ちが軽くなった。
「それにナナちゃん、勘違いしちゃダメだよ。ボクらはこの街を守りに来たんじゃない。まずは状況確認。機動城砦ペリクレスをここで修繕できるか、友好関係を結べるか、それがダメなら力づくで抑えるか、占拠するならどういう手を使うか……それを探りに来たんだよ」
「……そうでした」
実際、ナナシは言われてみるまで、すっかり目的を忘れていた。
「で、今の所、ボクの見立てで言えば、ペリクレスでこの執政官の屋敷ごと踏み潰しちゃうのが断然話が早い。その上で2、3人も見せしめに処刑すれば、少々抵抗する人間が居ても、ペリクレスを修繕する間ぐらいは大人しくさせることができる」
「そんな無茶苦茶な!」
ゴンッ!
二段ベッドの下段で思わず立ち上がって、ナナシが後頭部を痛打する。
思わず蹲って呻くナナシの頭を、ミリアが苦笑しながら擦る。
「まあ、ナナちゃんならそう言うだろうと思ったよ。じゃ他の方法はって考えたら、この「海の死に物」を仕掛けたヤツをとっ捕まえる、っていう方法が浮かんでくる。要はこの町の恩人とか英雄とか、恩着せがましくそういうポジションに収まろうって訳だね」
「仕掛けたヤツ? そんなのがいるんですか?」
ナナシが顔を起こしてミリアを見つめる。
「そりゃあいるよ。ずっと昔からそうだったならともかく、最近沈んだ機動城砦なんて無いんだよ? エラステネスが沈んだのを最後に、その前と言ったら100年近く前の話だもの。そんな魔晶炉が勝手に起動して、急に魔力が洩れ出すなんてこと有る訳が無いよ」
「何か当てはあるんですね?」
「当てっていう訳じゃ無いよ。実は昼間聞いて回ったら、ちょっと怪しい人がいるんだよね。『海の死に物』が出没し始める直前に中央から派遣されてきたっていう執政官代理。その人が来た後、執政官は病気で引き籠って、人前に出なくなったんだって、どう考えても真っ黒だよね。代理の人間が来てから病気になるなんて、普通有り得ないよ」
「確かに怪しいですけど……偶々って可能性もありますよね」
「良いんだよ別に、偶々でも」
ナナシは思わず眉間に皺を寄せる。
「正直、執政官代理を悪人に仕立て上げちゃえば、どっちでも問題ないんだから」
「ちょ、ちょっと! ミリアさんそれはダメですよ、罪もない人を陥れるなんて許されることじゃありません!」
ナナシは真剣にミリアを睨み付ける。
その視線を微笑みで受け流して、ミリアは満足気に頷いた。
「うんうん、ナナちゃんはやっぱりそうでなくちゃ。じゃあ調べてみて白だったら一から方針を考え直そう」
ミリアの発言の変化について行けずに、ナナシは目を白黒させる。
試されたのかなとも思うが正直良く分からない。
ナナシが困惑する様な表情を見せると、ミリアが唐突に頬を膨らませた。
「ナナちゃん!」
「はい?」
「それはそうと、あんなに言ったのにイチャイチャが足りないぞお! 剣姫様がアホだからあんな娘に唇まで奪われて、腹立たしいったらありゃしない。ボクは今から断固としてイチャイチャを要求する!」
「え、ミリアさん!? ちょっと!」
ナナシが慌てているうちに、ミリアはごろりとナナシの膝を枕に横たわった。
ナナシの体温と途方に暮れる気配を感じながら、ミリアはふふんと鼻を鳴らす。
そして、小さな声で呟いた。
「ナナちゃんが心配する様な事にはならないよ。実は剣姫様が言ってた執政官代理の特徴に、なんだかすごく覚えがあるんだよね。つついてみたら面白いものが出てくるかも」




