第14話 いますぐサラトガを後退させないと大変なことになるんです
世界は青に包まれている。
見渡す限りの青。
そこに青いドレスを纏った少女が一人。
青い景色を見つめる瞳の色も青ならば、彼女が両手を乗せている大剣も青。
彼女の白磁の肌と、銀色の髪が青く染まってしまわないかと心配になるほどに世界はどこまでも青かった。
それは、地上から10000ザールあまりも離れた空の上の風景。
宙空に、ぽかりと浮かぶ氷のフロアの上。
そこに少女は立っていた。
見上げれば、高くなるほどに空の色は深みを増し、昼間だと言うのに星が瞬く。
昼間50度近くにもなる砂漠の上空とはいえど、この高さまで来てしまえば、気温は氷点下。吐息は即座に凍り付いて、白く染まる。
そんな極寒の風景の中、彼女は下から吹き上げる風で、ドレスの裾がはためいて、ドロワーズの白がのぞくことを、少し気にしている。
何故、彼女がそんなところに居るのか、話は30分前に遡る。
サラトガ城の中庭。数名の魔術師達が、剣姫の指示に従って、水たまりのような浅い池に精霊石を敷き詰めている。
その数50個。
魔術師たちは手を止めることなく作業をすすめてはいるものの、彼女の意図を測りかね、一様に怪訝そうな顔をしていた。
精霊石に込められた魔法は一種類。なにも特別な魔法ではない。
むしろ駆け出しの魔術師が、練習に使うような単純な術式と言って良い。
「して、どうやって、このサラトガより先に敵の元へと到達するのじゃ」
魔術師たちが作業する横で、ミオが痺れを切らせていた。
刻一刻と時間は迫ってくるのに、剣姫のやろうとしていることが見えてこない。
「空から参ります」
ミオのイラつきを受け流す様にして、平然と剣姫が応える。
「これは異なことを言う。空を飛ぶ魔法など存在しないと聞いておったが、そうではないのか?」
ミオの言うとおり、この世界には自由に空を飛ぶような魔法は存在しない。
文字面でよく誤解されるのだが、『飛翔』の魔法は、一回の跳躍力を増すだけの魔法であり、飛距離も最大100ザールほどでしかない。
「鳥には鳥の、人には人の領分というものがあります。人が空を飛ぶ、そんな都合の良い魔法があるわけがありません」
剣姫の回答にミオが片方の眉を吊り上げて、益々不機嫌そうな顔をする。
「では、どうやって飛ぶというのじゃ」
「飛びません」
剣姫がふわりと微笑んで、さらに言葉を続ける。
「落ちるんです」
そう言うと彼女は、おもむろに池の中央めがけて、愛剣「銀嶺」を差し入れる。
途端に剣を中心に、ピシピシと音を立てて、水は凍りつきはじめ、最期には、一枚の銀盤へと変貌を遂げていた。
「何を……?」
そう言いかけたミオの問いかけを遮って、剣姫がその銀盤に飛び乗る。
それと同時に、銀盤の中に含まれた精霊石が次々に発光しはじめ、その内側に込められた魔法を解放しはじめた。
精霊石に込められた魔法。それは「上昇」
縦への移動のみを可能にする限定的な魔法であり、一般的には昇降機以外の用途に使われることはほとんどない。
「ま、待てセルディス卿! それだけの数の精霊石を一度に使ったら!」
精霊石の同時使用。その効果は乗算で高まる。
「危険じゃ」という言葉をミオが発した時には、すでに遅く、残像と光の軌跡、それと風を切る音を残して、彼女は空の彼方へと消えていった。
結果として、今、彼女は地上10000ザールもの上空にいる。
正しく表現するならば「いる」の二文字の前には「なんとか生きてたどり着いた結果、そこに」と入るのだが。
人々が彼女のことをどのように思っているのかは別にして、彼女とて超人でもなければ化物でもない、たぶん。
急加速に伴う荷重の増加によって彼女は、意識を暗転させてしまい、つい先ほど目を覚ましたばかりだ。
時間にして数分。
されど数分。
フロアに突き刺したままの大剣にしがみ付いてはいたものの、良くも途中で落ちなかったものだと、背筋に冷たいものが走る。
あらためて彼女は、銀盤の端から恐るおそる下を覗き込んで、あまりの高さに目を回し、すぐに銀盤の中央へと後ずさった。
「うっわぁ……怖あぁ」
普段は剣姫様などと持ち上げられてしまうので、母国の王族の振る舞いを参考に、過剰なまでに上品に振る舞ってはいるが、さすがに空の上では誰かの目を気にする必要もなく、彼女は少し素に戻っていた。
たしかに目もくらむような高さだが、ゆっくりと怖がっているような時間もない。
片目をつぶりながら、そっともう一度地上を覗き込んで、目標地点を探す。
「あっちがサラトガ。で、あれがゲルギオスということはあのあたり……かな」
彼女のやろうとしていることは言葉にすれば、頗る単純だ。
サラトガから直線で上空に上がり、そして地面を底辺とする直角三角形の所謂斜辺を描いて、目的地に直接、飛び降りようというのだ。
目標地点は思ったよりも離れている。この高さから飛び降りるとしても、相当強く踏み切らないと目論見どうりの斜辺の軌跡は描けない。
「助走とらなきゃ届かないよね……」
憂鬱そうに呟くと、彼女は誰にも見せられないような、へっぴり腰で銀盤の逆の端へと這うようにして向かう。
「他の人にやってもらえばよかったなぁ……」
銀盤の端でぐずるようにそう言うが、普通、人はこの高さから飛び降りたら跡形も残らない。彼女以外、誰がこんな事をできるというのだろうか。
「自分の基準で物事を考えてはいけない」の典型的な例と言ってよいだろう。
「下は見ちゃダメ、下は見ちゃダメ、怖くない、怖くないよー。がんばって! 私!」
散々、自分を励ましたうえで、彼女は一気に助走をつける。
「やっぱり、こわぁいぃぃぃよぉぉぉぉぉぉ………………」
少し残念な悲鳴を宙に残して、剣姫は、勢いよく青い空へとその身を躍らせた。
◇ ◇ ◇ ◇
さっきの光はなんだったんだろう。
木陰に腰を下ろして、ナナシはぼんやりと空を見上げる。
いつも通り、何の変哲もない青空。
兵士達の声は、ザワザワと相変わらず騒がしいが、今はもうナナシのことを気に留めるものはいない。この兵士たちと同様にナナシも、ゲルギオスに接舷するまでは何をするでもない待機状態なのだ。
慌てようとも、のんびりしていようとも、時間の流れは速くなりはしない。
そう考えると思わず、欠伸がでてしまう。
上を向いて大口を開けたナナシの視界に、うっすらと白いものが入り込む。
真昼の月。
欠伸の姿勢のまま、ナナシは凍りついた。
なにも月が異常なわけではない。問題は太陽との位置関係だ。
目を瞑って、嗅覚を研ぎ澄ます。
人が多すぎる。ナナシが探しているのは、ただでさえ微かな臭いだ。
これだけいろんな臭いが混じっていては、とてもではないが特定の臭いをかぎ分けることなど出来るはずがない。
ナナシは勢いよく起き上がると、ミリアに貰った背嚢を掴んで、城壁の方へと走り始める。
「この臭い。間違いありません」
風に運ばれてくる麝香のような微かな臭いは城壁に近づくに連れて、強くなっていく。
城壁の上へと続く階段に差し掛かる頃には、可能性だったものが、既に確信へと変わっていた。
巨大蚯蚓の臭いだ。
城壁の上に辿りつくと、接舷後最初に突入する予定の大盾兵達が、整然と列を作っていた。
大盾兵達の間をすり抜け、城壁の外壁部分に飛び乗り、遠くへと目を凝らす。
川上となるのは、太陽のある方向。
砂洪水が来るであろう方向を確認する。
やはり、その一帯だけ陽炎が立っていない。巨大蚯蚓が地熱を下げてしまうために起こる現象だ。
頭の中に、地図を思い浮かべ、位置関係を整理する。
陽炎の立っていない範囲から想定すると、規模は相当大きい。
間違いなくサラトガも範囲内に入っている。
「貴様ぁ! そんなところで何をしている! 勝手にちょろちょろするんじゃない!」
突然、ナナシの背後から女性の怒鳴り声がした。
今、ナナシを怒鳴りつけるような人間と言えば、思い当たるのは一人だけだ。
「グスターボ殿が見当たらぬと探していれば、馬鹿な寄生虫が物見遊山で城壁の上で遊んでいようとは……。作戦行動中に貴様は何をしている!」
「アージュさん! 大変なんです。砂洪水が来ます!」
ナナシが発した砂洪水 という言葉に、城壁上の大盾兵達の間にさざ波のようにざわめきが広がっていく。
「バカなこと言うな! そんなことがあれば、監視塔から既に警告が入っておるわ! 流言で兵達に混乱をあたえようとするとは、さては貴様、ゲルギオスの工作員か!」
「違います! いますぐサラトガを後退させないと大変なことになるんです」
ナナシの訴えは、何一つアージュには届かない。
彼女は、溜息を一つつくと体の前で腕を交差させて、腰から2本の湾曲刀をすらりと抜き放つ。
ひぃと声をあげて、大盾兵達が後ずさっていき、アージュとナナシを遠巻きに眺める恰好となった。
「まあ丁度良い。この状況であれば、貴様を切ってもミオ様も文句は言えんだろう」
ナナシはゆっくりとアージュの前へと進み出て、彼女の顔を見据える。
「仕方がありません」
ナナシの声は落ち着いている。
「僕はもう、あなたの誇りを守ってあげることはできません」
「どういう意味だ?」
「あなたは、僕より弱いということです」
アージュの眉が吊り上がり、怒りの余り顔が真っ赤に染まっていく
「殺アアアアッ!」
甲高い怪鳥音を発して、暴発するようにアージュが剣を振り上げた。
力任せに二本の湾曲刀を同時に振り下ろして、ナナシへと襲い掛かる。
ナナシがバックステップでそれをかわすと、双刀は城壁の石畳を穿ち、甲高い金属音を上げた。
しかしそれで、終わりではない。湾曲刀を振り下ろしたその体勢から、強引に刃先を跳ね上げて、アージュは下から上へとナナシを切り上げる。
顎を引いてスウェーでかわすナナシ。わずかに前髪が切れて、風に舞った。
さらにアージュは、一歩前進。右手の湾曲刀を横なぎにふり払うとともに、左手の湾曲刀は上段から振り下ろす。
十字を切るような剣の軌跡。
それを避けるために、ナナシはさらに後ろへと大きく跳ぶ。
ナナシの背中が、遠巻きに見ていた大盾兵にぶつかって、重装甲の大盾兵が将棋倒しに倒れて行った。
もう後ろへと逃げる余地はない。
アージュは勝利を確信してニヤリと笑い、曲芸のように左右の手で湾曲刀を回しながら、近づいてくる。
ナナシは大きく息を吸い込むと、前後に足を開いて、腰だめの体勢をとった。
「一の太刀を疑わず、一撃にして一殺と心せよ」
そして『心得』を唱えながら、スゥっと細く息を吐き出す。
ナナシが目を見開いた。
刺すような殺気がアージュを襲う。
ここでナナシの殺気に反応できたあたりアージュは並みの戦士ではない。
彼女は、後ろへ飛びすざりながら、素早く双刀を引き、防御の為に胸の前で交差しようとした。しかし、それより早く、アージュの周りを光の筋が走る。
斬られた!少なくともアージュはそう認識した。
しかし、ナナシは腰だめの姿勢のまま動いた様子はない。
体勢を整え、再びアージュは双刀を十字に構える。
ところが突然、ナナシは構えを解いて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。逆ザヤでジゲンを使えれば、峰打ちも出来るはずなんですけど、僕、まだ逆ザヤで鞘を走らせることが出来なくて……」
そう言った途端、アージュのチューブトップのような革鎧の胸の部分に切れ目がはしり、ストンと地面におちた。
「…………………えっ?」
周囲でみていた大盾兵達がおおっ!と声を上げる。
キリエの大平原ほどではないが、貧相…もとい、慎ましやかな胸が露わになってぷるんと揺れ…。
残念、ぷるんと揺れる程は無かった。
「あ、あ、あ……きゃああああああああ」
悲鳴をあげて双刀を投げ捨てると、アージュは腕で胸を抱えて内股に座り込む。
どれだけ強気に振る舞っていても、彼女はまだ10代半ばの女の子だ。
女を捨てたわけではないのだ。
アージュは涙目でキッとナナシを睨みながら、唇を噛みしめる。
本日一番の殺意を浴びながら、ナナシはじりじりと後ずさっていく。
「あ、あとで鎧の分は弁償しますから! ごめんなさい! ごめんなさい!」
顔を真っ赤にしながら、それだけを言うと、ナナシは階段を転げ落ちるように走り去って行った。




