第138話 恋は殲滅戦(後編)
「うわはははははっ! ひっひぃひぃ……ひゃははははははははは……」
キルヒハイムが指を差しながら大爆笑すると、クルルは顔を真っ赤に染めて、声を荒げる。
「テメエ、何がおかしい! ブッ殺すぞ!」
「いや、だってそうじゃないですか。今朝、突然呼び出されて訪ねてみれば、真剣な顔で『姉上にお会いしたい』とか言ってくるものですから、何の天変地異の前触れかと思ったら、コレですよ」
キルヒハイムは、尚も腹を抱えて、笑い転げる。
「戦争狂の口から、『彼の事を思い出すと胸が苦しい』なんて台詞が出て来たら笑うでしょ、笑うしかないでしょ、普通」
「てめぇ……!」
激昂。
思わず、腰かけていたソファーを撥ね退けるほどの勢いで、立ち上がるクルル。
しかし、次の瞬間、彼女は激しい悪寒に襲われて、ピタリと動きを止める。
「んん? クルルん……誰が、誰をぶっ殺すってぇ?」
クルルが、油の切れた機械の様にぎこちない動きで、声のした方へと顔を向けると、そこには、にこやかな笑顔を顔の表面に貼り付けた、クリステンセンが見上げていた。
クルルは知っている。
姉がこの顔をする時、その微笑を形作っている皮膚の下で、修羅が息づいている事を。
あまりにも濃厚な殺気に当てられて、クルルの身体中から、ねっとりとした汗が一気に噴き出す。
あらためて見れば、クルルの目の前、向かいのソファーに腰かけているのはキルヒハイム。
そして、妹の目を気にする様子も無く、クリステンセンは、夫の首筋に唇を這わせながら、その膝の上に横たわっている。
更には、キルヒハイムの隣りに座ったテスラが、甘える様に彼の肩にしなだれかかり、その胸に愛しげに指を這わせていた。
まるで離れたら死ぬとでも言わんばかりに、くっつき合う三人の男女。
唯でさえ、目を背けたいその光景に加えて、致死量の殺気。
クルルは戦争狂の二つ名も何処へやら、あっさりと心が折れた。
「い、いえ、姉上。冗談、かわいい妹の、お茶目な冗談ですよぉ……」
「なーんだぁ、冗談かぁ~」
クリステンセンがそう言って笑うと、クルルは思わず安堵の息を吐く。
しかし次の瞬間、再び抗いがたい程の殺気が、クルルを滅多刺しにする。
「それと『てめぇ』って……誰に向かっていったのかしら? まさか私の大切な旦那様に向かって言ったんじゃないよね……。まさかクルルん、そんなバカじゃないよね」
クリステンセンがクルルへと向ける瞳には、底が見えない。
黒目の部分を見ているだけで、奈落へと引きずり込まれるような、絶望感を覚える。
「あ、あ、す、すいません。あ、義兄上の間違いです」
怯えて、小刻みに身体を震わせるクルル。
「クリス様、クルル様が旦那様を呼ばれるなら、もっと親しみが籠った呼び方の方が、可愛いですわよね」
何を思ったか、それまで黙っていたテスラが、唐突にクリスを焚きつける。
良く見れば、彼女の瞳の奥に、嗜虐の怪しい光が揺れているのがわかった。
「そうね! テスラそのとおりねッ! クルルちゃん、これからは旦那様の事を『お兄たま』とお呼びなさい」
「お兄たま!?」
驚愕の表情を浮かべるクルル。
これには、キルヒハイムも流石に困った表情を浮かべる。
「あ、姉上……それはもう親しみが籠るとか、そう言うレベルをぶっちぎっておりませんか?」
「…………イヤなの?」
いちいち致死量の殺気を噴き上げる姉。
妹のライフは、既に底をついている。
「イヤ……じゃありません」
絶望的な表情を浮かべて項垂れる妹を、満足げに見上げた後、クリステンセンは、
「アナタも、クルルちゃんのこと、からかっちゃ『メッ!』ですからね~」
と、可愛く唇を尖らせて、キルヒハイムの頬をつついた。
「そうかぁ……クルルんにも、ついに運命の人が現れたかぁ~、お姉ちゃん、嬉しいよぉ~」
「いや姉上、私はまだ、これは気の迷いではないかと疑っておりまして……」
恥ずかしげに口ごもるクルルに、キルヒハイムがにこやかな笑顔を向ける。
「ハハッ、恋する乙女というのは、初々しいものだね」
その一言は、キルヒハイムという男を、内心見下し切っているクルルには耐え難かった。心底虫唾が走る。
「誰が恋する乙女だ! テメェふざけた事をぬかしやがると、ケツの穴から腕突っ込んで、奥歯ガタガタいわせてやんぞ!」
学習能力が無いと言う無かれ、この辺の反応は脊髄反射に近いのだ。
「あン?」
再び、押し殺した様な声が聞こえたその瞬間、クルルは自分の失敗を悟る。
「だぁれのケツの穴に腕を突っ込むのかしら? クルルんは?」
「い、いや姉上。い、いまのは言葉の綾と申しますか、べ、別に義兄上を悪く言ったつもりでは無くてですね……」
「お兄たま」
「……お、お兄たまを悪く言ったつもりでは」
しかし、そんな一言で、クリステンセンの殺気が収まる気配は無い。
彼女は、クルルの鼻先に指を突きつけて威嚇する様に顔を歪める。
「クルル、お兄たまだーいすき! はい、リピートアフターミー」
「えっ!? ク……クルルぅ……お兄たま、ぐっ……、だあいすきぃ……」
クルルは本気で死にたくなった。
今なら羞恥心で人を呪い殺せる。そんな気がした。
「うんうん、じゃあ、素直なクルルんには、お姉様から素敵なアドバイスをあげる」
一応、彼女の中で何か収まりがついたのか、クリステンセンは、先程までのにこやかな笑顔に戻ると、人差し指を立ててこう言った。
「基本的には、いつも通りのクルルんで良いのよ。要は自然体よ、自然体」
「自然体……ですか?」
「そう、眼と眼があってムカつくなら、殺しちゃえば良いし、眼と眼があってキュンと来るなら、攫っちゃえばいいんだよ」
クルルの眼に、キルヒハイムとテスラが顔を見合わせて、肩を竦めるのが見えた。
そう、クリステンセンはこういう女性であった。
数々の戦闘狂を生み出してきた、メルクリウス伯家の突然変異。歴代の中でも突出して、ヤバい人格の持ち主であった。
『災厄姫』
彼女を知る者は、皆こう呼ぶ。
彼女が、まるで散歩にでも行くかのようにふらりと出かけたかと思うと、たった一人で機動城砦エラステネスを、完膚なきまでに破壊しつくして沈めたのは、人々の記憶に、鮮烈に刻み込まれている。
そんな彼女が、ある日突然、男と共にメルクリウスを出奔した時には、城下の住民は、驚くとともに一斉に快哉の声をあげた。
それもそのはず、誰もが怯えていたのだ。
もし彼女がメルクリウス伯の地位に継いだならば、メルクリウスの城壁の内側が血で溢れかえっていた事は想像に難くない。
だから誰もがこう言うのだ。
アレに比べれば、戦争狂の方が幾らかマシだと。
「私と旦那様のなれ初めもそんな感じだったのよねぇ」
赤らめた頬に手を当てて、いやんいやんと可愛げに首をふるクリステンセン。
「アナタと出会って、逢瀬を重ねた日々の事。あの心が震える様な恋の日々」
クリステンセンは、うっとりとした表情で、キルヒハイムを見つめる。
ああ、また始まった。これは長いぞ……。
クルルはウンザリとした表情を浮かべかけて、慌てて笑顔を取り繕う。
ここから続く筈の話は、彼女の口から、既に何度も聞かされた話だ。
当時、反メルクリウス伯を掲げる組織にいたキルヒハイムは、諜報活動の一環として、怖いもの知らずにも『災厄姫』へと接近した。
しかし、運命のいたずらに翻弄された結果、二人は誰も想像もしない様な状況に陥った。――恋に落ちたのだ。
メルクリウス伯暗殺計画の決行直前、キルヒハイムはクリステンセンと、その侍女テスラの二人を連れて、機動城砦メルクリウスを脱出した。
キルヒハイムは、愛する人に父親が死ぬところを見せるのは忍びない。
そう考えたという事だったが、結果的には暗殺は失敗。
出奔したキルヒハイムだけが、紙一重で生き残るという結果に終わった。
しかし、今回はキルヒハイムがなれ初めを語った。
「いやぁ……思い出すねぇ。君達のお父上の暗殺計画の直前、クリスに別れを伝えに言ったはずが、いつの間にか昏倒させられてて、気がついたら首根っこ掴まれて砂漠のど真ん中を引きづられてた訳だからね、あれは驚いたね」
ん、あれ?
聞いてた話とは随分ニュアンスが違う。
恐らく、こちらの方が真実なのだろう。
クリステンセンがこれまで語って来た内容には、恐らく濃厚な、恋する乙女フィルターが掛かっているに、違いなかった。
「……お前も、かなりハードな人生歩んでやがんな」
思わず頬を引きつらせながら、クルルが同情気味につぶやいた。
しかし、クリステンセンは、その一言ですら聞き逃さない。
「お前?」
「お兄たまですッ!」
思わずシャンと背筋を伸ばすクルル。
その様子を呆れる様な表情で眺めながら、キルヒハイムがクリステンセンを窘める。
「クリス、変な焚き付け方は止めてください。攫うとか……。彼に手を出したら、メルクリウスは、サラトガやペリクレスとの全面闘争になりますよ」
そんなキルヒハイムの頭を、胸で抱え込む様にして、テスラが口を開く。
「いいじゃ、ありませんか旦那様、クルル様にもやっと春がきたのですから、少しぐらい羽目をはずしても、バチはあたりませんよ」
「そうそうテスラ、良い事いうわねぇ~」
クリステンセンはうんうんと満足そうに頷くと、クルルへと向き直る。
「いい? クルルん、恋は殲滅戦なのよ」
「殲滅戦?」
「そう殲滅戦。最悪、世界中の女を全部殺しちゃえば良いの。奪おうが、攫おうが、最後に残っていた者の勝ち。どんな手を使ってでも、最後に愛してると言わせた人間が勝者なのよ」
思わず顔を引き攣らせるキルヒハイムを他所に、テスラはニヤリと嗤い、クリステンセンは無邪気に微笑む。
「……恋は殲滅戦」
クルルは口の中で、その言葉を転がす。
少し、甘い香りがした様な、そんな気がした。




