第二十五話「白い迷路」
時々視線から恐怖を感じる瞬間がある。
それは一瞬のときもあれば、一日中感じることも少なくない。
視線の主は分かるのだが、どうして私がその視線に恐怖を感じているのかが分からない。何も思い当たる節はないし、直接本人に訊くのもはばかれる。
そしてなにより、恐怖と同時に不安にもなる。
私は何かとても大事なことを見逃しているのではないだろうか。どこかで何かを間違えたのではないだろうか。彼女に対して不誠実を働いたのではないだろうか。と、そんな考えが頭から離れず、何をしても集中できないでいる。
しかし、それよりも何よりも今のこの状況にこそ、恐怖と不安を抱いたほうがいいのではないだろうか。
この前のお泊りではあまり絡んでこなかった姉だが、今回は少しばかり様子が違った。というのも、秘密兵器であるヒステリリアンが最近リビングの炬燵から決して離れようとしないのだ。姉は私のことが大好きな変態だが、それと同等かあるいはそれ以上に猫を愛しているのだ。よってヒステリリアンを構っている間だけは、私にちょっかいを出さない。そのヒステリリアンが二階に召還できない以上、姉の興味はこちらに向くはずだ。というかもう向いているし、被害が出ている。主に私の下着事情に。
「これはね、確か私が一年前に買ってあげたやつで、これが一ヶ月前に私が買ってあげた下着だね」
と、まぁ見事に綺麗に収納していたショーツ類が部屋一面に広げられ、一枚一枚丁寧にいつ購入したかや、どれくらい穿いているか。どれが一番穿いていて、どれはあまり穿いてないとか。私が知らないことを姉はどれだけ知ってるのだろうか。ヘタすれば日記とかつけてるレベル。
「あ、これこの前私と一緒にお買い物したときに選んであげたのだ」
「これね、結構気に入ってる下着だね。三日に一回か四日に一回は穿いてる」
そうか、私は無意識にゆりちゃんが選んでくれた下着を選んでいたのか。道理で最近調子がいいと思ったんだ。
「で、どうして姉さんがここにいるのでしょうかね?」
しかもゆりちゃんは熱があるのではなかったでしょうか。こちらと介抱の準備万端だったのに。
「だって、この前は私リリアンの相手をするのに忙しくて全然話せなかったし、それに比奈の恋人には前々から興味があったし」
姉は普段と変わらない朗らかな笑顔を浮かべているが、その内側は嫉妬心で塗れているだろう。そしてきっと今夜は二人きりになれない可能性が出てきた。まぁゆりちゃんは病人なのでやましいことはしない予定だったから構わないけれど。
「どうでもいいけれど、私おなかすいたからご飯作ってくるね」
私のショーツはもう誰に見られても恥ずかしくなくなってしまったので、鑑賞会のほうは無視をすることにした。
時計を見ると既に一時を過ぎていたので、私はちょっと遅めの昼食を作ろうと立ち上がると、ゆりちゃんもそれを見て立ち上がった。
「ゆりちゃんはゆっくりしてていいよ」
「ううん、私も何か手伝うよ」
「ゆりちゃんは体調悪いんだから休んでなさい。あと、お姉ちゃんの話し相手もしててほしいし」
薬を飲んで寝ていたので多少はよくなっているかもしれないが、しかし完全に治ったとは言い難い。ここはもうしばらく休んでてもらいたい。あと、ゆりちゃんがこっちを手伝いに来たら姉も付いてくるし、そうなるともう料理どころではない。
「そうだよそうだよ、お姉ちゃんゆりちゃんともっとお話したいよー」
姉は甘えるような声を出しながらゆりちゃんに抱きつく。恐らく嫉妬する私を見たいのだろうが、そうはいかない。もうこの程度のことで私の心が揺さぶられることはない。
ないのだが。
「あ、あの、私熱があるので……」
「大丈夫大丈夫、私あんまり体調とは崩さないし、今はそんなことよりもゆりちゃんといちゃいちゃしたいし」
心配だ。主にゆりちゃんの体調が。まぁ、病人に無茶させるほど姉も酷い人間ではないはずだ。多少うるさいけれど、そこは我慢してほしい。
「ささっ、比奈は早くご飯を作ってきておくれ。私はお腹がすいたのだよ」
ほんと、うるさいけれど。
人のいないリビングダイニングは冷たく、私はすぐにエアコンをつけた。キッチンには既に何かを作ったのか、お皿が何枚か流しに放置されていた。両親は綺麗好きなのでこういうのはいちいち片付けるはず。私もたまに放置するが、今朝の分は片付けたはず。ということは、もう一人しかいない。
「お姉ちゃん、お皿は使ったら洗って棚に戻しといてっていつも言ってるのに」
とは言えあの姉だ。まったく本当に私がいないとダメダメなんだから。
「さてはて、今日は何を作ろうかなっと」
私は冷蔵庫を開ける。中から漏れ出てくる冷気が頬をかすめ、身震いしてしまう。冷蔵庫の中は……ほとんどからっぽと言っていいほど何も残されていなかった。これは買出しに行かないといけないかな。
私はコートを取りに一旦部屋へ戻ろうと階段へ足をかけると、インターホンが鳴り響く。誰だろうと思いながら玄関を開けると、そこにはさなえと繭染さんがいた。さなえは分かるが、どうしてさなえと一緒に繭染さんがいるのだろうか。謎である。
「ひさしぶりー」
「さっきぶりー」
こいつらテンション似ているな。
「で、どうしてうちに来た?」
言外に帰れという雰囲気を出しつつ言い放つ。これ以上ゆりちゃんと私のいちゃラブお泊りデートを邪魔する人間はいてほしくない。
「うーん、比奈理のお姉さんに呼ばれて来たんだけれど」
何か聞いてない? とさなえは言うが、全然何も聞いていません。それよりも私はさなえと姉の関係が気になります。面識くらいはあると思うが、まさか連絡先も交換していたとは驚きですわ。
「まぁまぁ、ここまで来てあげたのですからあげてくれても良くなくて?」
繭染さんはキャラが不安定なのですが。あれかな、寒いから脳があまり機能していないのかな。
「……別に上がってもいいけれど、私これから昼食の買出し行くから、とりあえずさなえ付いてきて」
面倒なので数日分の買出しもしておこうと思い、さなえを荷物持ちとして連れて行くことにする。
「ええー、私もう寒いの嫌だよ」
「いいから付いてくる。あ、繭染さんはどうぞ上がって休んでて、部屋に姉とゆりちゃんいるからゆっくりは出来ないかもしれないけれど」
「……はい、ありがとうございまする」
私はさなえを玄関で待機させて、繭染さんだけを二階の自室に案内する。はっきりとは視認できなかったが、部屋に入る瞬間の繭染さんは何かを諦めたような表情だった。
彼女が一体何を諦めたのか、私には分からなかった。けれどきっと、またどこかで深く考えなくてはいけないのだろう。
先が思いやられる。
お昼にも関わらず完全装備でなければ出歩けないほど寒さが厳しく、私はマフラーを巻きなおす。後ろにはぶつぶつと文句を垂れ流すさなえが付いて来ていた。寒いのかさきほどからしきりに腕をさすっている。連れ出した私が言うのもなんだが、ちょっと可哀相。いやでもまぁさなえだし、どうでもいいか。
「ところで、さなえはどこで繭染さんと仲良くなったの?」
というか面識あっただろうか。
「この間アルバイト先に来てね、そのときに可愛かったのでつい声かけちゃった」
ああそうですか。
「比奈理と同じ制服着てたし、それにちょっと気になること話してたからさ、声かけずにはいられなかったんだよね」
ああそうですか。
「でもさー、あの子と私結構相性良くてね。なんかもうすごく気が合うの! 好きなことも好きなものも、好きな食べ物も、好きなものはほとんど一緒だったんだよ! これは人生の伴侶を見つけたと言っても過言ではないね!」
ああそうですか。
「はぁー、あんな子が恋人だったらきっと毎日楽しいだろうな。今の友達って関係もいいけれど、でもやっぱり恋人にしか見せない顔ってあるじゃない? そういう表情も見たいなって思うんだよね」
ああそうですか。
頭の回転が低速なので仕方なくさなえの話を聞き流していると、ようやく近所のスーパーに到着した。さて、今日は何を買おうかしら。と、なんとなく主婦目線になって買い物カゴを手に取る。スーパーの入り口に入ったとき、何かを思い出したようにさなえが声をかけてくる。
「そうそう。雨喜はね、ゆりちゃんの昔の恋人かもしれないよ」
振り向いた私の顔はどんなだっただろうか。そしてこの内から溢れる感情、嫉妬心でなく、焦燥感でもなくて、言うなればこれは危機感。
どうやら冬という季節は私たちを許してはくれないらしい。
私は今年も白い迷路に迷い込む予感がする。いやきっともう入り口に立ってしまった。
出口のない、迷路の入り口に。




