第97話 アンちゃんの浮気者!
金属が擦れるギリギリというイヤな音がする。
月並みな表現ではあるが、間一髪。
まさにそう言うタイミングで、キサラギが振り下ろした爪を阻んだのは鉛の板。高速移動を可能にする魔道具、砂を裂く者のボディであった。
クルルとキサラギの間にものすごい勢いで滑り込んで、逆立ちになるような体勢で砂を裂く者を蹴り上げ、爪の一撃を受け止めたナナシ。
キサラギの目はその間の出来事を余すところなく捉えてはいたが、視覚神経が捕捉してから、実際に行動に反映するまでのタイムラグをスキップすることは出来ない。
ゴードンの眼を手に入れてから、キサラギは既に何度もこのジレンマを感じている。受け止められるのが分かっていながらキサラギは爪を振り下ろさざるを得なかったのだ。
一方のクルルに至っては、ナナシが飛び込んでくることには全く気付いていなかった。腰の剣に手を掛けはしたが、その動きはキサラギにしてみれば余りにも緩慢。 恐るべきは、振り下ろされる爪を意にも解せず、キサラギを睨み続けたその胆力である。
「あは! やっぱり戻って来たんだアンちゃん。アタシ信じてたよ」
キサラギは自分の中にいる『キサラギ』が『嘘つけ!』とツッコむのを無視し、『ちくびだと思ったら、ちくわだったぞ』と意味不明な事を宣う『アホ』に心の中で毒づいて、自分の爪を受け止めているナナシへと、いかにも楽しそうに体重をかけていく。
ナナシは確かに爪の一撃を阻みはしたものの、キサラギはそのまま恐ろしい力で、ナナシを押し潰そうと力を込める。
歯を食いしばって必死に耐えてはいるが、人外の力の強さにナナシの肘が、膝が、次々に悲鳴を上げる。
こんな状態に陥ったのはそもそもナナシの計算違いが原因なのだ。断罪部隊の少女達からキサラギを引き離すために、ナナシは砂漠の方へと逃げるフリをした。
自分が逃げればキサラギは追ってくる。そう考えたのだが、意外にもキサラギはナナシをほったらかして、クルルの方へ向かって歩き出した。
慌てたナナシは、砂漠の方に隠してあった砂を裂く者を回収。クルルの方へと取って返したのだが、その時には既にキサラギがクルルに向かって爪を振り上げていたのだ。
「……ッ!」
ねじ伏せられる! 今のキサラギの力は尋常ではない。声に成らない声を上げ、ナナシは必死に足を突っ張って耐えているが、先に限界を迎えたのは砂を裂く者の方であった。
ギリギリと音を立ててキサラギの長く伸びた爪は砂を裂く者の鉛のボディへと食い込みはじめ、遂には爪の先がそれを貫通する。
下から仰ぎ見るナナシの目が砂を裂く者のボディに三本の爪が突き抜けるのを捉えたその瞬間、ナナシはハンドスプリングの要領で、腕で地面を跳ね上げると刺さったままの爪を捩じりあげる様に、キサラギの身体を押し倒した。
体勢を逆転させ砂を裂く者の上で立ち上がったナナシは、「キルヒハイムさん! くるくるさんを裁判に! 早くっ!」と必死に声を上げる。
「あ、ああ……」
放心した様な声でなんとかキルヒハイムが返事をすると、ナナシは腰を落として前傾姿勢をとり、鉛板に爪が刺さったままのキサラギを引き摺りながら、砂を裂く者を急発進させる。
埋め込まれた精霊石が光を放ち、砂を裂く者がゆるやかに動き始めると、徐々に速度を上げながら、常設橋の上を市街地の方へ向けて走り始めた。
「アンちゃん、痛い! 痛いって! 削れる! そんなに引き摺られた削れちゃうよぉ!」
キサラギが悲鳴にも似た声を上げるが、ナナシは振り返らない。そもそもこのキサラギの身体はゴーレムなのだ。痛覚なんて存在するかも怪しい。だが、どれだけ化物だと頭で言い聞かせても姿形はキサラギなのだ。見てしまえばつい手が緩む。
「た、助かりましたね……」
キルヒハイムがへなへなと座り込むと、キサラギを引き摺って市街地の方へと遠ざかっていくナナシの背を呆然と見送っていたクルルが、ハタと我に返る。
もしかして自分はあの化物に負けたのか?
まさか自分はあの地虫に情けを掛けられたのか?
目の前で起こったほんの数秒の事を反芻して、クルルはギリリと奥歯を鳴らす。
そして、自分の腰にしがみ付いたまま座り込んでいるキルヒハイムを乱暴に振りほどき、断罪部隊の少女達の方へと足早に歩きはじめた。
二体のサンドゴーレムの打撃音と飛び散る砂の音が、相変わらず轟音を響かせている。その世界の終わりの様な光景を背にして項垂れる惨めな敗残者、腰砕けに地面に座り込み、涙を流しながら石畳を呆然と見つめる弱者の群れ。
それが、今の断罪部隊の少女達であった。
彼女達は、少女の形をした化物がどこかへ行ってしまった事に、思わず安堵の息を洩らす。
喉元に突き付けられた死神の鎌から解放された今、すでに彼女達は立ち上がるだけの気力さえ失っていた。
しかし少女達のその安堵の表情は、すぐに恐怖の表情に取って代られる。
カツカツと響いてくる足音。その足音の方へと目を向け、少女達はただ怯えた。
裂けんばかりに眦を見開くクルルの怒りの形相に怯えたのだ。
「貴様ァ! よくも! よくも私の顔に泥を塗ってくれたな!」
クルルは震えあがる3番に歩み寄るといきなり、その頬を殴りつけた。
少女達の方へと吹っ飛ぶ3番。「ヒィ」と擦れた声を上げながら、後ずさりする少女達。
地面に倒れ伏した3番の頭をギリギリと踏みつけながらクルルは、周囲の少女を威嚇するように叫びをあげる。
「お前達が不甲斐無いせいで、私があんなガキに情けを掛けられてたんだぞ! あんな地虫のガキにだ!」
怯えきった表情でクルルを見上げる断罪部隊の少女達の姿に、クルルは更に苛立って、3番の顎を蹴り上げて放り出すと、獅子の様な咆哮をあげながら、後ずさる断罪部隊の少女達を追い回した。
「それでも貴様らは、戦士か! 女を捨て、名を捨てたにも関わらず、まだ命が惜しいというのか! あんなクズのようなガキが立ち向かっていったというのに! 貴様らは怯えて、震えるだけか! 何が断罪部隊だ! エスカリス・ミーミル最強だ! 恥を知れ貴様ら! 逃げるぐらいなら、死ね! 怯えるぐらいなら、死ね! 死んで、死んで、死んで、それでも戦え! 味方の血肉を喰らってでも戦え! 自らの身体を食んででも戦え! それが出来ぬというなら、今すぐ首を落としてやるから、私の前に出ろ!」
怯えた目で見つめてくる自分の部下達にクルルは決意する。
この惰弱な連中は死地に送り込まねばならない。鋼の様に叩き上げなければ使い物にならない。そのためには必要だ。地獄の様な、蛆虫の様な、汚物の様なそんなどうしようもない馬鹿げた、呆れる様な戦争が、大戦争が必要だ。
この国だけでは無く周辺国を巻き込む様な、地獄のような戦争が必要だ。
クルルはかつて妄想はしながらも、流石に実行に移すことはないだろうと思っていた計画に思い至る。
タガが外れるというのはこういう事なのだと思わず自嘲した。
「喜べ! 貴様らには、最低の死に場所を用意してやる!」
ひとしきり吼え終わると、肩で息をしながらクルルは地に倒れ伏したままの3番へと向き直る。
「おい! 3番。貴様に最後のチャンスを与えてやる。戻りたければ、どんな手を使ってでもこれから言う私の命令を実行に移せ!」
その後に続いた言葉に断罪部隊の少女達は言葉を失い、主の正気を疑った。
クルルは、断罪部隊の少女達に背を向け、及び腰で追ってきたキルヒハイムの方に向き直る。
「とっとと、裁判を終わらせるぞ。全部が終わったら、サラトガだろうがペリクレスだろうが、あの地虫に関わる物全部に攻撃を仕掛けてやる。燃やし尽くしてやる。私に恥をかかせたあの地虫だけは絶対に殺す。どうあっても殺す。私自身の手で八つ裂きにしてやる」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おっちゃん! 蜜柑水一杯ちょうだい」
「はいよ」
なんとか皇家の兵士達を撒いた紅蓮の剣姫ヘルトルードは喉の渇きを覚えて、大通りの屋台で蜜柑水を注文していた。
流石に首都の大通りともなると午後の人出も多く、賑やかに多くの屋台が立ち並んでいる。
蜜柑水片手にヘルトルードはつい浮かれた気分になって辺りを見回す。
「ほんま、ネーデルのカルナバルよりも賑わっとるなぁ」
思わず生まれ故郷の祭りと比較してみるが、規模が全く違う。比べ物にならない。
「さて、次は何を食べよかなぁ」
ヘルトルードは呑気に屋台を物色しはじめる。
もちろんミリアを探すことを忘れているわけでは無いのだが、見たことも無いような食べ物をあんなに並べられたら、それはもう無視なんてできるハズが無い。
「あのピンク色したお菓子かわええわぁ……あの串焼きも超うまそうやで。あかん、ここ天国やわ、たまらんわぁ」
目を輝かせて、次から次へと屋台を梯子していく内に、ヘルトルードは両手いっぱいに食べ物を抱えてホクホク顔。そんな彼女の目の前を若い男達が、機動城砦の停泊する港湾エリアの方へと走っていく。
「おい、聞いたか? 港の方でサンドゴーレムが二体暴れてるらしいぞ!」
「マジか! まだ見れんの?」
「急げよ! 終わっちまうぞ」
若い男達が走っていくのを目で追うと、確かにそっちの方へと向かって多くの人が走っていくのが見えた。おそらくやじ馬の群れなのだろう。
耳を澄ませば、ズーンズーンと断続的に地響きの様な音が遠くから聞こえてくる。これがそのサンドゴーレムとやらが戦っている音なのだとすれば相当に巨大な化物らしい。
「サンドゴーレムぅ? なんでそんなもんが」
ヘルトルードが首を傾げながら、串焼きに齧り付いたその瞬間、若い男たちが走っていった方向が俄かに騒がしくなる。
悲鳴や怒鳴り声が聞こえて、道の真ん中を開ける様に、人波が慌ただしく左右に割れる。
「すいません! どいてください! ごめんなさーい!」
どこかで聞いたような声が響き渡ると真っ二つに割れた人波の真ん中を、何かがヘルトルードの方へ向かってものすごい勢いで突っ込んでくる。
ヘルトルードの口元から串焼きがポロリと地面に落ちた。
それは砂を裂く者に乗っかったナナシ。
見覚えのない少女を、ズルズルと引き摺りながら、雑踏を切り裂いてこちらに向かって疾走してくるのだ。
「えええええええぇ! 主はん! アンタなにしとんねん!」
ひゅんという風切音を残して、ナナシはヘルトルードの直ぐ真横を通り過ぎる。
ヘルトルードは手に持った食べ物を投げ出すと、慌ててナナシの後を追って駆けだした。
猛スピードで駆け抜けていくナナシに、普通であれば徒歩のヘルトルードが追い付く事など出来るわけが無い。
しかし、ヘルトルードが見ているうちにナナシの乗った砂を裂く者は停止する。
T字路を曲がりきれずに、正面の果物屋の屋台へと突っ込んだのだ。
とびちるザボン、転がるスイカ、潰れるドリアン。
「あちゃー、大丈夫かいな……」
そう額を押さえて呟きながらヘルトルードが走り寄っていくと、屋台の残骸の前で店主と思われる親父が激昂しているのが見えた。
「おぉい! 何してくれんだ、コラァ!」
「ごめんなさい!」という声が聞こえた次の瞬間、ナナシが屋台の残骸の中から飛び出して、怒り狂う果物屋の親父から逃げる様に、身軽にも積み上げられた樽の上へと飛び乗ると壁を駆け上がり、手を伸ばして正面の屋敷の二階の窓についた庇をつかむ。そしてそのまま、逆あがりをする様に屋根の上へと飛び乗った。
「主はん! アンタなにしとんねえええん」
屋根の上のナナシに向かってヘルトルードが声を上げると、ナナシは少し驚いた様な顔をした後、「ヘルトルードさん、シュメルヴィさんを探してください!」と声を上げた。
「シュメルヴィはん?」
ナナシの意図がわからずにヘルトルードが首を傾げたその時、崩れ落ちた果物屋の屋台の残骸を押しのけて、ナナシに引き摺られていた少女が立ちあがる。
あれだけ派手に衝突したにも関わらず、少女は薄笑いを浮かべていた。
そして少女は、ちらりとヘルトルードの方を見ると、ナナシに向かって声を上げた。
「また別の女ぁ? アンちゃんの浮気者!」




