第98話 更罪
ミリアは絶望の淵で泣き濡れていた。
ボズムスはミリアのことを『切り札』、確かにそう呼んだのだ。
その言葉の意味するところを、そしてこの後の展開を、頭の中で論理的に組み立ててみれば、彼らのしようとしている事は明白であった。
にもかかわらず、今のミリアに取れる手段は何一つ無い。
じめじめと暗い地下の牢獄。不快な湿度。一度意識を失ったせいで、今が昼なのか夜なのかそれすらも分からない。
冷たく湿った石畳のフロアが頬に冷たく、淀んだ空気が不快感を煽る。
ミリアは思う。
我ながら、何と惨めな姿だろう。
着ていたアスモダイモス兵の服は剥ぎ取られ、白い下着姿で手足を硬く縛られて芋虫の様に地面に転がっているのだ。
決して最善とは言えないまでも、状況を少しでも好転させる為には、ミリアは早々に自ら命を絶つべきなのだが、それすらも許されない。
舌を噛み切ろうにも棒状の口かせを咥えさせられて、息苦しさにみっともなく喘ぐばかり、声を出しても呻きにしかならず、口枷の間からはしきりに涎が垂れ落ちる。
年頃の娘としてはそれだけで死にたくなるぐらいの恥ずかしさだ。
だが、残念ながら恥ずかしさでは人は死ねなかった。
もぞもぞと身体を動かした瞬間、ミリアは顔を顰める。ついさっき、何とか足を延ばして、壁を二度蹴った踵が痛んだのだ。
「実は娼の機動城砦、あれはサラトガではない」
壁の向こうからミオの声が響いた。
隣の牢獄にはミオがいた。
最初はミオの声が聞こえた事に戸惑った。
そして、相変わらずのお節介っぷりに呆れた。
それから、自分がここにいる事をどうやってミオに伝えるかを考えた。
その果てに、自分がここにいることをミオが知ってもマイナスにしかならないという結論に至った。
こんなに近くにいるのに限りなく遠い。
そう思うと更に深い絶望感がミリアを襲って、止めども無く涙が溢れてくる。
ミオが言う、『サラトガでは無い』というのは何の比喩なのかはわからないが、ミオのあの話口調からすると、直ぐ隣りの牢獄にいるのがミリアだということには、これっぽっちも気がついていないだろう。
「ここ数百年の間に闘争の末に、あるいは砂洪水に巻き込まれて、数多の機動城砦が姿を消している。そして、6年ほど前にエラステネスが灰燼に帰して、残されておるのは現在の9つの機動城砦のみじゃ」
ミオの言う通り、この砂漠の下には数多くの機動城砦が沈んでいる。機動城砦の住人たちの骸がそれこそ何万と沈んでいるのだ。
「子供でも知っておる事じゃがの、機動城砦の名称というのは過去、神話の時代に於いて獣の群れを率いて人の世界を脅かした獣の王、それを打ち倒した76人の英雄たちの名から採られておる。ゲルギオス、メルクリウス、ペリクレス……。しかし、その英雄達の中に『サラトガ』なぞという名を持つものはおらん。まあ、76人全ての名を言える者もおらんじゃろうがな」
サラトガという名の英雄はいない。これはミリアもはじめて知った。というか気に留めた事が無かった。機動城砦の名称は当然、英雄たちの名から採られているはずで、わざわざ疑う様なことでは無かったのだ。
どうやら、『サラトガではない』というのは比喩ではなく、そのままの意味らしい。
「我が機動城砦の本来の名は、『アーヴァイン』。獣どもにさえ慈悲の心を説き、道半ばにして嘆きの川を渡った聖女の名を冠した機動城砦じゃ」
アーヴァイン……確か、敵である獣達をも救おうとして、逆に食い殺された人物だった筈。ミリアにもこの辺りは幼少の頃に絵本で呼んだ程度の知識しかない。
「機動城砦の改名は娼の祖父、先々代まで遡る。何があったのかは分らん。突然、改称し、若き日の先代皇王陛下もそれを受け入れたのだという。老人たちの中には当時の事を覚えておるものもおったが、それも老人たちが子供の頃の話じゃ、誰もその理由は知らなんだ」
確かに大きな出来事ではあるが、墓まで持って行けというほど大袈裟な話では無い様に思える。マダム達との井戸端会議の際に、知っていることを自慢できる程度ではないだろうか。
「得体の知れぬサラトガという名。それが何を示しておるのか、永らく娼も気にはなっておったのじゃが、先日、我が軍の筆頭魔術師(巨乳)が偶然その答えを見つけたのじゃ」
どうでも良い事だが、ミオは(巨乳)の部分は「かっこ、きょにゅう、かっことじる」と口に出して言った。わざわざ口に出すあたり、ミリアは少し怨念めいたものを感じて、そんな場合でもないのに思わず苦笑する。
「彼奴が、ストラスブルの図書館にてゴーレムの内に囚われた魂を救う方法を探している時に偶然開いた古文書にこう書いてあったそうじゃ。――獣の王は、禍々しき馬、終焉の砦、貪欲なる魔狼『更罪』に跨りて、大地を灰に変え、死を撒き散らしながら進軍する。とな」
ミリアは溜息を吐いた。
なるほど、それは墓まで持って行かなくてはならないわけだ。
人間の敵、その象徴的な名を冠するという事の意味は重い。
サラトガ伯に反逆の意志あり。そう受け取られても文句は言えないだろう。
ミリアは唯でさえ沈んだ心にあまりにも重いものを乗せられて、愚痴りたい気持ちで一杯になった。
◇ ◇ ◇ ◇
磨き上げられた白い壁が続く長い長い廊下を、老人が一人歩いて行く。
足取りは若者の様に矍鑠としたものではあったが、痩せ細ったその身体は厚手の豪奢なローブに埋もれて、重い荷物を背負わされている罪人の様に見えた。
千年宮の最奥から、供も連れずに歩いてきたこの老人。彼こそが、このエスカリス・ミーミルの統治者にして、神の地上における代理人、皇王パルミドル=ウマル=エスカリスであった。
彼が住まう巨大な宮殿千年宮には、三段階の区画がある。
一つ目は一般区画、機動城砦カルロンを中心とし、領民の出入りが許された所謂行政区画。二つ目が貴族や領主といった地位の高い者達のみが入ることができる高位区画。そして最後に彼と彼の家族が住まう神聖区画である。
今、彼は高位区画にある特別法廷へと向かっている。
それは貴族や領主といった地位の高い者が罪を犯した時に裁くための法廷。
しかし通常、既に年老いた彼がそこへ出向くことは無い。首都の領主であるカルロン伯が彼の代理を務めるのだ。
だが、今回は事情が違った。
彼の末娘であるファティマを殺害した者を裁く法廷。
彼は裁きを下す側の一人であるのと同時に、被害者の父なのだ。
娘を殺された父親。
そう聞けばその怒りはいかばかりかと、誰もが思うことだろう。
しかし今、この枯れ果てた老人の中にあるのは、深い悲しみだけだ。
人の親として、静かに娘の冥福を祈らせて欲しい。
その彼のささやかな願いを世間は決して許してはくれない。
彼の息子たち、娘たちは末の妹の死に激昂し、精霊石板越しに謁見を許されているカルロン伯は、気を回したつもりか老人の名で既に追討令を出したと宣う。
そして何より、臣民達は老人が『悪』に鉄槌を下すことを期待している。
為政者として罪を裁き、罰を与えなければならない。
父親のそして為政者としての復讐を待ち望まれているのだ。
老人は深く溜息をついて、肩を落とす。
建国以後、357年間、連綿とそんなことを繰り返してきたが為に、この国の皇王はこの白い牢獄の奥に引きこもらねばならないというのに。
長い長い廊下が尽きて、彼は重々しい扉の前に立つ。
ここで彼とその家族以外は一切入れぬ区画は終わりだ。このドアの向こうに広がるエントランスホールを抜ければ、そこからは高位区画。
考えてみれば、最後にこの扉の前に立ったのは19年も前のこと。
前回は末娘ファティマが生まれたときに、この扉の向こうのホールで、祝賀の為に集まった貴族達に手を振ったのだ。
次にここを訪れた理由がその生まれた子の死であったとは皮肉なものだと思う。
手を当てると軋むような音を立てて扉が開いていく。
扉のすぐ向こうには広いエントランスホールが広がっていて、そこには、白色の甲冑を纏った皇家直属の騎士達が、左右に拝跪して彼を待っている……はずであった。
しかし、扉を開けた彼の目に映ったのは、たった二人の人物。
広いエントランスホールの真ん中に、拝跪もせずに並んで立ち、こちらをじっと見つめている。
一人は、人が良さげな笑顔を浮かべた小太りの男。
もう一人は、フードを目深に被った黒いローブ姿のおそらく――男。
小太りの男が楽しそうに身体を揺らして笑いながら、口を開いた。
「ふおっふおっ、皇王陛下、お覚悟を」




