第103話 キサラギを返せ!
「失敗したなぁ……急いで魂を食べちゃわないと」
軒先にぶら下がった状態から屋根の上へと這い上がりながら、キサラギは呟いた。軽口の様でありながら、その言葉には明らかに焦りの響きが混じっている。
肩口を切り裂かれた上にこの高さから落下しては、流石にナナシだって一溜りもないだろう。よくて瀕死。悪くすれば既に事切れている可能性だってある。
いくらゴーレムと言えど、天に召された後では、魂を引き摺り下ろして喰らうことなど出来はしない。咄嗟の反撃とはいえ、屋根からナナシを落としてしまったのは明らかに失敗だった。
屋根の上からナナシが落ちた方を見下ろす。そこは建物の間の細い路地。屋根の上から見下ろしても、薄暗くて下までは見通せない。
「全く、アンちゃんったら、いつまでもキサラギに世話ばっかり焼かせて」
ナナシが聞いたら流石に抗議の一つもしたくなる様な呟きを洩らしながら、キサラギは跳ねる様に、ここまで登って来たルートを逆に辿って地上へと降りていく。
ナナシが瀕死で動けない状態ならばベスト。意識を失っていようと生きてさえいれば喰える。
本来、年頃の女子ならば恥らう様な、ズシンという重量級の着地音を立てて、キサラギが地上に降り立つと、遠巻きに眺めている人々が恐れと好奇に塗れた視線をぶつけてくる。
中には、白い鎧を着た皇家の兵の姿も見えるが、遠巻きに見ているばかりで襲い掛かってくる様子はない。キサラギがそちらに向かって「邪魔しなければ殺さないから」と冗談めかせて片瞬きすると、兵士達は一様に息を呑んで硬直する。
いや、お前らビビりすぎだろう。そう心の中でツッコミをいれながら、クルリと踵を返すと、キサラギはナナシが落ちた路地の方へと歩きはじめた。
キサラギが向かう先、その進路にいる人々は悲鳴を上げながら逃げ惑い、何もしなくても勝手に道が拓けていく。放牧する羊を追い回している様な気分になって、あれ、なんだかこれ楽しいかもと、キサラギが上機嫌に嗤うと、人々は益々恐怖に慄いた。
ナナシの落ちた路地の入口あたりに辿り着くと、唐突にキサラギが表情を硬くして足を止める。キサラギの胸の奥にいる義妹の魂が、キサラギをナナシの方へと行かせまいと抵抗しはじめたのだ。しかし、それとて喰う側と喰われる側の関係。せいぜい、まな板の上で魚が跳ねる程度のものだ。義妹の魂をあっさりと押さえ込んでキサラギは「無駄、無駄」と呆れる様な表情を浮かべた。しかし、
「……いない」
路地にナナシの姿は無かった。
陽の当たらないせいで緑に苔むした石畳には、水溜りの様に大量の血の跡が残ってはいるが、そこにナナシの姿は無い。慌てて周りを見回すキサラギ。そして自らの失敗に気付いた。細い路地は蜘蛛の巣の様に建物の間を走り、そこに入り込まれれば見つけるのはあまりにも困難。
「くそっ!」
らしからぬ、苦渋に塗れた言葉を吐き捨てて、走りながら一本一本の路地を覗き込む。ここまで追い詰めたというのに逃げられては元も子も無い。
「見つけたッ!」
四本目の路地を覗き込んだ時にキサラギは思わず快哉の声を上げる。
暗い路地裏を力なく項垂れるナナシに肩を貸す様にして引き摺っていく少女の姿を見つけたのだ。
黒いフリルをふんだんにあしらった赤いドレスの少女。赤い髪を乱しながら、白い額に玉の汗を浮かべてナナシを引き摺って行く少女の姿を見た途端、キサラギの中で不快感が一気に跳ね上がった。
「さっきの女かッ!」
キサラギは、再び爪を伸ばして戦闘態勢を整えると少女の方へと向かって一気に駆けだした。
赤いドレスの少女は背後から聞こえてくる足音に気付くと、一瞬ギョッとしたような表情を浮かべた後、突き飛ばすようにしてナナシを自分の背後へと転がすと、路地の真ん中に立ち塞がって、大剣を抜き放った。
少女とキサラギの距離が10ザールを切る。その瞬間、少女は問答無用とばかりに聖句を唱えながら手にした真っ赤な大剣を振るった。
「火球! 爆裂! 火球!」
途端に大剣の先端から、次々に火球が飛び出した。その数三つ。
この女、闘い慣れている。キサラギはそう判断した。
咄嗟に放ったわりには射出速度の違う二つの魔法を織り交ぜて、避けにくくしてくるあたり、どうやら只者ではないらしい。
しかし、それとて今のキサラギの眼に宿る『全てを見通す眼』に掛かれば止まっているのも同然。しかもどの火球もナナシの剣技に比べれば段違いに遅い。
キサラギがあっさりとそれを躱すと、女は悔しげに口元を歪め、ムキになって更に次々と火球を放ってくる。
飛来する火球を悉く躱し、爪で弾き、一歩一歩女に向かって近づいていくキサラギ。次第に余裕を無くしていく女の表情に、加虐心を刺激されて、弾む様な声で話しかける。
「無駄無駄! 無駄だってもう分かったでしょ? 素直にアンちゃんを返してよ。そしたら、二度とアンちゃんに色目を使えない様に、顔に傷の一本も入れるぐらいで許してあげるからさぁ」
しかし、女は額を流れる汗を拭いながら、呆れた様な表情を浮かべて、剣を構えなおした。
「返すも何もコレはうちの男や。これから一緒に帰ってベッドの上でしっぽり愛を語り合う予定やねんから、余計な邪魔せんといてんか」
「なっ!?」
女の言葉にキサラギは硬直する。
「なんや、アンタみたいな不細工が、ウチの可愛い主はんに横恋慕したくなる気持ちは、まあ分からんでもないけどな。主はんにはウチっちゅう可愛い嫁がおるんや、毎晩朝まで可愛がってもろとるからな。さすがにアンタの相手をする余裕はあらへんやろなァ!」
「朝まで……」
「せや、こんな可愛い顔してるけど、激しいねんで」
キサラギが冷静であれば、気付いて当然の安い挑発。
しかし効果は覿面。言い様の無い負の感情が、キサラギの胸の奥を染め、目の奥が怒りの余りにチカチカと瞬く。
目の前のこの女をズタズタに切り裂いてやりたい。アンちゃんを騙して不貞を働くこの売女をぶち殺してやりたい。殺す、殺す、殺す、殺す、コロス、コロス……。
お、おい落ち着け。自分の中で呻く様に響いた声にキサラギは慌てた。その激しい感情はキサラギの本体、マリールーのものでは無かった、その胸の奥にいる義妹のものだ。
義妹の感情に引き摺られる様にして全身から怒りを立ち昇らせるキサラギ。溢れる殺意を乗せてその右手を振りかぶったその時、赤いドレスの女の背後から声が上がる。それは、そこに倒れている筈のナナシの物ではない。女の声。鼻にかかった甘える様な女の声であった。
「あはぁ、いいわよぉヘルちゃん。義妹ちゃんの居場所が、はっきり分かったわぁ」
思わず目を見開くキサラギ。赤いドレスの女の向こう側に力なく横たわっていたナナシの姿が掻き消えると、そこに妖艶な女の姿が現れた。
紫のローブを纏ったその姿は間違いなく魔術師。
罠! マズイマズイマズイマズイ、罠だ。これは罠だ。キサラギの頭の中で激しく警鐘が鳴り響く。剣や火球の様な直接攻撃の魔法ならば、幾らでも躱せるが、搦め手で来られてはたまらない。未だに少女に向かって牙を剥く義妹の魂を無理矢理押さえつけながら、キサラギは思考を巡らせる。
さっきの挑発は、胸の奥にいる義妹の魂の在処を特定するためなのだとすれば、特定さえ出来ればどうにか出来る手段を持っているということに他ならない。ここは一度退くべきだ。
そう撤退を決意して、キサラギがずるずると後ずさった時、右側に伸びる路地の奥、その暗がりの奥で何かが光った。キサラギがそちらへと視線を向けようとしたその瞬間、凄まじい横向きの衝撃がキサラギの身体を薙いで、激しい音を立てながら、路地側面の壁へとその体を叩きつけた。
「キサラギをかえせえええぇぇぇぇぇ!」
何事かと目を見開けば眼前には、鼻先が当たらんばかりの位置に必死の形相のナナシの顔。砂を裂く者にしがみついたナナシが突っ込んできたのだ。
「ナナシくん、そのままぁ、動きを封じてぇ!」
魔術師に言われるまでもなく、ナナシは必至の形相で、キサラギの両手首を掴みながら、ギリギリと歯を食いしばり、額に額を押し付ける。足元では砂を裂く者が軋む様な音を立てながら、推力を上げ、さらに強くキサラギを壁面へと押し付けてくる。
「くそおぉぉぉ!」
はしたない声を上げながらも、それでも冷静にナナシの状態を推し量って、どうにかなる。キサラギはそう確信していた。
元よりゴーレムの膂力は人間のそれとは比較にならない。唯でさえナナシは血塗れ、屋根から落ちて以降、何ら治療を受けた様子もなく、身体のあちこちから血を流したままだ。このまま押し返せば、そう長くは持ちこたえられない、そう判断したのだ。しかし、
「漆黒の峰、炎遼の峠、三千の峯、幾億の丘の向こうより来たりて、表は裏に裏は表に……」
魔術師の詠唱の声が聞こえて、キサラギは大いに慌てた。
聖句によって短縮されていない魔法ということは、これまであの魔術師が使ったことのない魔法だという事を示している。なんらかの特殊な魔法を使おうとしているのだ。
さらに激しく暴れ出すキサラギに、今にも弾き飛ばされそうになるナナシ。しかし、ナナシは獣の様な声を上げながら、必死にそれを押え付ける。
怪我人の癖にどこにこんな力があったのかとキサラギも内心舌を巻いたが、しかし、それも長くはない。次第に弱っていく力に、これがアンちゃんの限界ならばと、キサラギがあらためて力をこめたその瞬間、ナナシの背後からボソッと呟くような女の声が聞こえた。
「行け」
「行け! と仰られています」
刹那、背後から走ってきた二人の男がナナシを真ん中に挟む様にして、キサラギの両肩を押さえつけた。
「バガブットさん!? ザジさんまで!」
それは、消耗戦においてナナシが戦った二人の剣闘奴隷。巨人のバガブッドと鉄球のザジ。
「がはははは、小僧、死にそうじゃないか。かっこ悪いぞ」
「ホントはオマエなんか助けたくはなひんだはらな!」
ザジはなぜかツンデレっぽかった。
ナナシが振り向くとそこにはベールをすっぽりと被った小柄な少女とやたらに背の高い家政婦が立っているのが見えた。
「助けにきた」
「旦那様のことが心配で心配で、居ても経っても居られず、もう泣いちゃいそうなので助けに来てしまいました。と仰られています」
「そこまでは言ってない」
マレーネと代弁家政婦のトリシア。相変わらずの二人の様子にナナシの頬が緩む。
「離せ! はなせえええ!」
より状況が悪化したキサラギは、半狂乱になって喚き、一層激しく暴れた後、このままでは振りほどけないと悟ったのか、力なく項垂れるとナナシを見つめて弱々しく呟いた。
「アンちゃん、痛いよぉ、助けてよぉ」
ナナシを絆そうとしているだけだというのは、分かっている。しかし、探し求め続けた義妹の顔で悲しそうな顔をされると、理性とは係わりなくナナシの決意は力を失い、押え付ける力が弱まった。
甘い。アンちゃんはどうしようもなく甘い。キサラギが心の中でほくそ笑みながら、ナナシを押し返そうと力を込めたその瞬間、
「両界の反転!」
詠唱が完了した。




