第133話 おっさんから溢れ出るモノ
下層へと繋がる階段、その薄暗い闇の中からズルズルという音を立てて、何かが這い出ようとしていた。
ナナシは暗闇に目を向け、その奥で蠢く、四足の何かを凝視する。
先程、闇の中へと引き摺りこまれた僧侶の悲鳴は、既に聞こえない。
ミリアは、不安げにナナシのフードマントの裾を掴む。
「ナナちゃん……」
「大丈夫です」
ナナシは力強く頷く。
決して、余裕がある訳ではない。
女の子の前で虚勢を張るのは、男子の性としか言いようがない。
ずるずると音を立てながら、何かが陽の光の下へと這い出してくる。
そして、それが何者であるかを認識した時、二人は思わず言葉を失った。
ごつい革ベルトで目隠しする様に顔面を拘束され、枷を嵌められた口元からダラダラと涎を滴らせ、裸の上半身をくねらせるそれは、
――おっさん。
「「変態だああああああああ!?」」
思わずナナシとミリアが同時にツッコむ。
それはそうだろう。
凄まじい緊張感の漂っているところに、場違いにもそういうプレーの真っ最中としか思えない姿のおっさんが、はあはあ息を荒げながら、這い出して来た日には、たとえ聖人君子でもツッコむ。
「ナ、ナナちゃん……なにアレ?」
「ぼ、僕に聞かないでくださいよ」
流石に二人も戸惑いを隠せない。
「……これ、後ろから、鞭持ったウチのお姉ちゃんとか出てこないよね」
「やめてください。すごく否定しにくいです、それ」
「……で、真面目な話、ボク、あの人すごく見覚えがあるんだけど」
「……奇遇ですね。僕もです」
二人の頭の中には、全く同じ名前が明滅していた。
――ボズムス。
正確にはボズムスの姿をしたゴーレム。
キリエとの戦闘の末に、サラトガの艦橋から姿を消したソレが何故か今、ナナシ達の目の前にいる。
それも、ずいぶんアブノーマルな感じで。
ナナシ達がどれほどドン引きしていようが、ボズムスは何ら反応する様子はない。
鰐のような体勢(見様によっては、雌豹のポーズにも見えるのが、またエグい)で、だらしなく垂れ下がった腹を引き摺りながら、ナナシ達の方へと近づいて来る。
悪夢としか言いようの無い光景であった。
「ナナちゃん、コッチ来る!? 来ちゃうよ!」
「お、落ち着いてください、ミリアさん」
そう言いながらもナナシも思わず後ずさりそうになって、後がない事に思い至る。
二人の居る位置はこの張り出し舞台の端、数歩も後ろに下がれば、アリーナまで三階分の高さを真っ逆さまに落ちることになる。
良く見ればボズムスの身体はヒビだらけ、既に肌の質感は失われ、パキパキと音を立てながら、身体の表面を砂状の破片が流れている。
ハアハアという息遣いの合間に、グルルという獣じみた唸り声を織り交ぜるボズムス。その姿からは知性や理性と云ったものは、何一つ感じられない。
「ミリアさん、僕から離れないでくださいね」
ミリアを逃がせる場所など何処にもなく、ナナシは背後のミリアを守るためにもここから一歩たりとも下がることは出来ない。
「ナナちゃん、またこういう事になっちゃったね」
ミリアのその言葉にナナシは思わず苦笑する。
骸骨兵事件。
あれから、まだ一か月程しか経っていないというのに、随分昔の事の様に思える。
「来ます!」
ボズムスの右腕がシュルリと伸びて、長く伸びた爪がナナシへ向かって飛んでくる。ナナシは凄まじい速度で抜刀すると、それをあっさりと薙ぎ払った。
ナナシは思う。
――こんなものか。
想像していたよりもずっと遅く、大して威力もない。
理性がないせいか、動きはあまりにも直線的。
同じゴーレムでも、マリールーが前面に出ていた頃のキサラギとは、比べるべくもない。
ならば……。
ナナシは抜き放った刀を、大上段に構える。
ボズムスが再び爪を繰り出すべく、腕を振りかぶったその瞬間、ナナシは一気に前へと出た。
それは神速の踏み込み。
相手はゴーレム。
キサラギとの戦いの中で、ナナシは悟っていた。
キサラギが手首を切り飛ばされても平然としていた様に、小さなダメージを与えたところで意味はない。一気に粉砕するのだと。
人間相手であれば、流石に気が引けるが、ゴーレムならば話は違う。
『兜割り』
大上段から一気に振り下ろす渾身の一撃。
ガードしようと翳した両腕を斬り落し、ボズムスの頭部を真っ二つに断ち割る。
顔面からはじけ飛ぶ革ベルト、捌いた魚の様にベロンと二つに割れる頭部。
岩を切る様な手ごたえを想像していたのだが、思いの外、生々しい手応えに、ナナシは思わず眉を顰める。
一滴たりとも血は出ない。それにもかかわらず、ぐちゃっという、多分に水気を含んだ音を立てて、ボズムスの身体は石畳のフロアを打った。
「ふう……」
ナナシは大きく息を吐いて、腕で額を拭う。
「ナナちゃん……終わったの?」
「はい、おそらく……ッ!?」
刹那、ナナシは戦慄した。
ボズムスの、その真っ二つに割れた頭部に目を向けたところで、思わず目を剥き、大声で叫ぶ。
「ミリアさん! 走って!」
「え、えっ? な、何?」
「いいから走ってください!」
ナナシはミリアの腕を掴むと、階段への入口の脇に転がっている砂を裂く者を目指して、駆けだした。
◇◆ ◇◆
「白いのッ! アンタ、ウチらを殺す気かー!」
艦橋に到着するなり、怒鳴り声をあげるヘルトルード。
続いて入ってきたシュメルヴィも、表情に微かに怒気を孕んでいる。
それも当然、ペリクレスが跳ね回っていた頃、彼女達は城壁の上に居たのだ。
むしろ、宙へ投げ出されもせず、ここへ戻って来れた事の方が、奇跡に近い。
ところが、ヘルトルードのその抗議の声は、誰にも届く事無く、艦橋の壁にぶつかって、あえなく床の上に転がる。
誰も二人の方を振り返ろうともせず、精霊石板に釘付けになっているのだ。
シュメルヴィとヘルトルードは、思わず顔を見合わせ、首を傾げた。
二人はバタバタと艦橋中央で、操作盤に囲まれているマレーネの方へと歩み寄る。
「白いの、何かあったんかいな?」
「……あり過ぎ」
マレーネは精霊石板を睨み付けながら、応える。
「なにがやねん?」
「……旦那様が家政婦に寝取られた」
「寝取られた?」
「で、そのあと何か、濃いのが出てきた」
「はぁ?」
ヘルトルードは思わず怪訝そうに眉根を寄せる。
マレーネの話は相変わらず、要領を得ない。
ただ、銀嶺の剣姫は、医務室に放りこんで来て良かったとは思った。
『寝取られた』などという言葉を聞けば、あの色ボケ剣姫ならば、問答無用で艦橋に風穴を開けても、不思議では無い。
精霊石板の方へと目を向けると、背後にミリアを庇いながら、大上段に刀を掲げるナナシの姿が映っている。
その正面には、お座りする犬のような姿勢、革ベルトでギッチギチに顔面を締め上げられた中年男性の姿。
寝取られたというのは良くわからないが、なるほど確かに、アレは濃い。
「ボズムス卿!?」
シュメルヴィが素っ頓狂な声を上げる。
「知り合いかいな?」
「あの姿をみるとぉ、あんまり知り合いだと言いたくは無いけれど、サラトガの家宰だった人よぉ」
「ああ、あの、ゴーレムに乗っ取られたって……」
ヘルトルードの言葉が終わる前に、ナナシが動いた。
気付いた時には終わっている程の一瞬の出来事。
ナナシが大上段にボズムスをぶった切った。
音声の無い映像で見ていると、なにか子供相手の人形劇を見せられている様な錯覚に捉われる。
しかし、次の瞬間、ナナシがミリアの方へと顔を向けて、なにやら叫んでいる様に見えた。ナナシはミリアの手を取るとボズムスを遠巻きにするように階段の方へと駆けはじめる。
「なんや、あのおっさん爆発でもすんのかいな?」
精霊石板の中のナナシの徒ならぬ様子に、ヘルトルードが首を捻ったその瞬間、
ボズムスの傷跡から【闇】が溢れ出した。
それは【闇】としか言い様が無かった。
ドロドロとしたタールのような深い【闇】が、ボズムスの傷口から一気に溢れだす。その様子は、ヘルトルードの眼には、巣穴から這い出てくる蜥蜴の様にも見えたし、堤が決壊する様にも似ているように思えた。
【闇】は一瞬にして張り出し舞台を覆うと、張り出し舞台の端から、地上のアリーナへ向けて、ドボドボと滴り落ちていく。
すでにボズムス自体も【闇】のなかに飲み込まれて、ボズムスの死体があった辺りは、まるで重油の産出口の様に、留まる事無く【闇】が溢れ出させている。
「シュ……シュメルヴィはん。なんやねん……あれ」
「し、知らないわよぉ」
精霊石板の内側で、目の前の風景が、どんどん闇の中へと飲み込まれていく。
「観客席の方を映して!」
マレーネが声を上げると、精霊石板の映像が切り替わる。
闘技場の下層、観客席の辺り。
頭上から垂れ落ちてきた濃厚な闇が、泣き叫ぶ人々を飲み込んでいくのが見えた。
「トリシアは……?」
マレーネは食い入る様に精霊石板を見つめる。
溢れかえる人の群れ、それを飲み込んでいく深い【闇】。
この中から、特定の人物を探し出すのは不可能に近い。
既に【闇】は、ペリクレスの直ぐ傍まで迫っている。
マレーネはギリッと歯を鳴らすと、絞り出す様な声で呟いた。
「ペリクレス……全速後退。……離脱する」




