第109話 何処にも存在しない者 (前編)
疾走する鈍色の流線型。
暗闇の砂上、市街地の明かりを右手に眺めながら、砂を裂く者が疾走している。
「主はん、もっとや! もっとスピード出えへんのかいな!」
「ヘルトルードさん、ちょっと黙っててください!」
ナナシの腰にしがみ付くヘルトルードが、彼女らしくも無い必死の形相で騒ぎ立てると、これまた、らしくも無くナナシが苛立たしげに怒鳴り返す。
二人は焦っていた。
これ程までに二人が慌てているのには、もちろん理由がある。
今から数分前のこと、マレーネとトリシアが満面の笑みを湛えて貴賓室へとやってきた。ペリクレス伯からの魔導通信を受けて、二人は裁判の結果をナナシに伝えに来たのだ。
「無罪」
「サラトガ伯が無罪となったみたいです。と仰られています」
わざわざ『勝訴』と書いた紙を掲げるマレーネ。
しかし、それについては敢えて気にしない様にしながら、ナナシはヘルトルードと顔を見合わせると、二人して大きく息を吐いた。
「よかったぁ……」
「ウ、ウチは大して心配してなかってんけどな。まあ、良かったんちゃうのん」
素直に良かったとは言わないヘルトルードに、思わず苦笑するナナシ。しかし、マレーネ達の話には続きがあった。
「身代わり」
「ここまで騒ぎも大きくなってしまうと、何のお咎めも無しでは民衆を納得させられませんけど、今回は家政婦を一人サラトガ伯の身代わりに処刑するだけで済みそうだとのことです」
「え?」
理解が追い付かず、ぽかんと口を開けるナナシ。その家政婦が行方知れずのミリアであることは間違いない。一瞬の間をおいて、ヘルトルードが激昂する。
「家政婦のアンタが、それを『だけで済みそう』なんて言うんか!」
ヘルトルードは激発する様に駆け寄って、トリシアの胸倉を捻りあげる。しかし、トリシアは驚いた様な表情を見せた後、ウンザリした様な様子でヘルトルードを見据えた。
「ヘルトルード様の御国ではどうか知りませんが、家政婦が領主の身代わりになれるなんて素晴らしいじゃありませんか、領主と家政婦に同じ価値があると認めてくださっているんですから。私は同じ家政婦として誇らしいと思いますけど?」
「死ぬことが誇らしい? そんなアホなことあるもんかいな!」
ヘルトルードは忌々しげにトリシアを突き飛ばすと、その勢いのままにナナシへと向き直る。
「主はん! このまま指咥えて見てるつもりやないやろな!」
「当然です!」
ナナシとヘルトルードは頷き合うと、呆気にとられるマレーネとトリシア、それとヘルトルードの折檻の末に床の上で尻だけを突き上げる様な体勢で気絶しているゴードンを残して、貴賓室を飛び出した。
◇◆ ◇◆ ◇◆
「ミオ様はまだ戻られぬのか!」
「隊長、落ち着いてください。隊長が浮き足立っていては、兵達に示しがつきません」
アージュが呆れ混じりにキリエを諌める。
先程から数分おきに同じやり取りを繰り返しているのだ、いくらアージュがキリエに心酔しているとは言っても流石に呆れもする。
ナナシ達が機動城砦ペリクレスを飛び出した当にその頃、サラトガ城の門前では、キリエが落ち着きなく数ザールの距離を行ったり来たりを繰り返していた。
つい二刻ほど前のこと。
この機動城砦サラトガを監視下に置いていた皇家の兵が、突然撤退しはじめたことで、キリエ達はミオが裁判で無罪を勝ち取ったことを悟った。
未だに正式な連絡は何もないが、状況から考えてまず間違いはないだろう。もしミオが裁判に敗れたのであれば、皇家の兵達がキリエ達を自由にさせる筈がない。 皇家の兵達の去り際の丁寧な様子は、ミオがサラトガ伯としての権威を回復したということに他ならなかった。
最後の兵がサラトガを出て城門を閉じるや否や、激発する様に兵士達は中央大通りへと走り出て、次々に歓声を上げる。流石に祝砲代わりに火球の魔法をぶっ放そうとした魔術師(巨乳)はアージュがぶちのめしていたが、兵士達のその行動をキリエは咎めはしなかった。
この兵士達の反応は当然なのだ。
誰もが皇家の兵達の監視下で息を潜め、不安に押しつぶされそうになりながら耐え忍んでいたのだ。キリエだって立場さえなければ、同じように騒ぎまくっていたに違いない。
そしてひとしきり騒いだ後、いつ戻るとも分からないミオを出迎えるべく、キリエを初めとするサラトガ兵たちは、中央の大通りの左右に整列して待ち受けているのだ。
中央大通りに数日ぶりに灯った精霊石の灯りを眺めながら、キリエは一人夢想する。
ミオが無罪になりさえすれば、全ては元通りだ。サラトガの修繕にはしばらくかかりそうだが、その間に出て行った将兵たちも戻ってくるだろう。今は静まり返っている城下の街も難民キャンプから領民が戻って来さえすれば、以前の活気を取り戻すことだろう。折角大きな区切りがついたのだ、城下に屋敷を構えて、愛する弟と妹と一緒に暮らすというのも悪くない。いや悪くないどころか最高ではないか。
妄想するキリエの脇をちょんちょんと突いて、アージュが耳元で囁く。
「隊長、ミオ様を乗せたと思しき馬車がサラトガに入ったみたいです。もうしばらくすると視認できます」
緩み切った顔を引き締めて、キリエは兵士達に告げる。
「よし、総員整列! もうすぐミオ様が戻られるぞ!」
途端に兵士達が慌ただしく列を整えて整列し、キリエ、アージュ、ニーノ、ペネル、セファルと言ったサラトガに残された幹部達はサラトガ城の門前でミオを待ち受ける。
「ママ! 来た!」
目の良いニーノが跳ねる様にしてアージュへとそう告げると、静まり返る無人の市街地、その通りの向こうから馬蹄の音が響き渡る。
「ミオ様! ばんざーい!」
馬車が通り過ぎるのに合わせて、兵士達が声をあげ、やがてその二頭立ての馬車はサラトガ城の門前に近づくと、ゆっくりと速度を落とし、キリエ達の前で停止した。
敬礼で迎えるキリエ達、幹部の眼の前で馬車の扉が開くと、まずキルヒハイムが降り立ち、その後ろからミオが姿を見せる。
「「「「ミオ様あああああああああ!」」」」
その瞬間、兵士達が歓声を上げ、拍手の音がサラトガの城壁に木霊する。
少し痩せられたようだ。
そう考えた瞬間、キリエの頬を思わず一筋の涙が伝った。
「ミオ様、よ、よくぞご無事で」
そのまま泣き崩れてしまいそうになるのを堪えながら、キリエはミオの足元へと跪き、顔を見上げる。
しかし、馬車から降り立ったミオの顔を見た途端、キリエは笑顔のまま硬直した。
ミオのその表情に浮かび上がっている感情は、一言で言えば苦悩。無罪を勝ち取った歓びなど欠片も存在してはいない。ただ、その瞳だけがぎらぎらと妖しい光を湛えている。
「ミ、ミオ様……」
何かしらの言葉を紡ぎ出そうとするキリエの言葉を制して、ミオは告げる。
「キリエ、主だった将兵をホールに集めよ。今すぐにじゃ」
「み、ミオ様、一体何が……」
あまりにも不穏な雰囲気に気圧されそうになりながらも、キリエはミオをじっと見つめる。しかし、ミオはキリエの視線を正面から受け止めることをせずに、目を伏せると、擦れる様な声で呟いた。
「すまぬ」
◇◆ ◇◆ ◇◆
ぴちょん、ぴちょん……。
どこかで滴り落ちる水滴の音を数えながら、ミリアは、中々過ぎようとしてくれない時間を耐えている。歓びは一瞬、苦痛はあまりにも長く感じる。お陰で人生というものの大半が苦痛に占めているかのように錯覚しそうになる。
冷たい石畳の感触を頬に感じながら、ミリアは身じろぎ一つせず、目を瞑っている。両手、両足を拘束されて、自由にならない身体。せめて口枷が無ければ、少しは気を休めることも出来るのだろうが、あまりの息苦しさに、先程からずっと小さく喘ぎ続けている。
今は何時ぐらいなのだろう。
ミリアがそう考えた瞬間、窓一つない牢獄の淀んだ空気。それが更に淀みを増した様な感覚を覚えて、目を開く。
「ハハッ、いい恰好だにょ。家政婦」
石畳に這いつくばるミリアの頭上から、幼い女の子の声がした。
「ううっ、ん、うう」
思わず声を出そうとするが、呻き声にしかならない。
なんとか仰向けに転がって、声の主へと目を向ける。そこにいたのは赤味がかった髪の幼女。甘ロリ風というのだろうか、いつも通りのフリル一杯のパフスリーブの白いドレスが暗闇の中に浮かび上がる。
これは予想外だね。君はボクのことを嫌っていると思ってたよ。
ミリアは胸の内でそう呟く。
「嫌いだにょ」
ミリアの心を読んだかのようにイーネが言う。しかしミリアは驚きはしない。二年前のサラトガ奪還の時点でミリアは、既にこの幼女が人ならざる者であることを知っている。それ以来、出来るだけ近づかない様にしてきたのだ。
そう、助けに来たとでも言われたら、どうしようかと思ったよ。
ミリアが心の中でそう応えた途端、イーネがパチンと指を鳴らす。
すると、ミリアの口内で口枷がボロボロと粉状に崩れ落ちた。
驚くミリア。
同時に大量の空気が喉の奥へと流れ込み、ミリアは激しく咳き込んだ。
「口枷の分はサービスだにょ。泣いて助けを請うなら、もうちょっと考えてやっても良いにょ」
「誰が!」
ミリアは、目尻に涙を浮かべて咳き込みながらも、首を振って擦れた声で言い放つ。
しかし、その返答にイーネは、何故か満足そうに嗤った。
「状況は想像がついてるにょ?」
ミリアはイーネを睨み付けながら、小さく頷く。
「ミオ様は助かったけれど、代わりにボクが処刑される。たぶんそういう状況なんだろう?」
「そう。じゃ、ここからの展開は予想できてるんだにょ?」
「残念ながら……ね。ミオちんはボクを奪還しようとするだろうね。このままじゃ間違いなく皇国に反旗を翻すことになる」
ミリアはそう言いながら眉間に皺を寄せる。『このままじゃ』という自分の言葉の響きに苛立ったのだ。
「そう、皇国の敵となって機動城砦サラトガは、今度こそ地上からその姿を消すことになるんだにょ」
弾んだ声でイーネが楽しげにそう囁くと、ミリアは思わず不快そうに顔を歪める。
「そんなのわからないじゃないか! うまく行けば、皇国を敵に回したところで、南部に向けて全力で走れば逃げ切れるかもしれないよ」
イーネは溜息を吐く。そして失望したとでも言いたげな瞳でミリアを見据える。
「家政婦、自分でも信じられていない事を口に出すものではないにょ」




