第112話 宇宙が見える。
ナナシがペリクレスに到着する頃には、既に夜も更けて、ペリクレスの市街地もしんと静まりかえっている。
ペリクレス城内の階段を足音を殺して登りながら、ナナシは考える。
ミリアの死刑執行は明日の正午。
残された時間は実質半日程度だ。余りにも時間がない。
幸い、魔術のエキスパートであるシュメルヴィは、キサラギの魂が目覚めるまで、念のためペリクレスに滞在してもらうことになっている。
シュメルヴィならばサラトガの乗員達に掛けられた忘却の魔法らしきものの正体もわかるのではないかと、一縷の望みを託してナナシは夜半に、シュメルヴィが滞在する部屋をノックした。
「はあぃ、誰ぇ?」
鼻にかかった甘ったるい誰何の声。
やや遅れて、扉が開いた。
顔を出したシュメルヴィは、扉の外にいるナナシの表情を見るなり、何事かが起こっているのを察して、表情を強張らせると「入って」とナナシを部屋へと招きいれる。
彼女の性格であれば、いつもならば、ここで夜這いがどうのこうのと、散々ナナシの事をからかうはずなのだが、それどころではないのを感じ取ってくれたらしい。
過去にサラトガでちらりと見たことのあるシュメルヴィの夜着は、紫色のシースルー。相当に際どいものであったが、流石に夜着までは持参してきてはいない様で、今の彼女の服装は相当に野暮ったい短衣に幅の広いいかにも楽そうな下袴。それも誰かの物を借りているのだろう。サイズが合っていないせいで、胸に施された熊の顔をかたどったアップリケが、豊かなふくらみに左右に押し広げられて、平べったい不気味な山椒魚の様になっている。
しかし、いつまでもそんな事に気をとられている場合ではない。
部屋に入るなりナナシは先程起こったことを、息堰切って捲し立てた。
最初、そんなナナシの様子を驚く様な顔で見つめていたシュメルヴィ。しかしその表情は話が進むにつれて、徐々に難しいものになっていく。
――やがて、
「とてもではないけれどもぉ 簡単に信じられる話では無いわぁ」
と、尚も説明を続けようとするナナシを遮って言った。
「確かに信じられないかもしれませんけど、本当なんです。一瞬にしてサラトガにいる人たちが皆、ミリアさんのことを忘れてしまったんです」
「違うのぉ、そうじゃないのよぉ」
「違う? 何がです?」
「私もナナシ君のいう、そのミリアっていう娘のことを知らないのよぉ」
ナナシの背中を冷たいものが滑り落ちる。
目を見開いて立ち尽くすナナシを見つめて、シュメルヴィは更に告げる。
「キリエちゃんにぃ、抱き枕以外の妹がいたなんて、聞いたこと無いしぃ……」
「そんな馬鹿な! シュメルヴィさん、よく思い出してください!」
必死の形相を浮かべるナナシ。
対してシュメルヴィは目を伏せて小さく首を振る。
「……だから、もし本当にナナシくんの言う様に忘却魔法で皆がその娘の事を忘れているというのなら、サラトガどころか、このペリクレスまで、それこそ首都全域を効果範囲に収めていることになるんだけどぉ。そんなことは出来っこ無いわ。そもそも忘却の魔法なんて接触しないと掛けられない魔法よぉ」
「だけど、実際にそれが起こっているんです!」
思わずシュメルヴィの肩に掴みかかるナナシ。それを気にする素振りも見せずにシュメルヴィは話を続ける。
「それにぃ、有り得ない事がもう一つぅ」
「な、なんです?」
「もし、接触せずにかけられる忘却の魔法があったとして、忘れた人達と同じように効果範囲にいたはずのナナシくんだけが、どうしてそのミリアって娘のことを覚えているの?」
「それは……わかりません」
「でしょうねぇ……。だから有り得る可能性を探っていくと、むしろナナシくんの方こそ、偽の記憶を植えつけられている可能性が高い。そういう結論に到っちゃうのよぉ」
ナナシは愕然とし、シュメルヴィの肩から手を放して後ずさる。
「そんな……この記憶が偽物? そんなはずが……」
「無いと言いきれるの? 何十人、何百人の記憶を一斉に消すことに比べれば、ナナシ君一人に、ありもしない記憶を植え付ける方がどう考えても簡単よぉ」
◇◆ ◇◆ ◇◆
ペリクレス上層階にあるオープンデッキ。
そこに設けられたプールの脇を、ふらふらとおぼつかない足取りで歩く人の影があった。
ナナシはシュメルヴィの部屋を出た後、自分にあてがわれた貴賓室へと戻る気にもなれず、息苦しさを感じて、外の空気を求めてここまで登ってきたのだ。
暗い夜の色をした瞳は、深い憂悶に色褪せて、本来そこに宿るべき意志の光はあまりにも弱弱しい。
だらりと力なく垂れ下がった腕を揺らしながら、空を見上げるでもなく、プールの水面で揺れている星を力なく見下ろす。
僕の記憶の中にあるミリアさんの笑顔も、この水面の星と同じ、手をのばしてもそこには無いのだろうか……。
耐え難いほどに静かな夜。
深い溜息をついて、石造りのプールサイドにぺたりと座り込み、ナナシはただ、風に揺れる水面を眺めていた。
「旦那様」
オープンデッキの入口あたりから、ナナシを呼ぶ声が聞こえた。
しかし、ナナシは特に反応もしない。その気力がない。ただ、静かに水面を見つめ続けている。
ナナシのことを呼んだのはマレーネ。
星灯りの水面に映りこむ、彼女の白い肌と白い髪。
「何かあった?」
座り込むナナシのすぐ傍まで歩み寄ると、マレーネは自分もしゃがみこんでナナシの顔を覗き込む。いつも一緒にいる代弁家政婦トリシアの姿は見当たらない。
相変わらず、水面に映る星をぼんやりと見つめながら、ナナシは問い返す。
「マレーネさんこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「旦那様がここへ上がっていくのが見えた……から」
「マレーネさん……ミオ様の無罪が決まった時、代わりに家政婦が死刑になるって言いましたよね」
少し戸惑った様子でマレーネは小さく首をふる。
「ごめん……なさい。そんな覚えは……無い」
「そうですか……」
ナナシは静かに目を伏せる。
良く見ればその体が小さく震えているのがわかったことだろう。
「旦那様……疲れてるみたい」
「そう見えますか? どうやら僕は今、魔法を掛けられて、ありもしない記憶に踊らされているらしいんです」
ナナシは自嘲するような表情で言葉を紡ぐ。
「ある女の子の記憶です。出会って早々に裸に引ん剥かれたことも、彼女を守って闘ったことも、自分を大事にしてと言いながら指を折られそうになったことも、全部、偽の記憶らしいんです」
「裸に引ん剥かれたのあたりを詳しく!」
突然、食い入る様に顔を近づけてくるマレーネ。
急にはっきりと話始めたマレーネにナナシは、ちょっとビビった。
しかし、こうやって並べたててみると思い出というには、わりとロクでもない記憶ばかりである。どうせ植えつけるなら、もうちょっと良い思い出を植えつけて欲しい。
「偽者の記憶だとわかっても、頭の片隅で、その女の子が『助けて』と叫ぶ声が聞こえ続けているんです。実は本当はその娘は存在するんだと、胸の奥で何かが必死に叫ぶんです」
ナナシは抱えた膝に顔を埋めるようにして項垂れる。
ナナシのその姿を見つめた末に、マレーネは口元を引き結ぶと、ナナシの正面へと這い寄って膝立ちになる。
「大丈夫」
その一言とともにマレーネは、ナナシの頬を小さな両手で挟みこむ。
ゆっくりと顔を上げるナナシ。
マレーネが微かに頬を赤らめて微笑んだ。
「その娘は居なくても、旦那様には私がいる」
そう囁くとマレーネはナナシの頭を抱え込むようにして、自分の胸へと抱きしめる。
突然の出来事にナナシは声を上げることも出来ず、されるがまま。
両方の頬にあたる柔らかな感触。温もり。鼻腔をくすぐる甘い香り。
ぴったりと抱きかかえられて呼吸は苦しい。でも良いにおいがする。
なにこれ柔らかい。
……これが宇宙? 宇宙が見える。ビッグバン?
ナナシは大混乱であった。
シュメルヴィ程ではないにしろ、マレーネの胸は身体全体の発育に比べて、著しく豊かである。
過去にキリエがナナシの頭を抱きかかえたことがあったが、その感触は羽毛と鉄板ほどにも異なる。
ナナシが抵抗しないのが分かると、嬉しそうに更に力を込めてナナシの頭を抱きかかえるマレーネ。
しばらく経って、ナナシが主に酸素供給的な意味で天国の存在を間近に感じ始めた頃、ナナシは突然、背後に恐ろしい気配を感じて、ビクリと身体を震わせた。




