第四十一話「旅の始まり」
午前五時。
深夜というべきか早朝というべきか迷うこの時間帯に、私はひっそりと家を出た。
夜風が厳しかったけれど、空に雲がかかっておらず、星が輝いているのが見える。
家を出る際に姉の妨害があると予想していた私だったが、意外なことになにも起こらず抜け出せたことに若干不思議な気分になった。
昨日まであれだけ駄々をこね、両親をもドン引きさせた姉だったのに、一体どんな心境の変化があったのか、ちょっと気になる。
「っと、ちょっと急がないとかな」
姉のことばかり考えている場合ではない。ゆりちゃんや遥たちと駅で待ち合わせしているのだ。遅刻したら何を言われるか分かったもんじゃない。
そんなこんなで、修学旅行初日である。
空港の出発ロビーには既に多くの人が忙しなく動いていて、早朝だというのになんだか休日のショッピングモールのようだった。
「あそこで電車を間違えるとはね……」
額からかすかに流れる汗をぬぐいながら、えりさが言う。
私たちは何とか集合時間内に空港へと着くことが出来たのだが、電車の乗り換えの際、何を思ったのか都心の方へと向かう電車に乗ってしまい、危うく遅刻しそうになったのだ。落ち着いていれば間違えることなんてなかったが、ちょうど空港行きの電車が到着していて、慌てて飛び乗ったのがいけなかった。
「だからあの時次の電車を待てば良かったんだよ……」
私はその独り言のように呟かれた言葉に反応する。
まぁ、そのおかげで寒さはしのげた。冷や汗は止まらなかったが。
「だってみんなが急かすから。私だって駆け込み乗車みたいなことしたくなかったよ」
遥は汗こそかいていないが、遅刻するかもという不安でいっぱいだった胸をなでおろす。
「でも、面白かったね」
ゆりちゃん、ポジティブでもいいけれど、間に合わなかったら置き去りにされていたところなんだよ? そこは面白かったという感想じゃダメでしょ。
「まぁまぁ、間に合ったのだから、いいとしましょうよ」
さすがまとめ役である繭染さん。この場で誰の責任かを問う問答になる前に話題を逸らそうとしていた。でも、そんなことをしなくともだれの責任かなんて追及することはない。だってみんなそれぞれ悪い部分はあったし。
「では最終点呼をした後、順番に搭乗しますので、みなさん集まってくださーい」
よく通る、しかし周囲の人には迷惑にならない程度の声で、付き添いの教師が生徒を集める。
「飛行機、楽しみだね」
そうだねと返したかったが、ゆりちゃんのその言葉には同意しかねるので苦笑するにとどめた。
飛行機の旅が初めての人ばかりではないだろうが、それでも慣れている人は少なく、私たち修学旅行ご一行の座る座席付近は少しばかりの興奮状態で包まれていた。
遠目から見ると「あんな鉄の塊が、どうして空を飛ぶのか」と思い、いざ搭乗して座席に座った後も「これ本当に飛ぶのか?」と疑問を拭えなかった。しかし、助走が始まり、ついには窓から見える空の景色、朝日に照らされたビル群を見ると「はぁ、本当に飛んでる」というなんとも言えない感想ばかりが浮かび、純粋には空の旅を楽しめなかった。
「おお、すごい。あんなにおっきいビルがもう豆粒以下になってる」
私のそんな考えは知らないとばかりに、ゆりちゃんは窓とキスをするのかと思うくらい引っ付き、この旅を楽しんでいた。
「すごいね。空を飛んでるよ」
「ほんと、どうして飛んでるんだろうね……」
寒いのは嫌だ。国外はもってのほか。だから沖縄を選んだのだが、失敗かなと思わずにはいられなかった。私は飛行機に乗るのは初めてだったが、どうやら今後は積極的に避けるべきだと結論が出てしまった。
だってこれ、すごい怖い乗り物じゃない?
なんとか飛行機の旅を乗り越え、今朝ぶりの大地を懐かしんでいると、そこは既に私の見知らぬ土地だった。それはそうか。だってここは、沖縄なのだから。
沖縄事態は初めて来たが、なんだか予想通りに向こうより暖かい。
到着したのがお昼前であり、かつ朝食を満足に食べることが出来なかった私は、沖縄へと到着した感動よりも空腹を満たしたいという感情が勝ってしまった。食べ盛りでの朝食抜きは意外ときついのだ。
「それじゃあ各班に分かれてそれぞれのバスに乗ってください。これから昼食会場に向かいます」
何をするにもまずはエネルギー補給だ。それに、それが終われば宿泊するホテルに行ける。
少しばかりだけれど、ゆりちゃんとの二人きりが楽しめる。
「そういえばさ」
隣で大人しく先生の話を聞いていたゆりちゃんが、思い出したかのように私に言ってくる。
「部屋割りの時、妙にうきちゃんがごねてたよね」
そんなこともあったっけか。私はなんとなくだけれど、そのごねていた理由が分かるが、当のゆりちゃんにはその意味が理解できなかったようだ。
答えが出そうで出ない。宙づりの問題に私は頭を悩ませるが、今回は旅を楽しもう。
それに、無理に回答を出さなくとも、きっと答えは自然と導き出されるだろうから。
簡易的なテーブルとパイプ椅子で作られた簡単な昼食会場ではあったが、海沿に面した地元の食堂だったので、それはもう色とりどりの海の幸が振る舞われた。しかしいかんせん朝食を抜いてしまったので、美味しいは美味しいが、それでも量が物足りない。
「美味しかったけれど、どうも沖縄感が薄いよね」
昼食を綺麗に平らげて満足げな表情を浮かべる遥だったが、どうも求めていたものとは違ったらしく少しの愚痴を漏らした。
「まぁ、そういうのが食べたいのなら自由行動の時にって感じじゃない? せっかく二日もあるんだし」
そうなのだ。通常であれば自由行動が可能な日というものは、多くて一日程度だろう。しかし私たちが自由に行く場所を決められる日程が二日も設けられている。四泊五日の修学旅行で二日も自由行動なんて、あまりないだろう。
だからか、未だにどこに行くかを決められずにいる班が少なからずある。一日程度であれば、「あそこは諦めてこことここにしよう」ってなるのだが、二日も与えられるとその範囲は倍以上になる。好奇心旺盛、そして学校行事でもトップクラスの盛り上がりを見せる修学旅行では、行きたいところはたくさんあるはずだ。
ゆえに、私たちは一日目を早々に決めて、二日目は行き当たりばったりで行動という大胆な手を打つことにした。ほんと、どうかしてる気がする。特に遥が。
「じゃあ、二日目は食べ歩きかな。付き合ってもらうから覚悟しておいてね」
嫌だよ。食べ盛りの乙女とはいえ、そこまで食べられるわけじゃないし。一般的に見れば私は小食に分類されるし。
「大丈夫、私が勝手に食べるから」
あんたもそんなに食べる子じゃないでしょうが。
今日泊まるホテルは一流とはいかないまでも、それなりに大きく、またメインストリートから近いこともあって多くのビジネスマンが利用しているらしい。
「じゃあ、キーカード受け取ったら各自部屋で荷物の整理。集合時間になったらホテルのロビーに集まってください」
あくまで事務的に、私たちの付き添いというとこを意識して話す先生は、どこか面白かった。自分が浮かれては生徒に示しがつかないって顔してる。あの様子だと夜は酒宴でもやりそうな勢いだ。
「私鍵もらってくるね」
「うん」
荷物を私に預けてゆりちゃんは先生のもとに行ってしまった。
もうすぐゆりちゃんと二人きりと思うと、沖縄に着いた時の興奮よりもずっと高まってしまった。
気を引締めないと、集合時間に遅れてしまいそうだ。




