第111話 いつものサラトガ
――時間が凍り付いた。
もちろん比喩だが、当に今、ナナシが体感した感覚を言葉にするならば、こういう表現が相応しい。
「は?」
ナナシが思わず目を見開くようにして問い返すと、ミオは少し苛立った様な素振りを見せる。
「だ・か・ら、友とは誰のことじゃと聞いておる! お主がいきなりホールに踏み込んできて、『友を救いたいんです!』とか、訳のわからん事を喚くゆえ、話ぐらいは聞いてやろうと言っておるんじゃ!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい。ミオ様、今、ミリアさんの話をしていたんじゃ……」
「あん? ミリア? 誰じゃそれは……。ははぁん、さてはお主、また無自覚にどこぞで女に引っ掛かってきたな」
ミオが片眉を盛大に跳ね上げながらそう言うと、ナナシの背後でアージュがピタリと動きを止める。
「またって何ですか! またって! 僕が言ってるのは、家政婦の! キリエさんの妹のミリアさんですよ!」
途端にミオは怪訝そうに眉根を寄せて、キリエへと視線を向ける。
「キリエ、お主に妹なんぞおったかの?」
「エア妹ならおりますが……残念ながら、本物の妹は」
「エ、エア妹?」
「ナナシ、ダメじゃ! そこには触れてはならぬ!」
困惑するナナシに、慌ててミオが声を上げる。下手に触れると、ここから先は、延々とキリエの妄想を聞かされる派目になるのは目に見えている。
「あれ? ミオ様、気になりませんか? エア妹。クロエっていうんですけど……」
「いや、全く気にならん」
「クロエ……」
不満げに口を尖らせるキリエを放置し、ミオはアージュの方へと顔を向けて話題を変える。
「そう言えばアージュ。今気づいたんじゃが、我々はなんでここに集まっておったんじゃ?」
「はあ、確かミオ様の帰還のご報告と……祝賀会の段取りの打ち合わせだったような……」
「ふむ、言われてみればそんな気がしてきたのじゃ」
徐々に小さくなっていく声。アージュらしからぬ自信無さげな受け答え。しかしミオは、あっさりとそれを受け入れ、『そんな気がする』の一言でバッサリと疑念を切り捨てた。
「祝賀会は流石に今からでは厳しいのう」
「そうですね、明日にされた方が良いかと」
頷き合うミオとアージュの話に割り込むようにして、キリエが口を開く。
「ミオ様、ならば明後日にしてはいかがでしょうか?」
「なぜじゃ?」
「折角ですので、隠し芸を仕込む時間がほしいなと。こんどこそ渾身の『お姉ちゃんあるある』をですね……」
「よし明日で決定じゃ。で、キリエ、お主は隠し芸免除。アシスタントとして終日、バニーガールを命ずる」
「ミオ様!?」
前回の宴会では幸いミオは、ゲルギオスから帰着したナナシと別室で話をしていたので、キリエのお姉ちゃんあるあるを見ていない。しかし、キルヒハイムからは『大惨事だった』と報告を受けている。
膝から崩れ落ちるキリエ。それを呆然と見ていたナナシの肩を背後からちょんちょんと突いて、ヘルトルードがニマッと笑いそして言った。
「主はん、楽しみにしとってや、ウチの新作漫談が火を吹くで!」
そしてドヤ顔。
「紅蓮の剣姫だけにな!」
冷たい風が吹き抜けた様な気がした。屋内なのに。
それまでざわめいていた兵士達の会話が一斉に途切れ、唐突な静寂が訪れる。
冷ややかな目でじっとヘルトルードを見つめるナナシ。
しかし、ヘルトルードのハートは強かった。
「紅蓮の剣姫だけにな!」
止めればいいのにもう一回言いなおすヘルトルード。
しかし、さすがに二度目ともなると、ヘルトルードに突き刺さる視線はどれも氷点下。紅蓮の剣姫、渾身のボケは笑いの炎を噴き上げることなく、あえなく鎮火されたのであった。
「そうじゃ、ナナシお主、一旦ペリクレスに戻るのであれば、シュメルヴィにも隠し芸を準備しておく様に伝えておいてくれ。せっかくじゃ、マレーも招待しようかの」
ミオが如何にも楽しそうにナナシへと告げた。
視界の隅にはしゃがみこんでいじけるキリエとヘルトルードが見えているのだろうが、完全に黙殺している。
「はぁ……」
とりあえず生返事を返すナナシ。
ナナシは混乱していた。
ナナシがここへと踏み込んだ時の悲壮感はどこへやら、今この場は、完全にお馴染みの笑いの殿堂、機動城砦サラトガへと戻っていた。
ミオやヘルトルードだけならば、百歩譲ってこのぐらいの悪ふざけはやりかねないとは思うが、キリエやアージュの性格からして、こんなに器用にとぼけることなど出来るわけがない。
「なにが起こってる……」
ワイワイと楽しげに笑いさざめく兵士達のただ中で、ナナシだけが、浮かない表情で俯いている。
「これじゃ……」
まるでミリアさんが、最初から存在し無かったみたいじゃないか。
そう呟きかけてナナシはハタと気付いた。
居なかったことにされている?
考えられるとすれば――忘却の魔法。
ナナシは身構えると、鋭い目つきで周囲を見回す。
兵士達一人ひとりの顔を覚えているわけではないが、特に怪しいと感じる様な者はいない。
どうやら今、この場でミリアのことを覚えているのはナナシ一人だけらしい。
理由は思いつかない。しかし、もしこれが忘却の魔法によるものならば、接触することも無くこれだけの人間に一斉に魔法をかけたということになる。果たしてそんなことが可能なのだろうか。
そう考え込むナナシの脳裏に、唐突にシュメルヴィのバストアップの映像が浮かんだ。
なぜバストアップだったのかは、皆まで言うな。ナナシも男の子なのだ。
むしろソコでしかシュメルヴィを認識していない可能性まである。
ともかく、魔法がらみということであるならば、シュメルヴィに応援を頼むのが最善。そう結論づけてナナシは行動を開始した。
グズグズしているうちに、ナナシまでミリアのことを忘れさせられる様なことがあっては、そこで全てが終わってしまうのだ。
ナナシはすかさず砂を裂くものに飛び乗ると、急加速で再び兵士達を追い立てる様にして、ホールを飛び出していく。
突然のことに誰もが呆気にとられる中、置き去りにされたヘルトルードが、ナナシを追いかけながら必死に声を上げる。
「あ、主はん、ウチ、ウチのこと忘れてる! 忘れもんやでぇ! おみやげー! おみやげー!」
自分の鼻先を指差しながら『おみやげー』を連呼するヘルトルードの挙動はさっぱり意味不明。
「おみやげて、なんやねん……」
思わずネーデルなまりでそうツッコみながら、ナナシはこれが異国生まれの人間とのコミュニケーションギャップなのだろうと深く考えないことにした。




