第134話 死なないから、バカが治らない。
「え、なに、どうしたの?」
「いいから! 走ってくださいッ!」
強引に手を引かれ、ミリアは訳も分からないままに走りだす。
そして、ボズムスの死体の脇を通り過ぎる時、
ミリアは見た。
真っ二つに割れたボズムスの頭部。
その断面から、粘性のある真っ黒な液体の様なものが、ジワジワと染みだし始めているのを。
振り向いて見れば、その黒い液体は触手の様に蠢き、絡み合いながら一つに寄り集まっていく。
ミリアは思わず身震いする。
……禍々しい。
あの黒い液体を見ていると、薄闇の中で古井戸を覗き込む様な、そんなどこか根源的な恐怖を覚える。
じっとこちらの様子をうかがっているような、機会が来るのを待っているようなそんな、吐き気をもよおす様な邪悪な気配を感じるのだ。
ミリアは走りながらも、目を離すこともできずに、その黒い液体の様子を窺う。
やがて、その黒い液体は、左右に割れたボズムスの頭の間で、風船の様にぷくりと膨らんだかと思うと、破裂する様に一気に溢れ出した。
それは死に際のムカデのように身悶えながら、四方八方へと手足を伸ばしていく様にみえる。
そこで初めて、ミリアは思い至る。
――罠。
そう、これは罠だったのだ、と。
あのゴーレムは、言うなれば只の器。
ただ、ここまでこの得体のしれない存在を、運んでくるためだけに使われた、使い捨ての入れ物でしか無かったのだと。
あれが何で、誰が、何の為に、此処へとアレを寄こしたのか?
ミリアは即座に思考を巡らせ始めたが、どこにも手掛かりがない。
――わからない。
現時点でわかる事など何もない。
「ミリアさん! 急いで!」
「きゃあ!」
思考の海を漂っていたミリアを、力づくで引き寄せると、ナナシは石畳の上に転がっていた砂を裂く者の上へと飛び乗る。
その挙動は、ナナシらしくない乱暴なものであったが、彼のその表情を見れば、状況が如何に切迫しているのかは、想像が付く。
ミリアはじっとナナシの横顔を観察する。
間違いない。
ナナちゃんは、あの黒い液体の正体に覚えがある。
「ナナちゃん、アレは……」
「ミリアさん! そのまま僕の腰に掴まってください! 早くッ!」
ミリアの言葉を遮って、ナナシは自分の腰にしがみ付かせると、背後を睨み付ける。
迫りくる黒い液体。
あのゴーレムのどこに、これだけの量が詰まっていたのかと思うほどに、だくだくと溢れ出て、石畳のフロアを浸蝕しながら二人の方へと迫ってくる。
「行けぇええええ!」
ナナシの叫び声に応える様に砂を裂く者の精霊石が、淡い光を放つ。
その瞬間、その黒い液体は、いきなり牙を剥いた。
まるで津波のように高くそそり立ち、二人の方へと一気に押し寄せてくる。
総毛立つ様な禍々しい姿、それは巨大な黒い蛾が舞い降りてくるかの様に、二人の方へと覆い被さってくる。
間一髪、砂を裂く者が勢いよく飛び出し、黒い液体はつい今しがたまで、二人がいた辺りの石畳を浸蝕した。
「きゃあぁぁぁぁぁぁあ!」
いきなりの急加速に、思わず悲鳴を上げるミリア。
二人を乗せた砂を裂く者は闘技場外周の壁に向かって一直線に加速する。
迫りくる石壁。
ぶつかるっ!
ミリアが思わず、身体を硬く強張らせたその瞬間、ナナシは一気に背後へと体重を掛けて砂を裂く者の先端を浮き上がらせると、壁面走行。放物線を描く様に壁面を滑走して、張り出し舞台と観客席を隔てる壁をのり超える。
「きゃあぁぁぁぁぁぁあ!」
幾ら遠心力が働いているとはいえ、身体は壁面にほぼ垂直。
少しでも態勢を崩せば、まず間違いなく命はない。
砂を裂く者に初めて乗るミリアとしては、恐怖としか言いようがない。
ひっきりなしに悲鳴を上げながらも、ミリアはナナシの横顔を見つめている。
それは、これまでに見た事も無い様な、必死の形相。
これまでミリアの眼には、ナナシはどんな状況でも、どこか余裕があるように見えていた。
それは諦観に近いもの。
まるで死ぬことさえも、場合によっては仕方がないとでも言う様な、ミリアとしては、ひどく苛立ちを覚える余裕。
しかし今、この瞬間のナナシには、それが見当たらない。
闘技場の円形の内壁を滑走する風切音に混じって、ミリアの耳にナナシの微かな呟きが聞こえてくる。
「……は解かれていない」
見れば、ナナシはしきりに腰の刀に、指を這わせている。
「……更咎じゃ無いんですね。紛い物?」
独り言、それは誰かと会話している様にも聞こえる様な呟き。
だが、ここにはミリアの他に誰もいない。いる筈がない。
そうしている内にも、張り出し舞台から溢れ出た闇は、糸を引く様に下層の観客席やアリーナの方へと滴り落ち、その真下で逃げ惑う人々の頭上へと降り注いでいく。
訳の分からないままに、ただひたすらに声を上げる人々。耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びが円筒形の闘技場の内側を満たし、突然姿を現した理不尽な災厄に嘆きが地を覆う。
「ちっ! マレーネさん! 早い!」
珍しくナナシが舌打ちする。
その直後、突然、建物全体が揺れ、壁面を突き破っていた巨大な円錐が、左右の観客席を振り払う様につき崩しながら、ゆっくりと後退し始める。
機動城砦ペリクレスが、動き始めたのだ。
ナナシは早いと言ったが、アリーナの方を見る限り、あの黒い液体は今にもペリクレスに取り付こうとしている様に見える。
ミリアの眼から見ても、機動城砦が無傷で逃れるためには、これがギリギリのタイミングだ。
充分に加速するための時間を考慮するなら、あと一息遅ければ、あの黒い液体はペリクレスの城壁を浸蝕しはじめた事だろう。
「ナナちゃん!」
「ミリアさん、喋らないで! 舌を噛みます!」
苛立ち混じりの声でそう叫ぶと、ナナシは更に前のめりに腰を落し、前傾姿勢を取る。
更に速度が上がり、砂を裂く者が細かい振動とともに金切声の様な異音を立てる。
唯でさえ円形の闘技場の内壁を走行するという曲芸じみた事をしている上に、ここまで速度を上げてしまえば、バランスを取る難易度は更に跳ね上がる。
ミリアもすでに叫ぶことすら出来なくなって、必死に思考を回転させる。
論理的に考えて、自分がどんな体勢でいれば、ナナシの邪魔にならないのかを。
やがて、機動城砦ペリクレスの円錐が撃ち抜いた闘技場の裂け目が迫ってくる。
ナナシは、一瞬ちらりとミリアの方へ眼をやると、倒れこむ様に鉛板の先端を両手で掴んで、強引に進路を変え、砂を裂く者は、裂け目に沿う様に、闘技場の内壁を上向きに滑り上がっていく。
内壁を走っている時に掛かっていた横向きの遠心力の鎖を抜け、下向きの重力に引っ張られる感覚。加速、重力を振り切る。小刻みに震える砂を裂く者。そして、一気に闘技場の壁面、二人はその最上部から飛び出した。
「届けえぇぇぇ!」
目を見開いて叫ぶナナシ、その背中に必死にしがみ付くミリア。
立ち昇る砂煙を突っ切って、砂を裂く者が宙を舞う。
目も眩むほどの高さ、大量の砂が二人の顔に打ち付ける。
迫りくるペリクレスの城壁。
ダメだ……高さが足りない。このままでは城壁に激突する。
ミリアが思わず顔を背けたその時、ナナシが声を上げる。
「ごめんなさい! ミリアさん! 顎を引いて!」
「え……?」
次の瞬間、ナナシはミリアの手を振りほどくと、彼女の右腕を両手で掴み、肩に担ぐようにして
――投げた。
浮遊感がミリアを包む。思わず目を見開く。天地がひっくり返った視界の中で失速していく砂を裂く者。
ミリアは見た。寂しげに微笑みながら砂を裂く者とともに失速して行くナナシの姿を。
「ナナちゃあぁーーーーーーーーーん!!」
金属が何かに激しくぶつかる様な衝撃音が聞こえたその瞬間、ミリアは背中から城壁の上に落ちる。
「かはっ!」
激しい衝撃、視界に星が散る。思わず意識が暗転しそうになる。
勢いのままに石畳の上を弾んで、数ザールも転がった末に、ミリアは仰向けに横たわる体勢で止まった。
「う……ううっ……」
身体中を激しい痛みが襲う、肺から息が絞り出されて、金魚の様にパクパクと口を動かしながら喘ぐ。身体中を強く打っている。
「な……ナナちゃん……」
荒い呼吸の下から絞り出す様に、ミリアはナナシの名を呼んだ。
しかし、返事は返って来ない。
自分の身に何が起こったのか、ミリアにははっきりと分かる。
――届かない。
そう判断したナナシはミリアを生き残らせるために、城壁の上へと彼女を投げたのだ。
「うあっ……!」
動こうとすると、肩に激しい痛みが走る。もしかしたら折れているかもしれない。それでも無理に身体を起こして石畳に座り込み、ミリアは周囲を見回す。
立ち昇る砂煙が霧のように立ち込める城壁の上、そこにミリアの他に人影はない。
「……ナナちゃん! ナナちゃあぁぁぁぁん!」
慟哭にも似たミリアの声は、風に巻かれて消えていく。
いつもそうだ、あの砂漠の民の少年は自分の命を軽く扱いすぎる。
「領主の命を贖うためならば、たかが家政婦一人の命ならば、安いものだ」
そう口にした連中と根本は変わらない。
しっかりと説教してやらなければならない……のに。
「ナナちゃんのばかぁぁあ! ばかあぁーーーーーーー!」
ミリアの頬を涙が伝う。砂塗れの石畳にポタポタと水滴が零れ落ちた。
その時、
物音がした。思わず目を向けるミリア、城壁の端を掴む手が見えた。
ミリアは痛みを忘れて這いずる様に近づくと、城壁の下を覗きこんで、目を見開く。
「馬鹿でもなんでもいいですか……ら、引っ張ってくれません? 僕もう限界……で……」
そこに、ナナシの姿があった。
「ナナちゃん!!」
ミリアは慌てて、動く左手でナナシの腕を掴むと、後ろに倒れこむ様にしてナナシの腕を引っ張る。
勢いのままに城壁の上に転がり上がると、ナナシは大の字に横たわった。
「……死ぬかと思いました」
ナナシのその一言に、ミリアは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、思わず苦笑する。
「なんか分かったよ。……死なないから、ナナちゃんのバカは治らないんだ」
そして、ミリアはナナシの胸に頬を寄せる様にして、静かにその隣に横たわった。




