第110話 何処にも存在しない者 (後編)
サラトガ城二階のホール。
壇上に登ったミオは、そこに整列する将兵たちをぐるりと見回して思う、ずいぶん寂しくなったものだと。
首都へと出発する直前に、望む者にはサラトガを去る事を許した。
機動城砦ゲルギオス、機動城砦ローダとの戦闘でも死傷者を出し、今は臨時兵員として召集できる民間人達も全て難民キャンプへと収容されている。
つまりここに集まっている約200名ほどが、現在のサラトガが動員できる全戦力であった。
兵士達の先頭に居並ぶ幹部の中で、直接戦闘に参加できるのは、キリエ、アージュ、ペネル、ニーノの4人。あとは魔術師であるセファルと書記官のキルヒハイムの2人だけだ。
状況が未だに掴めていない兵士たちは、ミオが口を開くのを今か今かと待っている。
実際、直接言葉を交わしたキリエとは違い、兵士の大半はミオの放つ不穏な雰囲気には気付いておらず、単純に帰還の挨拶だろうと気楽な表情をみせている。
「皆のお陰で娼は生きて再び、ここへ戻って来れた。まずは礼を言う」
そしてミオの第一声も兵士達の事前の予想を裏切らないものであった。
しかし、ミオはそこで口ごもって俯いてしまった。
兵士達の多くは感極まってしまったのだろうと、微笑ましい目でそれを眺めていたが、最前列に居並ぶ幹部達は、ミオの尋常ならざる雰囲気に呑まれて、唇を硬く引き結んだ。
「娼から、お主ら全員に頼みがある」
ミオが顔を上げる。その口元は小さく震えている。ここから先を告げることを迷っている。幹部達の目にはそう映った。
「娼が無罪となる代わりに、娼の友が罪を被せられ、明日、処刑されることとなった。
其の者の身分は低い。賤しい者一人の命で、領主の重い命を贖うのだから感謝せよ。そう言われた。それが常識なのだと」
ミオの話にあった友人というのが愛する妹の事だと気付いた途端、キリエは目の前が暗くなった様な気がして、思わずその場に座り込んだ。
アージュが慌てて駆け寄ってくるが、それもなんだか遠くの出来事のように感じる。
心臓が激しく脈打っているのに、指先がやけに冷たい。とても寒い。吐き気がする。目が回る。思わず自分の身体を抱きかかえるようにして、キリエはミオを見上げた。
ミオは今にも泣きだしそうな顔でキリエを見つめた後、再び顔を上げ、兵士達に向けて言葉を紡ぎ始めた。
「しかし娼には、それが我慢ならない。
娼をこれまで支えてくれていた友の、その命が贖いとして貨幣の様に消費されることが我慢ならない。
何の罪もない我が友が陥れられ、汚名に塗れて死んでいく、それが我慢ならない。
そして、その友の犠牲の上に、のうのうと生きていけと言われる、それが我慢ならないのじゃ!」
ホールには重苦しい沈黙が充満し、肩で息をするミオを、誰もが息を呑んで見つめている。
「友の為などという偽善くさい事は言わぬ。世の不平等へ憤るなどという高尚な事も言わぬ。ただ娼は我慢ならない。
餓鬼臭い我儘かもしれぬ。そう言われてもかまわん、娼は我慢ならないのじゃ。
今、我が友がどこに囚われておるかは分からぬ。しかし、明日正午、あやつは公開にて処刑される。その時、娼は自ら刑場に乗り込み、友の救出に向かう」
キルヒハイムが「それは犬死ですな」といつもの抑揚の無い声で呟き、その声は咳き一つ聞こえない静寂の中、ホールの壁にぶつかって、実際よりも大きく響き渡った。
「娼は弱い。お主らの誰よりも弱い。何の力もない。だから、頼む。娼に力を貸してほしい。
これは命令ではない。従えぬというものはそれでも構わない。娼が突入することを事前に露見させるわけには行かぬゆえ、突入する直前まではこのサラトガから外に出す訳にはいかないが、そこから先は自由に逃げてもらってかまわない」
そして、ミオは身体を小刻みに震わせながら、深く頭を垂れた。
「頼む、助けてくれ」
静まり返るホール。
キリエは思った。
もちろん自分はミオに従う。しかし、これは領主にあるまじき、あまりにも身勝手な話。
自分が我慢ならないから死んでくれ、自分の友の為に命を投げ出してくれ。
普通であれば、正気の沙汰とも思えない青臭い戯言でしかない。
だが、ここに到るまでに、ミオはどれほどの逡巡を繰り返したことだろう。この小さな体で、この決意を語るためにどれだけ魂を削ったことだろう、と。
恐るおそる顔を上げるミオ。徐々に大きく見開かれる瞳。
ミオの目に映ったもの、それは真剣な面持ちで敬礼する兵士達の姿。
「我々はあなたにどこまでもついて行きます。ミオ様!」
跪くキリエの肩を抱きながら、アージュがそう叫び、幹部達が一斉に頷く。
次の瞬間、激しい音を立てて、ホール正面の扉が吹っ飛んだ。
「僕らも行きます!」
ホール全体に響くようにそう叫びながら砂を裂く者ごと、突っ込んできたのはナナシとヘルトルード。
二人は逃げ惑う兵士達の真ん中を走り抜け、演壇の前でドリフトする様な形で停止した。
「お主ら二人は、元々サラトガの人間ではない。義理立てすることはあるまい?」
「何を言うとん……」
ミオが壇上からそう問いかけると、ヘルトルードがミオに向かって言い返すべく口を開く。しかしナナシがそれを手で制して、ミオを真剣な面持ちで見つめ返す。
「あなたが友を救いたいのと同じように、僕だって友を救いたいんです」
ナナシのその言葉に、ミオの頬が思わず緩む。
しかし、ふっと微笑んだその瞬間、ミオの動きがピタリと不自然に止まった。
◇◆ ◇◆ ◇◆
ミリアの悔しげな視線を鼻で笑いながら、イーネは口を開く。
「お前はサラトガを救いたいんだにょ?」
「当たり前じゃないか」
イーネが何を言いたいのかわからず、ミリアは怪訝な顔をする。
「当たり前……。ふーん、当たり前にょぉ」
「なんだよ! 何が言いたいのさ」
「お前さえ捕まらなければ、サラトガは沈まずに済んだ筈なんだにょ。
そう、もし捕まらなければ、ミオが皇国に楯突かなきゃならない理由なんて無かったんだにょ。
今現在、絶賛、人様に迷惑を掛けている人間が偉そうに当たり前? まったくキリエのヤツもどういう教育をしてきたんだか」
「お姉ちゃんは関係ないじゃないか!」
「サラトガが沈んで、それでも生き残った人間がいれば、みんなこう思うだろうにょ、家政婦! お前のせいだ! と、にょ」
「それは……」
捕えた獲物をいたぶる猫のように、イーネはミリアを追いこんでいく。返す言葉もなく、ミリアは項垂れて小さく呻いた。
悔しそうに唇を噛みしめるミリア。
すると今度は、嘲弄するような芝居がかった調子で、イーネはミリアを憐れんで見せる。
「ああ、家政婦。そんなに震えて、なんて可哀相なんだにょ」
上げたり下げたり、忙しい奴だ。
頭上から降り注いでくる猫なで声に、ミリアは思わず舌打ちしたくなる。
「そこでにょ、天使の様なこのイーネさまが、サラトガに救いの手を差し伸べてやろうと思うんだにょ」
救いの手という言葉に、思わず顔を上げるミリア。
「簡単なことにょ、ミオがお前を救おうなんて考えなければ、サラトガは沈まないんだにょ」
「……どういう意味さ」
ミリアの声は弱々しい。ニヤリと口元を歪めながら、イーネはしゃがみ込んで、ミリアへと顔を突きつける。
「イーネはお前に一つ、呪いをかけることができるにょ」
「呪い?」
「そう呪い、お前にかかわった全ての人間から、お前の記憶をかき消す呪い。
これをかければ、お前という存在を知る者は誰も居なくなる。
死んだ後も、お前は誰にも思い出されることもない。
お前を助けに来るものは、誰も居ない。もちろん、ミオもだにょ。
誰にも顧みられないままに、お前はただ死んでいくんだにょ。
名もなき家政婦として、誰もお前がどんな罪を犯したのかもわからないままに命令書に従って、何でこいつ死刑になるんだろう? と、首を捻りながら、処刑役人はお前を処刑するんだにょ」
口元に三日月の様な嗤いを貼り付けて、イーネはミリアを見下ろし、ミリアは顔を蒼ざめさせて思わず呻く。
誰からも忘れ去られる?
口の中が乾く。息苦しい。確かに忘れ去られてしまえば、ミリアを助けようなどというものはいなくなる。すなわちサラトガは反逆者にはならない。しかし、それはあまりにも……。
「さあ、どうするにょ? イーネはさほど気の長い方ではないにょ」
詰め寄ってくるイーネ。思わずミリアは目を逸らす。じわりと目尻に涙が浮かび、それが零れ、頬を伝う。地面にポタリと一滴、それが小さな染みを作った時、ミリアの中で何かが決壊した。
「やだよう、おねえちゃああああああああん! やだよう!」
子供の様に泣き叫び、拘束された手足をバタつかせて暴れだしたのだ。
イーネは、一瞬驚いた様な表情を見せた後、羽虫でも眺める様な興味無さげな顔をして、小さく舌打ちをした。
そして数分後、イーネが「こいつもダメだったにょ」とため息交じりに呟き、踵を返して牢獄を去ろうとしたその時、ミリアは荒い息を吐き出しながら、涙に汚れた顔でイーネを睨み付けて言い放った。
「いいよ、悪魔。お前の策略に乗ってやる」
少し意外そうな表情を見せながら、イーネが振り返る。
「誰にも顧みられない死を望むんだにょ?」
「ああ……頼むよ」
その瞬間イーネが蕩ける様な表情をみせる。
顔を上気させ、自分の身体を抱きかかえる様にして小さく震えながら、快感に身を捩った。
「ああ、良い、良いにょ。家政婦、今、お前の魂は輝いているにょ、イーネは、イーネ達は、これが、これが見たかったんだにょ」
興奮気味にそう口走ると、イーネは右手を高く掲げて指を鳴らした。
パチン。
◇◆ ◇◆ ◇◆
「わかった、わかった!」
壇上のミオは、微笑ながらも煩わしげにナナシを手で追い払う様な仕草をした。
ナナシはホッと胸を撫で下ろす。
しかし、そこでミオは訝しげに首を傾げながら、ナナシへと問いかける。
「ところで、お主のいう友というのは誰のことじゃ?」




