第127話 女には逆鱗がある
「むっ! 何やら我が弟がピンチに陥っている様な気がする!」
キリエが勢いよく席を立った。
「アージュ! 悠長に飯なんか食っている場合では無い! 私は我が弟の元へ向かうぞ!」
突然の事にアージュは一瞬ポカンとした表情を浮かべた後、肩を竦めてキリエに歩み寄る。そして、キリエの肩を力づくで押さえつけて、強引にもう一度席に座らせると、眼球同士がくっつきそうな程に顔を近づけて、キリエの眼を見据える。
「全部食べるまで逃がしませんよ。ト・マ・ト」
「いや、おい、あの、別にト、ト、トマトが嫌で逃げ出そうとしている訳では無くてだな。お姉ちゃんの勘が、我が弟がピンチだと……」
「はいはい、ピンチ、ピンチ。ナナシのやろーが大変だー。じゃ、早く全部食べちゃってくださいね。今日という今日は絶対逃がしませんからね」
二人のやり取りをテーブルに肘をついて眺めながら、ミオがうんざりとした表情を浮かべ、口の端に咥えたスプーンを揺らして溜息を吐いた。
昨日もトマト、昨晩もトマト、今朝もトマト、この昼もトマト。
トマト嫌いのキリエはもちろんの事、別にトマトが嫌いでも何でもないミオであっても、流石にこのトマトカーニバルは堪える。
今回の事で良くわかったが、アージュはかなり根に持つタイプの様だ。
ナナシと会えた筈の時間、その大半をキリエに持って行かれた事が未だに尾を引いているらしい。
「嫁入りしたら、姑に飯で仕返しするタイプの鬼嫁じゃ……」
「な・に・か、言いましたかァ? ミオ様ァ」
ポロリと零した一言にアージュがギロリと睨んでくる。
「いや、ト、トマトはうまいのう! トマトさいこー! こらキリエ! 早う食べんか!」
「いや、しかし、今、本当に我が弟がピンチだとお姉ちゃんの勘が……」
ここは機動城砦サラトガの幹部フロアに設置されたカフェテリア。
機動城砦ペリクレスが突っ込んだ1番の常設橋付近とは首都の両端。遠く離れているがために、あの大破壊の音さえ微かにも届いては居ない。
にも拘らず、ナナシの危機を察知した『お姉ちゃんの勘』という謎の能力は凄まじいものがあったのだが、実に残念ながらトマトから逃げ出したいキリエの言い訳として、あっさり切り捨てられた。
◇◆ ◇◆
「ちぎれるうぅう! ちょ?! おま! マジか! 痛ってえええ! ちぎれっ! ちぎれるうぅぅ!」
立ち昇る砂で黄色く煙る空に、クルルの絶叫が木霊した。
巨大なハンマーを打ち下ろすかのように、一気に落下したペリクレスの後部が大音響を立てて大地を叩き、城壁の外側では大量の砂が、城壁の内側では、家屋が、木々が、人々の営みのあらゆる痕跡が、宙空へと投げ出されていく。
下から突き上げる様な衝撃に身体を激しく揺さぶられながらも、ナナシは掴んだ鉄の梯子を離すまいと奥歯を強く食いしばり、逆の手で、宙空へと投げ出されかけたクルルの身体を咄嗟に掴んだ。
「くっ……うっ……」
ナナシの口から呻き声が洩れる。身体を左右に引きちぎられそうになる程の衝撃。苦痛に顔が歪んで、一気に汗が噴き出す。
「ちぎれるうぅう! 痛ってえええええええ! 伸びる! 伸びるからぁ!」
「く、くるくるさん暴れないで! が、我慢してくださ……って、えぇぇえ?!」
宙空で叫びまくっているクルルへと目を向けた瞬間、自分がクルルのどこを掴んでいるのかに気が付いて、ナナシは我が目を疑った。
腕? ノンノン。
脚? ノンノン。
ま、ま、ま、まさかの胸?
そうであって欲しいような気もするが残念ながらノン。
胸は硬い胸甲で覆われていて掴みどころなど無い。
ではどこを掴んだのか?
それは――腹だ。
ナナシが咄嗟に掴んだのは、腹の肉。
おなかの……いわゆる『ぽよん』な部分であった。
誤解の無いように言っておくが、別にクルルが太っているという訳では無い。
むしろ彼女は人並み以上に引き締まった身体をしている。
しかし第二次性徴以降の女性の皮下脂肪は、平均値をとってみても男性より5%程も多い。
たとえクルルが人並み以上に鍛え上げた身体であったとしても、薄く掴める程度には皮下脂肪があるのだ。
ナナシはその下腹部のいわゆる『ぽよん』な部分をむんずと掴んでしまったのだ。
咄嗟の事とはいえ、これは酷い。
何が酷いって『腹の肉』という文字面がもう酷い。
これは致命的であった。
仮に相思相愛の新婚夫婦であったとしても、この行為は充分に離婚の原因となりうる。
女性の『ぽよん』には絶対触れては行けない。
絶対だ。良い子のみんなとお兄さんとの約束だ。
なにせ、そこは女の逆鱗なのだ。
「は、はは、は、ふぁ……」
思わず変な笑いが口から零れて、ナナシの顔から一気に血の気が引く。
「ブッ殺ぎゃぁぁぁぁあ! ちぎれ、殺ぎゃぁぁぁあ!」
クルルはチョイチョイ不穏な言葉を挟みながら悶絶し、ブッ殺すと言わんばかりの目つきで、ナナシをめっちゃ睨んでいる。
思わずナナシは真剣にクルルから、手を放す事について検討しかけた。
まあ、実際には絶対にやらない訳だが。
『ぽよん』を掴まれて宙を舞う戦争狂という大変シュールな光景ではあるが、それを笑っていられる様な状況ではない。
上向きの衝撃が収まれば、重力に牽かれて下へと落ちる事は道理、そうなってしまえば、ナナシの握力でクルルの全体重を支えることなど出来る筈もない。
「くるくるさん! 僕の腕を、腕を掴んでください! 早く!」
今度は徐々に機動城砦の先端部分が宙へと持ち上がり始め、重力に牽かれて、『ぽよん』を掴んでいるナナシの指先にクルルの全体重がかかる。
「あっ!」
つるりと指先から『ぽよん』が滑り落ち、ナナシが思わず声を洩らしたその瞬間、間一髪、『ぽよん』を掴んでいたナナシの腕にクルルがしがみついた。
「あ、危ねぇ……」
思わず漏らしたクルルの呟きをかき消す轟音、地軸を揺らす様な大震動を起こしながら、今度は先端部分が宙に向けて持ち上がっていく。さっきまで地面かと錯覚する様な位置にあったペリクレスの内壁が、今度は、オーバーハングする崖っぷちの様に反り返っていく。
悲鳴も尽きて、苦しそうに顔を顰めるばかりのナナシ。揺さぶられる鍋のへりにへばりついた煎り豆のように、大きく振り回されながらもただ必死に梯子にしがみ付いている。
先端部分が約45度程の角度に持ち上がったところで、機動城砦ペリクレスは一瞬ピタリと動きを止めたかと思うと、突然、ブルッ! と脇腹をつつかれた人間のようにその巨体を震わせて走り始めた。
クルルは宙にはためきながらもナナシの二の腕を攀じ登る様にして梯子を掴むと「ふう」と小さく安堵の息を洩らす。
そして次の瞬間、いきなりナナシの頬を殴りつけた。
「何をするんですか!」
「何をじゃねぇ! ひ、人の腹で遊びやがって! こ、こんな屈辱は初めてだ。絶対殺す、てめえの親族、縁者、友人、知人皆殺しにしてやる」
驚いたナナシが目を向けると、クルルは涙目で下唇を強く噛みしめていた。
「ご、ごめんなさい。咄嗟のことだったので……」
「うるせぇ! オレの一生をかけてお前だけは殺す。絶対に殺す!」
再びクルルが腕を振り上げた途端、ピシピシという不吉な音。
その音に合わせて小さな震えがナナシとクルルの腕を伝ってくる。
「ヤベぇ……」
「ええ、マズいですよ……これは」
思わず二人が顔を見合わせた途端、パキッという乾いた音がして、梯子を壁面に固定していたネジがはじけ飛んだ。
「「やっぱりいぃぃい!?」」
二人が同時に声を上げたその瞬間、ベリベリッと壁面から引き剥がされる梯子。 クルルとナナシは掴まった梯子ごと宙に投げ出された。
◇◆ ◇◆
錆付いた金具が耳障りな音を立てて、重厚な扉が開かれる。
この音を聞くだけでこの扉がどれ程長い間、開かれることが無かったのか想像がつく。
扉が開いていくのに連れて、ざわざわという人々の話し声が薄暗いこの廊下へと満ちて来て、遠くで微かに雷が轟くような音が聞こえた。
「おらっ、お客さんが悲劇のヒロインをお待ちかねだ」
顎の突き出た男がムッツリと不機嫌そうな顔でそう言うと、もう一人の男がシャッシャシャと下品な声を洩らして笑う。
長く鎖につながれていたせいで覚束ない足取り。両脇を屈強な男たちに抱えられて、ミリアは引き摺られる様に扉から外へと引っ張り出される。
その瞬間、階下から爆発するような歓声が一斉に轟いた。
ミリアは眩しさに思わず顔を顰める。
暗いところから急に燦々と陽光振り注ぐ屋外へと連れ出されれば、明順応が追い付かずに視界が一瞬真っ白に染まる。
ぼやけた視界の中、徐々に色彩が戻ってくると、最初に目に入ったのは抜ける様な青い空。死にゆく者を素知らぬ顔で見下ろす残酷な青空だった。
「ハハッ……大入りだね」
ベランダ状に突き出した張出し舞台の真ん中あたりまで引っ張り出されたところで、階下を見回してミリアは自嘲する様な調子で呟く。
見渡す限りの人、人、人。
円形の闘技場の大半が人で埋まっている。
ミリアの方を指差して、声を上げる人々。
相変わらず遠くの方で雷の様な音が響いている。
少女一人の命。その終わりを見る為に、これ程に多くの人間が集まっているのだ。
張り出し舞台の先端に設置されているのは木製の断頭台。
「ここに跪きな」
ミリアが抵抗する素振りも無く断頭台、その首枷の前に跪くと、顎の突き出た男が強引にミリアの頭を押さえて首枷の上に首を乗せさせ、もう一人の男が首枷の上半分を乗せて|留め金を閉じる。
惨めにも木の板に開いた穴から首だけを突き出した様なミリアの姿に、観客席から笑いさざめく様な声が広がっていく。
わざわざ断頭台が張り出し舞台の一番端に設置されているのには訳がある。
ここで首を落されれば、この3階部分から1階に向けて、高いところから首が落ちるのだ。真下を見下ろせば、それを受け止めるための藤籠が起これているのがわかる。なるほど、そういうショーアップなのかと、ミリアは他人事の様に納得した。
「これより、皇姫殿下殺害未遂、国家転覆を狙った悪逆非道な重罪人の処刑を執り行う!」
顎の突き出た男がミリアの傍で大音声を上げると、観客席は一気に沸き立ち、指笛が幾つも響きわたる。
「神への祈りを」
続けて男がそう宣言すると、歓声を上げていた人々も一気に静まり返り、遠くで鳴り響き続けている雷の音がさらに近づいて来るように思えた。
ミリアの背後から幾人かの僧侶たちが、朗々と祈りの言葉を唱える声が聞こえ、静寂に包まれている闘技場の壁にぶつかって幾重にも響き渡った。
ミリアの脳裏に大切な人達の姿が過ぎっていく。
その誰もが、自分の事を覚えてはいない。
圧倒的な孤独感の中に、誰も悲しませずに済むという安堵の気持ちが少し。
祈りの言葉も終わりが近い。
「お姉ちゃん、ナナちゃん、ミオちん……さようなら」
ミリアは静かに目を閉じた。
◇◆ ◇◆
「た、隊長……な、泣かなくてもいいじゃないですか。そんな泣くほど嫌いなんですか、トマト……」
アージュが慌ててそう声を掛けたことで、キリエはいつの間にか、自分の眼からはらはらと涙が零れ落ちている事に気付いた。
「こ、これは涙ではない。よ、よだれだ!」
「いや、そっちの方がイヤですよ……」
キリエは誤魔化す方向を思いっ切り間違えた。
それはともかく、キリエは戸惑っていた。
胸が押しつぶされそうな程に苦しい。
悲しくて、悲しくて、仕方がないのだが、何が悲しいのかがわからない。
キリエは、何かとても大切なことを忘れている様な気がしていた。




