第131話 逆光
警報音が鳴り響く。
胸に手をやり、鼻からスーッと大きく息を吸い込んで、口から吐き出す。
しかし心臓は激しく脈打って、少しも収まってはくれない。
マレーネは艦橋正面の窓、その向こう側で次第に大きくなっていく闘技場の姿をじっと見つめる。
もう後戻りは出来ない。
ーー行くよ、ペリクレス。
マレーネは一人小さく頷くと操作盤の摘みをぐるりと回す。
摘みの回転とともに、先程から間断無く鳴り響いていた低い獣の唸り声の様な音が、女の金切声の様な高い音へと変化していく。
マレーネは英雄の槍の回転数を一気に最大値まで引き上げたのだ。
「全速前進」
マレーネがいつも通りの抑揚の無い口調でそう呟き、足元のペダルを踏み込むと艦橋乗員達の間に一気に緊張が走る。
「総員対衝撃姿勢」
「総員、対衝撃姿勢を取れ!」
マレーネの呟きを艦橋乗員の一人が復唱すると、乗員達は一斉に椅子を引き、目の前の操作盤に頭を伏せた。
次第に大きくなっていく闘技場の姿を凝視しながら、マレーネは思う。
今の自分はまるで、聖女アーバインの様だと。
獣達にも慈悲を与え、慈悲故に悪を為した聖女。
堕ちた聖女。
愛する男の為に今、自分は悪を為そうとしているのだと。
一瞬目を瞑り、そして見開く。
闘技場はもう眼前。
そう、もう後戻りは出来ないのだ。
「突貫ぁぁぁぁぁぁん!!」
マレーネがその容姿から想像も出来ない程の大声を張り上げた途端、機動城砦ペリクレスは、地軸を揺らす様な轟音を立てて、剣闘場へと突入した。
◆◇ ◆◇
「来るッ! ジグムント! ペリン! 離脱してぇええ!」
足元から這い上がってくる微かな振動が、明確な揺れに変わったのを感じ取って、トリシアは大声を上げた。
途端に闘技場の外から響き続けていた低い唸り声の様な音が、徐々に高い金属音へと変わっていく。
見上げれば闘技場の外で、砂煙が高く立ち昇り、黒煙混じりの黄色い雲が青空を汚らしく染めていくのが見えた。
それまで剣を交えながら観客を追い立てていたジグムントとペリンにも、トリシアの叫びが届いたらしい。
二人は互いに顔を見合わせて頷き合うと、それぞれ左右に別れて座席の間を飛び回る様に観客席を駆け下りていく。
さて自分もうかうかしては、いられない。
トリシアは座席の上で立ち上がると、思い切り良く長いスカートをたくし上げる。
いきなりスカートをたくし上げる婦人の姿に周囲の人間は目を丸くしたが、そんな事に構っている場合ではない。
「あなた達も早く逃げなさい!」
周囲にそう怒鳴りつけると、トリシアはドロワーズがのぞくのを気にも懸けず、この場からから出来るだけ遠くへ離れようと客席を真横へと駆けはじめた。
そして駆け続けながらトリシアがちらりと背後を振り返ったその時、水から上がった獣の様に闘技場全体が、ぶるりと震えた。
ーー来た!
次の瞬間、闘技場南側の客席、ペリンとジグムントが相争うフリをしながら人を遠ざけて、ぽっかりと無人となった空間、そこに卵の殻を叩いた時の様なひび割れが瞬時に走る。
蜘蛛の巣が出来上がるまでの過程を、高速で再現した様な同心円状のヒビ割れ。
ポロポロと石壁が崩れ落ちて、その破片が石畳の床を軽く叩いたその瞬間、闘技場の壁面が生き物のように脈打ち、ひび割れの中心から一気に爆発する様に弾け飛ぶ。
そして遅れて音が響き渡った。
耳を劈く様な轟音、巨大な音は物理的な力を得て、その場にいる人間たちを叩きのめし、傾斜のついた客席を人の波が雪崩の様に崩れ落ちていく。
円形の闘技場が瞬く間にCの字の形に変わり、濛々と立ち昇る土煙の中でギュルルという甲高い金属音が鳴り響くと、螺旋の纏わりついた巨大な黒鉄の円錐が、裂け目の間からその姿を露わした。
何が起こっているのか、この場で理解出来ている者は、トリシア達を除けばほとんど居はしないだろう。
弾き飛ばされ、人波に踏みつぶされ、はじけ飛んだ石壁に挟まれて、あちらこちらから阿鼻叫喚の悲鳴が響き渡る。
狼狽、恐怖、困惑、混乱。
ありとあらゆる負の感情が黄色く煙った空の下に渦巻き、互いが互いを押しのけるようにして人々は逃げ惑う。
甲高い悲鳴と苦しげな呻き声が|闘技場の内側を満たし、哀れな人々の群れが長い階段を濁流の様に転げ落ちていく。
出来る限り被害を小さくするために、ペリクレスが突っ込んでくる箇所から人を遠ざけたつもりではあったが、機動城砦による特攻の被害はトリシアの想像を大きく超えていた。
◆◇ ◆◇
たとえ『死』を覚悟していたとしても、全く違う角度からそれが忍び寄ってきたならば、その覚悟には何の意味も無い。
ミリアの視界、その中央に巨大なひび割れが走った。
轟音と共に正面の客席がはじけ飛んで、濛々と土煙が立ち昇り、その裂け目から巨大な黒鉄の円錐がその威容を現す。
いつものミリアならば、たとえ機動城砦ペリクレスを見た事は無くとも、その形状から推測して今、目の前で起こっている出来事の真相に即座に辿り着いた事だろう。
しかし、この時、ミリアは首枷に固定されたまま逃げる事も叶わず、自分の方へと突っ込んでくる円錐の頂点をぼんやりと眺めていた。
目の前の余りにも異常な光景に、ミリアの思考は完全に停止していたのだ。
「うわあぁぁぁあ、こっちへ来るぞ!」
「に、にげろおぉ!」
ミリアの背後で処刑役人たちが必死の声を上げ、その更に後ろにいる僧侶達が相争って階段の方へと駆けて行く音が聞こえる。
「来るなァ! いやだァ! 来るなあああああ!」
「畜生! 坊主共で階段が詰まってやがる!」
背後で、逃げ遅れた処刑役人達がじたばたと焦る気配を感じて、ミリアはハタと我に返る。
そして不気味な異音を立てて回転しながら、自分の方へと近づいて来る余りにも巨大な鉄の塊の姿を認識すると顔を引き攣らせた。
確かに死を覚悟していた。
首を落される。
その事については牢獄の奥で無様に泣き喚きながら、受け入れる覚悟を作り上げていった。
だが、こんな死に方は想像もしていない。
あれに巻き込まれれば、ミリアなど瞬時に肉塊にされることだろう。
ミリアは目を硬く閉じて、歯を食いしばり顔を背ける。
しかし、衝撃はやってこない。
恐る恐る片目を開くと、ミリアの眼前、わずか5ザール程のところで黒鉄の円錐はそれ以上前進するのを止め、その場でギュルギュルという金属音を立てて回転し続けている。
「な、な、な、な……」
噛み合わない歯の根。
言葉になり切れずに口から零れ落ちる声。
ミリアが呆然と見つめる内に、回転する黒鉄の塊は次第に勢いを失い、やがて残響を残しながらゆっくりとその回転を停止する。
ほんの一瞬、闘技場は静まり返った。
黄色く立ち昇った土煙が風に揺らいだ次の瞬間、まるで何かを思い出したかのように闘技場のあちらこちらから、一斉に悲鳴と怒号が響き渡る。
階下から響いてくる観衆の声を聞きながら、ミリアは冷静になろうと自分自身に言い聞かせる。
この状況はなんだ。何が起こっているのだと目の前の状況を観察しながら、脳内でタグ付けして情報の並び替えを行い、そしてやっと極めて真相に近い答えへと辿り着く。
ーーナナちゃんだ。
どういう理由かは分からない。
忘却の呪いを跳ね除けて、ナナシがミリアを救いに来た。
状況の全てが、それを物語っている。
なんて馬鹿げた事を……と、呆れると同時にミリアの胸に小さく希望の灯がともる。
口元がわずかに緩んだその瞬間、背後から髪を鷲掴みにされてミリアはヒッと喉の奥で声を詰める。
「おい貴様ァ、これは貴様の仕業かぁ!」
髪を鷲づかみにして引っ張り上げながら、顎の突き出た処刑役人がミリアの顔を覗きこむ。
首枷の掛かった首を圧迫されて、ミリアは言葉を発することも出来ずにただ苦しげに呻いた。
「泣きもせず、喚きもしねえ。おかしいとは思っちゃいたが、まさかこんな大それた事を考えていやがったとはな」
「……ボクもびっくりしてるんだけど?」
苦しげに息を吐きながら、ミリアが処刑役人にそう言い返すと、処刑役人は乱暴に叩きつける様にしてミリアの髪を離し、ミリアは盛大に咳き込む。
「貴様のその舐めた態度を後悔させてやる!」
顎の突き出た処刑役人はこめかみに血管を浮き出させながら、ぐったりとしたミリアを血走った目で睨み付けると、ミリアの直ぐ脇に立て掛けてあった、首切り斧をその手に掴む。
「残念だったな、一歩及ばずだ。貴様は死に、この馬鹿げた騒ぎを起こした連中も皆粛清される。皇女殿下を殺害しようとし、剰えこれだけの破壊を行うとは、貴様は正しく悪魔だ。喜べ! 皇国の歴史の中に貴様の汚れたその名を刻むことになるだろうよ」
石畳の床に擦れて、首切り斧が僅かに金属音を立てる。
処刑役人は両腕で持ち上げると、それを大きく振りかぶった。
僅かにも希望を持ったことが恐怖に繋がった。感情が決壊した。覚悟などどこかへ吹き飛んでしまった。死にたくない。思わずボロボロと涙が零れ落ちる。怖い。この時まで、希望を持たなかった事で、何とか押さえつけてきた恐怖心が頭を擡げた。
強く目を瞑り、斧が振り下ろされる瞬間を待ち受ける。歯がかたかたと音を立てる。
恐怖に耐え切れず、喉の奥からついに悲鳴にも似た叫びが飛び出した。
「ナナちゃあぁぁぁぁん!」
頭上で風を切る感触、何かを叩きつける鈍い金属音。
斧が振り下ろされるイメージが頭の中で血の色に染まる。
――死んだ。
ミリアの脳内の神経をそんな言葉が駆け抜けて、身体がビクリと跳ねる。
しかし意識は途切れない。
目を見開いて、ミリアは思わず息を呑む。
黄色く煙ぶる雲の隙間から洩れる陽光。
その光を背に処刑役人を振り上げた斧ごと、上から踏み付けにしていく流線型の鉛板に乗った少年のシルエット。
極端に遅くなった時間の中で、斧と鉛板が火花を散らし処刑役人が弾き飛ばされる。
「……ナナちゃん」
おもわず零れたその呟きに、逆光の中で少年が小さく頷くのが見えた。




