第107話 狂った世界
「審判を開始致します」
カルロン伯が重々しくそう宣言し、領主達はそれぞれに居住いを正す。
「投票箱を回しますので、サラトガ伯につきまして『有罪』と思われる方は赤の札、『無罪』だと思われる方は青の札をお投じください。それぞれが投じる札については、隠すも隠さないもそれぞれのご判断にお任せいたします」
カルロン伯が手を叩くとドアを少し開いて、二名の文官が腰を落としながらするりと室内に入ってくる。そしてそれぞれの領主の手元に赤と青、二枚の木札を配り始めた。
最後に文官の一人が、美しい細工が施された木製の箱をテーブルの上に置くと、カルロン伯は「それでは」と左右に断って、少しも迷うこと無く手元の札の一枚を手に取り、そこに投じた。――色は『赤』。
――有罪1 無罪0
「ではお先に」
続いてヴェルギリウス伯が口元を隠しながらそう言うと『赤い札』を手に取り、柔らかな手つきで、それを箱の上で手放した。
――有罪2 無罪0
投票開始と同時に続けて投じられた二枚の『赤い札』
ミオは胸の内で呟く。
この程度で動揺してはならない。大丈夫だ、この二人については予想どおり。何ら驚くことではない。そもそも娘を殺された当の本人にして最高権力者である皇王に逆らうメリットなど、この二人には何も有りはしないのだ。
続いて、ペリクレス伯の前へと箱が回ってくる。
見るからに緊張した面持ちのペリクレス伯はゴクリと喉を鳴らすと、両手で札を隠しながら票を投じた。
ミオは思わず鼻先で笑う。
ペリクレス伯が投じたのは『青の札』。隠していても明らかだ。
もし『赤の札』であったなら、風見鶏の異名を持つこの腰巾着は、むしろ堂々と皇王に向かって、「ご意向に沿っていますよ」とアピールしていたはずなのだ。
日和見主義のこの男にも、ナナシとの約束を守る程度には矜持というものが残っていたらしい。
――有罪2 無罪1
次に箱が回されたのはアスモダイモス伯の前。
アスモダイモス伯は、感慨深げに目を瞑った後、『赤の札』を指先でつまみあげると、それを裏から表からじっくりと眺めるふりをした後、最後はミオに見せつける様にして箱の中へと投じた。
――有罪3 無罪1
アスモダイモス伯の厭味ったらしい態度に、ミオの腹の中は煮え繰り返ってはいたが、顔色の一つも変えてしまったら負けの様な気がして、必死に表情を殺す。この時の表情の無いミオは、傍目には絶望の末に放心している様に見えたかもしれない。
アスモダイモス伯が次に箱を回したのは、彼にとっての仇敵、メルクリウス伯。
箱が手元に回ってくると、メルクリウス伯クルルは待ちかねた様に、勢いよく手元の札を掴むと、アスモダイモス伯に向かってそれを掲げる。
当然、その色は『青』。
ミオが有罪であろうが無かろうが、クルルにとってはどうでも良いのだ。アスモダイモス伯が『赤』に票を投じるならば、クルルは『青』に投じるのみである。
アスモダイモス伯がクルルの子供じみたその態度を鼻先で笑うと、彼女はこめかみに青筋を浮かびあがらせ、椅子を蹴って立ち上がろうとする。
慌てて隣に座るペリクレス伯がクルルの肩を掴み、何とか宥めすかして、再び腰を降ろさせると、彼女はむくれた表情のまま、手にした札を乱暴に放りこみ、隣りのストラスブル伯の前へと箱を滑らせた。
――有罪3 無罪2
ストラスブル伯ファナサードは、目の前に箱が回ってくると、きょとんとした表情を見せた後、背後のクリフトとコソコソと相談しはじめる。
ミオの耳にわりとハッキリと聞こえた「ナニコレ?」というフレーズについては考えない事にする。そしてファナサードは何度か頷くと、慎重に両手で隠しながら札を手にした。
ミオは肩を思わず震わせる。ツッコみたいのを我慢しているのだ。
……というか、なんでオマエ隠して入れた。赤に入れる気なのか?
そうで無くともうっかり『赤』を入れちゃったとか言い出しそうで怖い。
――有罪3 無罪3 たぶん。
箱が手元に回ってくるとローダ伯は、手元の札ではなく、まずミオへと目線を動かし、次に自分の正面にいるファナサードを見つめた後、迷いなく『赤い札』を手に取った。
……やはりそうなったか。
と、ミオは思わず肩を落とす。
ファナサードがこの法廷にいる事に気付いた時、ミオが一瞬絶望的な表情を浮かべたのは、こうなることに思い至ったからだ。
機動城砦サラトガと機動城砦ローダが停戦に到った際、ローダ伯とミオの間に、裁判において無罪へと票を投じる契約が結ばれた。
つまり契約に従うならば、ローダ伯が手に取る札は『青』でなくてはならない。
しかし、その契約条件はミオが監禁している(とローダ伯が思い込んでいた)ファナサードの解放。
そのファナサードが目の前に現れた今、ローダ伯を縛るものは何もないのだ。
最初にミオに目を向けたのは、一瞬『契約』を破棄するという行為について迷ったのかもしれない。しかし、皇家に仇なす者を臣下として糾弾しなくてはならないという彼の中の『正義』が、それを上回ったのだろう。
――有罪4 無罪3
ミオは小さく溜息を吐いた。
ミリアの計画通りであったなら、この時点では有罪3、無罪3の同率であったはずなのだ。順当に考えれば、ミリアが当日にならなければ動かせないと言っていたのは皇王その人の票だろう。普通に考えれば有り得ないことだが、洗脳か、催眠か、脅迫か、手段の程はわからないが皇王の票を『青』にすることを考えていたはずだ。そうすれば一票差でミオの無罪が確定するのだから。
ところが、死んだ筈のストラスブル伯ファナサードの登場によって、全てが狂ってしまった。
皇王が仮に『青』に票を投じたとしても同率。
既にミオに勝ちの目は無い。
では同率の場合にはどうなるか。
有罪は確定。但し減刑がつくことになる。
その減刑の度合は再び領主達によって話し合いの末に決定されるのだが、恐らく、サラトガの解体は免れるだろう。そしてミオの死刑は温情の名の元に、より苦しみの少ないものへと変わるだけだ。いや、上手く話が転がりさえすれば、終身刑で済むかもしれない。
ローダ伯が恭しく差出した箱を、皇王はじっと見つめている。特別法廷の中で、パンパンに膨れ上がった緊張感。皇王が目の前の二枚の札に目を落とす。ミオの目には皇王の指先は震えている様に見えた。皇王の額に脂汗が浮かんでいるのを見て、すぐ傍に坐するカルロン伯とヴェルギリウス伯は互いに顔を見合わせる。娘を殺された父親がその犯人を裁くのだ、迷うことなど何もないはずであった。しかし誰の目にも皇王は迷っている様に見えた。まるで国家の一大事でも決定するかのような深刻な表情を浮かべながら、震える指先で二つの札を交互になぞっているのだ。
重苦しい時間が過ぎて、皇王は長く息を吐き出すと意を決した様子で、札の一枚を手に取った。ミオは目を瞑る。今は亡き父の笑顔が頭を過ぎる。安楽椅子に腰かけた父、その膝の上から見上げる幼い自分。良く晴れた日の微睡の午後の風景。もうすぐ、再び父にまみえることができるのかもしれない。
箱の上へと皇王の手が動いたその瞬間、
「お待ちください!」
一人の人物から声が上がる。
特別法廷に満ちる硬質な空気を切り裂いて、凛とした女の声が響き渡った。
領主達が互いに顔を見合わせ、声をあげたのがここにいる誰でもないことを把握し終わった時、ローダ伯が「なんだあれは!」と声を上げる。
ローダ伯の指差すその先へと視線を向けると、この特別法廷の隅に不自然に大きな影が落ちていることに気付く。
目を凝らしてみれば、その影の中からジワジワと浮かび上がる様にして、人の姿が現れてくるのが見えた。
「ま、まさか」
ペリクレス伯が呻く様に呟く。
その人物が何者であるのかがわかった途端、誰もが我が眼を疑った。
「皇姫殿下……」
艶やかで真っ直ぐな黒髪の上、ティアラが精霊石の明りを反射する。
皇姫ファティマ。
死んだはずの人間。それが何も無いところから、湧き出る様にして現れたのだ。
「な、なあ、ストラスブル伯。皇姫殿下が此処にいるってことは、あの方も極限散歩ってのに参加してたのか?」
と、混乱したクルルが目を見開いたまま、思わずファナサードにそう尋ねたことを笑える人間がどれほどいるだろうか。
しかしファティマが死んでいないことを知っていた人間は登場の仕方に驚きこそすれ、冷静さを失うことは無かった。
「マーネめ、派手な登場をさせおって」
その一人であるミオが舌打ちした後、一人そう呟いたのを聞いて、ファティマはくすりと笑う。そして、つかつかとC型のテーブルの中央、ミオの傍へと歩み寄ってその肩を抱くと父、皇王に向かって口を開いた。
「皇王陛下に申しあげます! 私、ファティマはかすり傷の一つも無く、ここに生きております。ストラスブルを砲撃した者が何者かは、私にはわかりませんが、多くの誤解からこのように、サラトガ伯に汚名を被せてしまったことは、私の不徳の致すところでございます」
「誤解?」
「ええ、サラトガ伯は私の身を案じて、ここにいる小さな魔術師を護衛として付けてくれました。彼女が守ってくれたことで私は死を免れたのでございます」
ファティマの背後から、マーネがひょこりと顔を出し、エヘヘと笑いながら、鼻先を擦る。
「つまり、サラトガ伯は私の命の恩人であり、こんなところで断罪される謂れは、何一つございません!」
静寂の中、ファティマの声だけが特別法廷に響き渡った。
皇王と皇姫。見つめ合う父娘。皇王はファティマを顔色一つ変えずに見つめている。
「陛下は、驚かれないのですね」
「ああ、そなたが生きておることは、ベアトリスに聞いておったからな」
「ベアトリス?」
「安心せい。私が手にしておったのは『青い札』だ。たとえ同率であったとしてもどういう形であれ、サラトガ伯を死なせるつもりはない」
そう言うと皇王はやおらに立ち上がり、領主達に向かって言い放つ。
「我が娘はご覧の様に無事に生きておる。同率ではあるが、サラトガ伯は無罪ということで良いな」
呆気にとられる一同を他所に、皇王のその言葉を耳にしたミオはへなへなとその場に座り込んだ。
一度は死を覚悟したのだ。このおふざけの権化をしても、その小さな身体から力を奪うのに充分すぎる重圧であった。
ミオは振り返る。
酷い勝ち方もあったものだ。
裁判そのものは、はっきり言って完敗。チェックメイトがかけられた状態でテーブルそのものをひっくり返す様な、いわゆる反則でゲームそのものを無かったことにする。そんな勝ち方であった。
座り込むミオの肩に手をかけて、ファティマが微笑掛けてくる。それにミオが微笑返した瞬間、アスモダイモス伯が大きな声を上げた。
「陛下! お待ちください」
皇王はアスモダイモス伯を見やると、眉間に皺を寄せる
「無罪の裁定は覆らんぞ」
皇王が声を強張らせてそういうと、アスモダイモス伯は媚びるような笑いを浮かべた。
「もちろんでございます、陛下。ただ、私からサラトガ伯へ一言お詫びを申しあげたいのです」
予想外のアスモダイモス伯の言葉に、ミオは思わず硬直する。
詫び? 詫びじゃと? 一体何を企んでおる。
訝しげな視線を向けるミオへと、アスモダイモス伯は、にやりと笑った。
「誤解とはいえ、咎人と思っての無礼な発言の数々、サラトガ伯には誠に申し訳ないことを致しました。ここに衷心からお詫び申し上げます」
「ふむ」
皇王が小さく頷いた。しかし、アスモダイモス伯はそこから更に言葉を重ねる。
「しかし、どういう形であれ皇姫殿下が御幸なさられている機動城砦を撃ったということに変わりはございませぬ。ここでお咎めの一つもないとなれば、皇家の権威に傷が付き、以降の抑止が効かなくなることで皇家の安寧を揺るがしかねません」
それは事実であった。民衆にはすでにサラトガ伯がファティマを殺害したということが敷衍されてしまっている。それが実はサラトガ伯は無罪でした。誰にもお咎めありませんでしたでは、今後、皇家の権威を甘く見て、襲ってくる者も出てきかねない。
「ですので、皇家の安寧、そしてサラトガ伯の身を案じるのであれば、民衆を納得させねばなりません。そこで、私から提案がございます」
「申してみよ」
「実は、私共は実際にサラトガ伯を唆して、魔力砲を放たせた、黒幕とでも言うべき者がおることを掴んでおります」
「ほう」
「サラトガ伯付きの家政婦でミリア・アルサードと申す者ですが、この者、家政婦の分際で、政治にも口を挟み、サラトガ伯の後ろ盾を良いことに専横の限りを尽くしておると聞きおよんでおります。この度の騒動は偏にこの者の策略でございます」
アスモダイモス伯の発言にミオは顔色を失う。
「ま、待て、貴公、何を言っている!」
しかし、アスモダイモス伯はミオの方を見ることも無く、じっと皇王を見つめている。皇王のリアクションを待っているのだ。
「ふむ家政婦か。よし、かまわん。その家政婦の命を持って、罪を贖わせることを許す」
「お待ちください皇王陛下! ミリアには! その家政婦には何の罪もございません」
座り込んだままのミオは悲痛な声を上げる。
しかし、ミオの肩を抱いたまま、ファティマがその言葉を遮る様にして、優しく声を掛けた。
「ミオ、優しいミオ、可哀相なミオ。あなたが民草にも優しい子だというのは分かっています。でもね、ミオ。アスモダイモス伯が、折角厚意でこんな良いアイデアを出してくれているのですよ?」
「ファティ姉、な、何を言って……」
ミオの顔を覗きこむファティマの顔はいつもと変わらぬ優しい微笑を湛えている。
「たかが家政婦一人ではありませんか、領主たるあなたの命を救うためならば、これが百人でも足りないぐらいですわよ」
思わず目を見開くミオ。
「そうですな。幾らなんでも家政婦一人で終わりというのは安すぎるやも知れませんな。他に加担したような者がおればなお良いのですがなぁ」
カルロン伯が皇姫ファティマに媚びる様な表情で同意する。
ミオがぐるりとテーブル越しに自分を取り囲んでいる領主達を見回すと、顔面を蒼白にさせているファナサードを除けば、他の人間は、これでケリがついたとでも言う様な安堵の表情を浮かべていた。
常にアスモダイモスに賛同することを良しとしない、メルクリウス伯クルルでさえ、不機嫌そうな表情でありながら口元が緩んでいるのがわかった。
「ちょっと待て、お主らみんな狂ってる! 命の重さに違いがあるものか! もしそんなものがあるのなら、狂っているのは娼ではない。この世界の方だ!」
ミオのその慟哭にも似た叫びは、誰の心にも刺さらない。
皇王は不愉快そうに眉を顰め、アスモダイモス伯は楽しそうに唇を歪め、他の領主達が皇王の心遣いを踏みにじろうというミオの、その叫びに苛立ちを覚えた。
ここにいる領主達が狂っているわけでは無い。
誰かに操られている訳でも無い。
それは当然の感覚であった。
地位の高さはその人間の価値とは不可分。さもなければ皇王を中心とした社会制度が揺らぎかねないのだ。
領主一人の命を、いくらでも替えのきく家政婦一人の命で贖わせてやるというのだ。通常であれば、サラトガ伯は皇王の恩情の深さに地に額を擦り付けて感謝すべきところなのだ。
皇王は不愉快さを鎮めようとするように目を瞑り、静かな声で言った。
「可哀想にサラトガ伯は死の恐怖に晒されて、混乱しておるようだ。医務室に連れていって介抱してやれ、既に罪人ではない。領主として丁重に扱うが良い」
先程、札を配った文官二人が、歩み寄ってきてミオの両手を抱える。
ミオはその腕を払おうともがきながら、ファナサードへと顔を向けた。
「ファナ! 頼む! ミリアを助けてやってくれ! 今すぐ逃げろと伝えてやってくれ!」
ファナサードが頷いて、椅子から腰を上げようとしたところを、背後からクリフトがその肩を押さえる。
「お嬢様、なりませぬ。次はストラスブルを咎人へと陥れることになりますぞ」
クリフトの言葉にファナサードは下唇を噛みしめた。
「確かに逃げられては、厄介ですからな、早急にサラトガへと捕縛の兵を差し向けましょう」
カルロン伯が皇王にそう進言すると、アスモダイモス伯が小さく嗤い声を上げる。
「ご心配無く、カルロン伯、皇王陛下。件の家政婦は何を企んでおったのかはわかりませんが、昨日、我がアスモダイモスへと忍びこんで参ったところを既に捕えてございます」
「さすが、アスモダイモス伯どのですな!」
カルロン伯の感心する様な声を聞きながら、ミオは両腕を抱えられながら、扉へと向かって引き摺られていく。
そして扉が閉まる直前、ミオは見た。
皇王は憐れみに満ちた表情でミオの方を見ながら、こう告げたのだ。
「では、明日正午、その者を極刑に処せ。民への告示を忘れるな。全てその家政婦の策略であったことを広め、可哀想なサラトガ伯から汚名を雪いでやるのだ」
なんだ? なんだこれは? 自分に向けられた善意が、憐みが、寄ってたかって大切な友を殺そうとしている。娼はどうすれば良いのだ? 悪いのは誰だ? 娼なのか? 誰か! ミリアを助けてくれ、頼む……。誰か、助けて。
「やめてくれええぇぇぇぇぇぇ!」
激しい混乱の渦の中、ミオの絶叫が空しく白亜の廊下に響き渡った。




