第151話 確かにドラ息子っぽい。
グハッ! ゴホゴホゴホっ!
意識を取り戻したその瞬間、ナナシは盛大に咽た。
口から零れ落ちる塩辛い水を拭いながら、眉を顰め、目を見開くと、目の前には見覚えの無い顔があった。
エメラルドグリーンの瞳、編み込みの入った金色の髪を伝った雫がナナシの頬の上に滴り落ちる。
その肌の白さに一瞬、銀嶺の剣姫かと思ったが、顔立ちが全然違っている。
抜ける様な青空を背景に、見覚えの無いその女の子が、ニイッと口角を上げた。
「あ、あの……」
ナナシが戸惑いながら口を開きかけると、女の子は大きく息を吸って、いきなりナナシの事を怒鳴りつけた。
「こンのくそばかッ! 素人が遊んでて良い海じゃ無いンだよ、ココは!」
キーンと耳鳴りする様な大声。
「す、すいません! ごめんなさい! ごめんなさい!」
少女は、目を白黒させながら謝るナナシを一睨みすると、フンと鼻を鳴らして立ち上がる。
「どうせ、女の子の前でかっこつけ様として溺れたんでしょ。情けないったらありゃしない」
「ちがっ!? 違いますよ」
「何言ってんの。家政婦二人も陸で控えさせて、あんな綺麗な女の子と水ん中でバカみたいに燥いでんの見たよ。どこのお貴族様か知らないけど、いい加減にしてほしいよね」
「は? 貴族?」
「違うの? じゃ、どっかの大店のドラ息子ってとこかな?」
ナナシは思わずぽかんとその女の子を眺める。
彼女のその勘違いを訂正したいという気持ちもあるが、それ以前に気になる事があった。
「あの……僕、砂漠の民ですよ? 目の色で分かりませんか?」
「あん? 何言ってんのかわかんないよ。確かに目の色はあんまり見た事無い色だけどさ。それ言い出したらアタシだってこんな色だよ」
女の子は自分の眼を指差す。
「いや、アナタは、異国の人だから、知らないのかもしれませんけど……」
「誰が異国の人よ、誰が! 確かに父さん母さんは海を渡って来たけど、アタシはこう見えてもベルゲン生まれのベルゲンっ子だよ! あとアナタとか気色の悪い呼び方すんな、このくそばか!」
「はあ……じゃあ何て呼べば……」
「ああもう! なんか軟弱過ぎて腹立つなキミは! ミシャ! ミシャでいいよ!」
確かにこの南の果ての地は、砂漠の民の巡回経路には入っていない。接触が無ければ話に昇ることもないのだろう、年若い彼女が砂漠の民の事を知らなくても、無理もなかった。
「今、この辺りの海はとっても危ないんだから、女の子連れてとっとと帰りなよ。『海の死に物』なんていう化物が出るんだよ。キミは知らないだろうけど、こーーーんなでっかい化物だってでるんだから!」
うん、巨大竜の落とし子のことですね。
と、大袈裟に両手を広げるミシャを見上げながら、ナナシは思わず苦笑する。
「でも、昼間は出ないんですよね。その『海の死に物』って」
少女は不愉快気に眉根を寄せると、語気を荒げて言った。
「ばッか! ほんとばッか! 出ないってだけで、どっかには居るんだからさ。突然湧いてくる訳じゃないんだから」
「そ、それはそうですよね」
「ほら、あそこにでっかい岩礁が見えるでしょ」
ミシャが指さした先、ナナシ達がいる所からさらに沖の方。そこには二本の指の様な岩礁が海から突き出す様にそびえ立っているのが見える。岩でできたちょっとした島という風情だ。
「あの下にでっかい海中洞窟があるんだけど、昼間はあそこに隠れてるんだよ、たぶん」
「海中洞窟……ですか?」
ナナシがその二本指の岩礁を眺めていると、突然、遠くの方から男の野太い声が響いた。
「おーい ミシャ! 遊んでんじゃねえ! 網曳くぞ! 手伝え馬鹿野郎!」
声のした方に目を向けると、小舟の上からミシャと同じ色の髪の大男がこっちを眺めている。恐らく彼女の父親なのだろう。
「ねえ、ドラ息子。アタシはもう行っちゃうけど、もう危ない事しちゃダメだからね!」
「ミシャさん! あの……ありが……」
ナナシが助けて貰った礼を言おうとした途端、派手な水しぶきを上げて、彼女は水の中へと飛び込んだ。
小舟の方へと泳いで行くミシャ。
それは、魚みたいに綺麗な泳ぎ方だった。
◇◆ ◇◆
マリーが機動城砦ストラスブルに到着したのは随分と夜も更けた頃。
静まり返る階層の廊下を歩いていると、彼女に割り当てられた貴賓室の前で佇んでいる人影が見えた。
「あら、お爺ちゃん耄碌しちゃった? 深夜徘徊は危ないわよ」
その人影を見るなりマリーは不愉快そうに口元を歪める。
それはファナサードの執事クリフトであった。
「……お戻りになるとは思いませんでしたな」
「ハッ、ご冗談。戻ってくるに決まってるじゃありませんか。私はあの二人の恋の行方から、目を逸らすつもりはありませんよ」
「不幸な行方など見る価値はございませんぞ。あなたがヘイザ殿を連れて出ていっていただければ、全て丸く収まるのですがね」
「まさか、そんな事を言う為に待ってたんですか? 良いですわね、執事なんてお仕事は暇で」
マリーは大袈裟に肩を竦める。
つい先日まではハヅキを共に支える仲間だと思っていたこの老人が今や、彼女の目には敵の様にしか映らない。
それはおそらく最初から彼女の誤解だったのだろう。
マリーが大事にしているハヅキと、この老人が大切にしているファナサードは同じ人間の内側で重なり合った別の人間でしかないのだから。
今となっては、ファナサード・ディ・メテオーラの為にヘイザを犠牲にすることを厭わない彼については、マリーは辛辣にならざるを得なかった。
「いえ、忠告にまいったのですよ」
「忠告?」
「ええ、ストラスブルを降りるのであれば、お早目にご決断くださいますように、と」
「どういうことです?」
「五日後にストラスブルは首都を離れます。老婆心ではございますが、それを過ぎれば、あなたはいつか、お二人の見たくない結末をご覧にならねばならなくなりますぞ」
「老爺が老婆心など、冗談としてもあまりお上手とは言えませんね」
せせら笑うマリーをクリフトが不愉快気に睨みつける。だが、直ぐにその視線はマリーの背後で佇んでいる人物へと動いた。
「マリー様そちらの方は?」
「あら、気が付いちゃいました。ほほほほほ、ウチのご主人大出世しちゃって、なんて言いますか、賭けに勝った感じっていうのかしら? 私はいらないって言ったんですけどね。旦那様が愛するお前に何かあったら、僕死んじゃうよお。って、護衛兼身の回りの世話をしてくれる家政婦を一人つけてくださったんですの」
キスクが聞いたら確実にブチ切れる様なコメントを残すマリーから、呆れる様に目を逸らし、クリフトは彼女の背後で大きな木箱を抱えて立っている少女へと訝しげな目を向ける。
少女は褐色の肌に黒髪紅瞳のエスカリス=ミーミル人で年の頃は15、6といった所、ストレートのショートボブに左でわけ目をつくり、流した髪で片目が隠れている。
マリーの言う通り、服装は丈の長い濃紺生地の貫衣に白いエプロンの所謂家政婦服。
しかし纏っている雰囲気は明らかに家政婦のそれでは無い。
どこか猟犬を思わせる様な鋭い目つき。硬く結ばれた口元が意志の強さを感じさせた。
「ジルバちゃん、荷物を部屋に運び込んじゃって」
「はい、お嬢様」
「ほら、聞きました? お嬢様ですって。むふー、なんて良い響きなんでしょう」
相変わらず訝しむ様な顔つきのクリフトを他所に、浮かれる様な足取りでマリーは部屋へと入り、後ろ手に扉を閉じる。
そして扉に耳を付けて、クリフトの足音が遠ざかると、ふうと大きく息を吐いた。
「5日かぁ、思ったより時間が無いわね」
「お嬢様、早速今晩から動き始めますか?」
「いえ、夜間は逆に怪しまれると思う。明日の早朝から散歩と称して城壁の上を巡って、仕掛けていきましょう」
「ところでジルバ様、二人だけの時はお嬢様なんて言わなくて良いんですよ。というか、アタシは奴隷の身分で、あなたは貴族のお嬢様。本当は立場は逆なんですから」
しかし、ジルバはぶんぶんと首を振る。
「なりません! 義父殿からは貴方を主君と仰ぎ、忠義を尽くせと言われております」
「は? 主君?」
「お嬢様は、アスモダイモス伯様の愛妾であらせられ、義父殿も婚礼も間近だとおっしゃっておられました!」
「愛妾!? 婚礼!?」
「将来のアスモダイモス伯婦人に忠義を尽くす事に、何を衒う必要がございますでしょうか!」
あの酒樽親父は、面白がって好き放題な事を娘に吹き込んだらしい。
ただ、本来ならそれも冗談で済むところが、そうはいかなかった。
騎士道の権化『鉄髭』を実父にもち、戦士の中の戦士『酒樽』モルゲンを養父とするこの少女の堅苦しさは半端なかったのだ。
実際この後、マリーがいくら「楽にしてください」と言おうが、彼女は直立不動。普通の神経をしていれば、気をつかって仕方が無いところである。
だが、マリーはゲス乙女。
この堅苦しい少女に大して、主人然と振る舞うことに躊躇がなくなるまで、一日と掛からなかった。
◇◆ ◇◆
マリーがストラスブルへと舞い戻ったその夜のことである。
首都北部にある第二工廠で、見捨てられた様に沈黙していた機動城砦の艦橋に灯りが灯った。
修繕そのものは済んではいたが、所有権を有するメルクリウス伯が放置した所為で、監視も何も無く市街地から遠く離れた工廠に死んだように横たわったままの無人の機動城砦。
名をゲルギオスという。




