第128話 恋は少女を侵食する。
甲高い金属音を立てて鉄の梯子が壁面から剥がれ、少年と少女は為す術も無く宙へと投げ出された。
轟々と逆巻く風の中、突然の出来事に驚愕に満ちた表情を浮かべ、二人は落下し始める。
「ナナシイィィィィィイ!」
「く、くるくるさぁあん!」
二人は反射的に互いへと向かって手を伸ばす。
だが、互いの指先がわずかに触れる感触を最後に、無情にも二人は別々の風の流れに飲み込まれて、引き裂かれる様に落下していく。
天を衝くように持ち上がった機動城砦の先頭付近からの落下、高さにして数百ザール。たとえサラトガ城の尖塔から飛び降りても、これ程の高さは無い。
地面に背を向けて落下しながら、ナナシは城壁の外へと投げ出されていくクルルの姿を目で追った。
幸いにも未だにクルルの周囲を二枚の鋼板が周回しているのが見えた。
このまま城壁に叩きつけられる様な事も無く、砂漠へと向かって投げ出されるのならば、彼女はきっとあの二枚の鋼板で、滑空、無事に着地することが出来るだろう。
ナナシは思わず胸を撫で下ろしかけて、ブルブルと首を振る。
いや、それどころではない。
問題は、むしろ城壁の内側へと落下しているナナシ自身の方だ。
このまま真っ直ぐに落ちていけば、ペリクレス城の壁面か、さらにその背後の闘技場、もしくは最後部の外壁、そのいずれかに叩きつけられて、トマトの様に潰れてしまうことは避けられない。
数十秒後の自分の無残な姿を想像して、顔から血の気がひく、あわあわと無様に指で宙を掻きながら、ナナシは必死に考える。
何か、何か助かる方法は無いのか?
ナナシはそう自問して、背中に背負った鈍色の流線型の物体に思い至った。
何とか足から着地出来るように態勢を整えて、着地の瞬間に砂を裂くものを発動させる。そうだ! それしかない。
無論、数百ザールの高さからの落下だ。衝撃の全てを殺せるとは思えない。が、それ以上の方法は思い浮かばない。
轟々と逆巻く風の中、息苦しい程の風圧に喘ぎながら、ナナシは砂を裂くものへと必死に手を伸ばす。
砂を裂くものを固定しているベルトの留め金を探して指を這わせるが、在るべき場所に留め金の感触が見当たらない。
「な、無い! 留め金が無い」
胸の奥で心臓が跳ねまわっている、ドクドクと騒がしい自分の鼓動。
慌てれば、慌てるほどに状況は悪くなるのは、ナナシにだって分かっている。
しかし、ナナシは気付いていなかった。
ここに到るまでの間にベルトがクルリと回って、留め金の位置がナナシの手の届かない背中の中央へと移動してしまっていたことを。
冷静になればベルト其の物を回すという考えにいたるのだが、ナナシは慌てふためいて、引っ掻くように必死で指先をベルトの方へ這わせる。
死神の足音が聞こえた様な気がする。
頭の中を真っ赤に染まった自分の姿が過ぎる。
もう時間が無い。
思わずナナシは首を回して、背後に目を向ける。
遅すぎた。
眼前に壁があった。
驚愕の表情を浮かべたまま、ナナシは勢いを緩めることも出来ず、壁に激突。
自分の身体が壁へとめり込む感触。
ナナシの意識はそこで途切れた。
◇◆ ◇◆
麗しき乙女の喉笛に一角獣が喰らいついた。
機動城砦ペリクレスが首都へと上陸する様子を、後の詩人達はそう吟ずることになる。
嘶く暴れ馬の前脚さながらに、前部を宙空へと跳ね上げる機動城砦ペリクレス。
獣の咆哮と聞き紛う様な軋む音を響かせ、尖端部分から外壁の破片を撒き散らしながら砂を巻き上げ、それは首都へと侵攻を開始した。
少年と少女が梯子ごと宙に投げ出されたのは、当にこの時のこと。
しかしこの大災害にも似た出来事の中では、それも極めて小さな一局面でしかない。
立ち昇った砂煙は前進する機動城砦の起こした風に巻き上げられ、さながら砂嵐の如くにその巨体に纏わりつき、さながら黄色く煙った雲が動いているかの様にも見える。
やがて、首都港湾エリアへと到達したところで、速度を落とした機動城砦は、工廠エリアの上へと、その巨大な影を落とす。
重厚な風切音。突風さながらの風圧。
機動城砦が大地へとその巨体を倒していく。
地軸を揺らす様な激震、地上近くで雷が発生したかのような、爆発音にも似た轟を砂漠へと響き渡らせる。
街が街を踏み潰すという余りにも非現実的な光景。
全幅1500ザールにも及ぶ巨大な塊が宙空から落下して、その真下にあるものを何もかも押し潰していく。
薄く延ばした銅で覆われた工廠のドーム屋根。それが1番の常設橋の辺りには幾棟も連なっていた。
それらが圧潰する音を立てる暇も与えられず、瞬時に押し潰され、その残骸を踏みにじるメリメリという音だけを、立ち昇る砂煙の中に響かせた。
蹂躙。
蹂とは踏みにじること。躙とは地に擦り付けること。
その光景はまさに蹂躙と呼ぶに相応しいものであった。
目指す闘技場は、もう目と鼻の先。
街であった物を更地へと戻しながら、石作りの巨大な一角獣はその巨体を引き摺る様にして進んで行く。
◇◆ ◇◆
闘技場全体がぐらりと揺れた。
最初は緊張の余り眩暈でも起こしたのかと思ったが、遠くからドーンという雷鳴の様な音が響き渡り、続いて石畳についた膝を伝って振動が身体を這い上がってくる。
「な、なんだ?」
「砂洪水か!?」
祈りの言葉の詠唱は途切れ、ミリアは背後で狼狽する処刑役人と僧侶たちの声を聞きながら、目を閉じたままゆっくりと顔を上げた。
固く閉じた瞼が差し込む陽光に透けて、毛細血管の装飾を施したオレンジ混じりの赤黒い闇が視界に居座る。
一度目を開いてしまえば、決めた筈の覚悟が氷菓子の様にあっさりと溶け落ちて、泣き叫んでしまいそうな気がして、瞼を開く事を躊躇したのだ。
覚悟を決めたつもりなのに、今も心臓は意志に反して恐怖に慄いて、早鐘の様に鼓動を刻んでいる。首枷が触れている頚動脈の辺りが、激しく脈打つのを感じている。
顔が熱い。
頭が膨れ上がっている様な鈍い頭痛がする。
身体中の血が全部、頭に集まっているみたい。
今、処刑が執行されたならば、さぞ勢いよく血が噴き出すことだろう。
「おい、誰か外を見てこい!」
背後を往来する長靴の固い足音、先程の振動に処刑役人や僧侶達が状況がわからず、苛立ったり怯えたりしているのがわかる。
「キャアアアアアアアア!」
観客席で溢れるざわめきに身体に無数の蟻がたかって蠢いているような不快感を感じて、ミリアが自由にならない身体を捩ったその時、観客席の方から、悲鳴とともに一層大きなざわめきが巻き起こった。
背後で処刑役人が「チッ」と舌打ちする音が聞こえた。
「何をやっている! 連中を大人しくさせろ!」
処刑役人が忌々しげにそう声を荒げると、何人かが階段を駆け下りていく音がした。
何が起こっているの?
ミリアはゴクリと喉を鳴らして、恐る恐る目を開く。
「な、なにアレ……?」
暫くしてじわりじわりと焦点が合い始めると、先程まで素知らぬ顔をしていた青空に、まるで泥を塗りたくったかのような黄色と黒の入り混じった雲が立ち昇っているのが見えた。
ゆっくりと視界を下の方へと向ければ、真正面の二階席、その辺りに人のいない空間がじわじわと広がっていくのが見える。
悲鳴や詰る様な声を上げながら、観客達が逃げ惑っている。
その中にきらりと光るものが合計3つ。
目を凝らせば二人の男が剣を振り回しながら、激しく打ち合っているのが見えた。
顔立ちまでは分らないが一人は二刀流。一瞬アージュではないかと思ったが、あれはどう見ても男。いくらアージュが男っぽいとは言っても、流石にアレを見間違えたと言えば、ブッ殺されかねない。
「こんなタイミングで喧嘩しないでよね……」
ミリアは小さく溜息を吐く。
このせいで処刑の執行が延びれば伸びるほど、死の恐怖に晒される時間も伸びるのだ。別に積極的に死にたい訳では無いが、苦しむ時間が短いのにこしたことはない。
呆れるような目でぼんやりと男たちが剣を打ち合う姿を眺めているうちに、ミリアはふと違和感を覚えた。
不自然。あまりにも不自然。
ミリアの目に二人の男は、互いに打ち合うように見せかけながら、観客をそこから遠ざける様に追い立てているように見えた。
「巻き込まれるわよぉー、みんな逃げてぇー」
やたら背の高い婦人が大声で叫んでいる。
あの婦人も不自然だ。あれだけ声を上げながら、自分自身は逃げようともせず、人の多いあたりに移動しては、逃げるように声を上げて促している。
不自然、不自然、不自然。
こんな状況であっても、ミリアの働き者の頭脳は答えを求めて回転を始める。
この状況が示している物は何なんだろう?
あの様子を見る限り暴発的な乱闘だとは思えない。間違いなくあの二人の男と背の高い女は、あそこから観客を遠ざけようとしている。
あそこに何がある?
なぜ今なの?
外で鳴り響く雷鳴とは関係があるの?
ありとあらゆる情報がいつもどおりに彼女の頭の中で整理され、タグを貼り付けられて分類。その上でパーセンテージ付きの可能性として紐付けされていく。
そして出た結論、それは、
――――わかんない。
この場所、このタイミング。
自分に関係が無い事とは、どう考えても考え難いのだが、どの仮説も『ミリアの存在は誰からも忘れ去られている』という条件の壁を乗り越えられない。
ミリアの気分としては最悪だ。
自分の頭で把握できない出来事が目の前で起こっている。
苛立つ。腹立たしい。もどかしい。
その上、なんだかこんなゴチャゴチャした状態で、皆が逃げ惑っている間に、処刑が執行されて死んでいました。というのは流石になんだか情けない。
いや……別に注目されたいという訳では無いのだけど、なんだか死に際まで脇役的な扱いを受けるというのは理不尽な気がする。
だからと言って処刑を延期されては、死の恐怖をまた延々と味わうことになるし、でも早く死にたいかと言われると、流石にそれは違うと言わざるを得ない。
「あー、もうッ!」
自分の気持ちをどっちへ向ければ良いのか迷ったまま、ミリアはとりあえず不満げに頬を膨らませた。
◇◆ ◇◆
「逃げてー! 皆ァ危ないわよぉ! 逃げてー!」
張出し舞台の上でミリアが複雑な感情に懊悩し、頭からプスプスと煙を立てている頃、代弁家政婦のトリシアは、ただただ焦っていた。
ムスタディオとペリン、二人の剣闘奴隷達は、それぞれの武器を振り回しては大げさに打ち合い、人が留まっているところを見つけては、打ち合いながらそちらへ向かって突進していく。
慌ててトリシアも声を限りに叫びながら、周囲の人間を追い立てる。
時間が無い。とにかく時間が無いのだ。
先ほど鳴り響いた轟音の正体をトリシアは知っている。
どんどん近づいてくる地鳴りの正体を知っているのだ。
マレーネのしようとしていることは、暴挙としか言いようがない。
恋に狂った少女の大暴走だ。
恋は病だ。恋はいつの間にかマレーネを侵蝕し、あの少年の為ならば何でもやりかねない状態にまで進行していたのだ。
トリシアは、かって恋に落ちた日々に想いを馳せ、自分もそうだったのだろうかと思い起こす。
裏切られたという想いを募らせただけで終わった恋。
あのちゃらんぽらんな男に焦がれた日々を思い起こして、トリシアは「うげっ」と声を出して吐く様な仕草を見せ、不快そうに顔を顰めた。
◇◆ ◇◆
砂漠の上に、小さな影が落ちる。
残された2枚の鋼板で、かろうじて滑空しながら砂漠へと落ちていくクルル。
遠のいていく轟音、遠くで砂煙を立ち昇らせている機動城砦ペリクレスを振りかえった後、クルルはじっと手を見つめる。
あの時、自分はどうしてナナシへと手を差し伸べたのだろうか?
咄嗟に。反射的に。
それはそうだろう。問題はその後に続く言葉だ。
助けようとしたのか? 助けられたいと思ったのか?
手を差し伸べてあのままナナシの手を掴んでいたらどうなっていたのだろう。
そこまで考えてクルルは思考を停止。
胸に湧き上がる得体の知れない感情に怯えて、クルルはその答えを出すことを拒絶した。




