第129話 キサラギリターンズアゲイン
暗闇の向こう側。
メイド服姿のミリアが静かに佇んでいた。
目が合うと、彼女は少し淋しそうに微笑んで、
「ナナちゃん……ばいばい」
そう言ってくるりと背を向ける。
次第に遠ざかっていく背中。
それを追ってナナシは駈け出そうとする。
しかしコールタールの様などろりとした暗闇に足を絡め取られて、身動きが取れない。
「ミリアさん! 待って! 待ってください!」
ナナシは叫びながら必死に腕を伸ばし、指先が空しく宙を掻く。
「ダメです! こんなのは! 自分が犠牲になって終わりだなんて!」
何たる傲慢。
ナナシ自身にもそれは分かっている。
これまでさんざんに自分は命を投げ出して来た癖に、人に同じことをされるのは耐えられそうにないのだ。
ミリアに足を止める様子はない。
彼女の歩んでいく先、地平線上に一条の柔らかな光が生まれると、次第にそれが広がって、最後にはナナシの視界全てが白く染まった。
「……ンちゃん、アンちゃんってば!」
真っ白な空間に横たわるナナシへと何処からか呼びかける声がする。
それはひどく懐かしい声。
「起きて! 起きてよぉ」
その声に引っぱられる様にして、意識が浮上していくのが分かる。
「……ツさん、大丈夫なんじゃなかったの!」
「……大丈夫です。彼は勝手に死んだと思い込んで意識を手放しているだけです」
少し湿り気を含んだ女の子の声とそれに答える男の硬質な声。
男の声に聞き覚えは無いが、その女の子の声はやはりとても懐かしい。
そうか、僕は死んだわけじゃないんだ……。
地の底まで沈み込んでいた意識が急速に身体の中へと引き戻される様な感覚。
ああ、なんて重いんだろう。この身体というヤツは。
背中に硬い石畳の感触。ブルブルと振動が伝ってくる。
あれだけ大暴れしていた機動城砦ペリクレスも、どうやら今は通常の走行に戻っているらしい。
通常の走行とは言っても、普段ほとんど揺れることの無い機動城砦で、体感できる程の振動があるという時点で、平坦な砂漠を走っている訳では無い事ぐらいは想像がつく。
ナナシはゆっくりと目を開ける。
暗闇に裂け目が入って光が差し込んでくる。
両目がそれぞれに見ている景色が、瞼が開いていくのにあわせて徐々に重なって一つになっていく。
最初に視界に飛び込んで来たのは黄色い空。
舞い散る砂に染め上げられたあまりにも不穏な色。
その汚れた空を背景に、女の子が一人、ナナシの顔を覗きこんでいた。
「アンちゃん!」
肩をくすぐるぐらいの黒髪とパツンと切り揃えた前髪、そしてやはり未だに違和感を感じずには居られない紅い瞳。
それはナナシの義妹、キサラギ。
「キサラギ……なのか?」
霞がかった様な意識の中で、ナナシはキサラギと見つめ合う。
短い沈黙の後、キサラギは小さく息を吸い込むと、にやりと笑って口を開いた。
「残念! 俺様だァァァァァァ!」
「ドちくしょおおおおおおおお!」
誇らしげに胸を張るキサラギ、もといゴードン。
ナナシは思わず跳ね起きると、ゴードンの胸倉を捩じり上げて顎を突きつける。
いくらナナシが温厚だと言っても、流石にそろそろブチ切れてもおかしくは無い。
「アナタはほんとに! 何回も何回も! 同じネタを!」
「ま、まあまあ落ち着け兄者」
「誰が兄者ですか!」
「キサラギ殿が『お約束は大事よね』と言うからだな……俺様としても渋々とだな……」
「渋々!? めっちゃ楽しそうだったじゃないですか! そもそもキサラギがなんと言おうとですねって……ん? キサラギ?」
アホの言葉の意味するところに思い至って、ナナシは思わず目を見開く。
「うむ、もう目覚めておられるぞ、今交代するから」
そう言ってゴードンが目を閉じると、見た目には変化は無いものの、明らかに纏う雰囲気が変わった。
「……アンちゃん」
「キ、キサラギなの……か?」
ゆっくりと目を開いていくキサラギの姿に、ナナシは思わずゴクリと喉を鳴らす。
キサラギはナナシから恥ずかしそうに目を逸らし、少し俯き気味に頬を染める。
そして意を決した様にナナシを見つめ直すと、ニヤリと笑ってこう言った。
「残念! 俺様だァァァァァァ!」
「ドちくしょおおおおおおおお!」
この期に及んでまさかの重ねボケ。
ナナシは思わず頭を抱えて、地団駄を踏んだ。
流石に我慢も限界。震える指先が腰の得物を探る。
しかし、そんなナナシの様子を見つめながらキサラギは楽しそうに笑った。
「あはは、ウソウソ。アンちゃん、私だよ、キサラギだよ」
ピタリとナナシの動きが止まる。
「え……ホントに?」
「ホントに」
「おっさんじゃ……ない?」
天敵に襲撃された直後の小動物の様に、警戒感丸出しのナナシの様子に、キサラギは思わず苦笑する。
「大丈夫、おっさんじゃないよ。中でゴードンさんが『誰がおっさんだ!』って怒ってるけど、私はおっさんじゃないよ」
しかし、ナナシは未だに警戒を解こうとしない。
二度ある事は三度ある。天丼のおかわりが来る可能性は否定できない。
「じゃ、じゃあ質問。キサラギの大好物は?」
「火炎蟻の甘酢あんかけ」
冷静に考えればキサラギの中にいる3人の魂は、記憶も共有しているのだから、この質問でキサラギとゴードンを見分けることはできない。
しかしナナシは確信した。
間違いない。目の前にいるのはキサラギだ、と。
「キサラギ!」
眼頭に薄らと浮かぶ涙を拭いもせず、ナナシは思わずキサラギへと抱きついた。キサラギは一瞬目を丸く見開いた後、優しく微笑みながら、むずがる子供をあやす様にナナシの背中を擦る。
「ふふっ、アンちゃん痛いよ、そんなに強く抱きしめちゃ……」
「あ、ご、ごめん」
「ん。何か変な感じだね。久しぶり……というのはちょっと違うかな、ルーちゃんが表に出てる間もアンちゃんの声は聞こえてたし」
ナナシの肩へと額を乗せて、キサラギはいかにも幸せそうに目を閉じる。
そんなキサラギの様子にナナシの目が一層潤む。
冷たい身体。体温の無いゴーレムの身体。
だが、今ナナシの腕の中にいるのは紛れも無く、探し求めた義妹だった。
「……心配したんだぞ」
「うん」
「もう会えないかと思った」
「うん」
ナナシはキサラギを抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「おかえり、キサラギ」
「ただいま、アンちゃん」
二人は額を押し付け合う様にして微笑みあった。
◇◆ ◇◆
どのくらいの時間が経っただろう。
少し名残惜しげに互いの身体を手放した後、ナナシが思い出した様に口を開く。
「ところでキサラギ。さっきはなんでゴードンさんのフリなんてしたのさ?」
「だって、ドンちゃんが『これはお約束だから』って。『兄者は、なんだかんだ言って絶対喜ぶから』って……」
キサラギが上目使いにそう告げると、ナナシはピクピクと頬を引き攣らせる。
「……いつか絶対、キサラギの体から締め出してやる」
改めて決意を固めるナナシであった。
そんな時、唐突にキサラギの背後から声が聞こえた。
「少年、感動の再会なのは理解しますが、そんなことしてて良いのですか?」
そこにいたのは紫のローブを羽織った坊主頭の男。
がっしりとした体格をしているのに、今の今までそこにいることに気が付かないかない程、気配のない男。
「……キサラギ、この人は?」
警戒感も露わなナナシの問いかけに、キサラギは満面の笑顔で答える。
「ショーツさん」
「シュルツです」
最悪な間違われ方をした割りには、男には一切動じる気配もない。
ハートの強い男であった。
「うんうん、ショーツさんはね……」
「シュルツです」
「ルーちゃんの部下の人で、アンちゃんがこっちに向かって吹っ飛ばされて来たのを助けてくれたんだよ」
動じる気配もなく黙々と訂正する男と、その訂正を全く聞いていないキサラギ。
中々にシュールな光景ではあるが、ナナシにとってはなにやら既視感を感じる光景である。
「助けていただいたみたいで……あ、ありがとうございます」
「礼は結構です。あなたと馴れ合うつもりはありませんので」
シュルツは表情一つ変えずに冷たく切り捨てる。
「今回はマリールーがアナタを救えと言うので手を貸した。ただそれだけのことです」
「……マリールー?」
「うんうん、私がルーちゃんにお願いしたんだよ、アンちゃんを助けてって」
『マリールー』
ナナシは思わず眉を顰める。
その名前を持つ女性は、紛れも無い敵の筈だ。
キサラギの中にいるもう一人の魂。
キサラギを喰った張本人であり、ゲルギオスやメルクリウスの城門前、そして市街地と幾度となくナナシが戦った相手だ。
「……あの人が、よくそんな頼みごとを聞いてくれましたね」
「うん、まあ条件付きなんだけど、むしろ好都合な話だったし」
「条件?」
「うん、さっきまでアンちゃんと戦ってた女の人。メルクリウス伯って人だよね」
「え? うん……」
唐突にクルルのことが話題に昇った事に、ナナシはキサラギへと戸惑いの視線を向ける。
「ルーちゃんがその女の人をブチ殺すのを、私とドンちゃんが手伝うっていうのが条件。あの女の人がアンちゃんをボコボコ殴ってるの見ちゃったし、私もまあ、あの女の人は、殺しといた方が良いかなって」
それはあまりにも物騒な発言。
キサラギは、虫も殺せない様な少女だった筈。
目の前のキサラギと、ナナシの記憶の中のキサラギに重大な齟齬が生まれ、その埋まらないギャップの大きさにナナシは、どう言っていいのか分からず、ただ口ごもった。




