第二十四話「どうしようもない冬の景色」
全校生徒が集まると、広い講堂もこんなに暖かくなるのかと、一人場違いなことを思う。
今日は終業式だけなので、午前で学校が終わる。午後の予定は今のところないが、きっと恐らく多分ゆりちゃんとどこかに行くんだと思う。
そんなゆりちゃんには、今日まだ会っていない。
会ってないのか、会うのを避けているのか。
あの時から私たちの仲は前以上に親密になった。けれどどうしたって冬という季節は私たちの内に残る傷が疼いてしまう。忘れられれば悩まずに済むのだろうが、きっと忘れてしまったら大事なものまで失うことになるのだろう。だから私たちは、それをいつまでも大切に抱えて生きていかないといけないのだ。
自分を傷つけるだけの思い出だとしても、それは愛おしい記憶なのだ。
「比奈理ー、こっちこっち」
一人物思いに耽っていた私は名前を呼ばれて振り返ると、なんだかいつもより元気のない遥とえりさが立っていた。中途半端に暖かいせいでみんなマフラーは取っていてもコートは脱いでいないようだ。
「はじめるならさっさとはじめてほしいよねー、もうこの蒸し暑い空間から一刻も早く出たいわ」
うんざりしたような表情で遥は言うが、正反対にえりさはきっちりしていた。
「まぁこの蒸し暑さは勘弁してほしいですが、集会がはじまらないのは一部遅れているクラスがあるからよ。文句はそこの担任に言いなさい」
「はー、どうせうちの学年の五組あたりだろ。あとあの一年のクラス、担任と生徒の距離が近いのはいいけどこういう時はしっかりしてほしいわ」
珍しく正論を言う遥に驚いていると、後ろから袖を引っ張られる。そんなことを天然でする子を、私は一人しか知らない。
「ねぇ比奈ちゃん」
今にも消え入りそうな声が、背中からかけられる。私は薄く笑みを浮かべて後ろを見ると、どこか熱っぽい表情のゆりちゃんがいた。この場の熱気にやられたのか、恥ずかしくてただ赤くなっているのか、まぁ恐らく前者だろう。
「どうしたの、ゆりちゃん」
「私、なんだか全身熱いです」
「……保健室行こうか」
私の勘はどちらもはずれ、ゆりちゃんは本当の熱でうなされていたらしい。
いやはや、私の感覚も講堂の熱と恋の熱でおかしくなっているようだ。
担任に事情を説明してからゆりちゃんを引き連れて保健室へと来ていた。
保健室には先生の他になぜか繭染さんがいた。
「ほら、私保健委員ですし」
とは言っていたけれど、クラスの保健委員は別にいるので、きっと彼女も体調が悪いのだろう。
「こっちのベッド使わせてもらいますね」
私は先生に一言断ってからゆりちゃんをベッドへと寝かせる。体温計で測ったところだいぶ熱があるようだ。どうしてこんな状態で学校まで来たのだろう。まさか今年最後だからって無理して来たのか。真面目なゆりちゃんだからありえるが、しかし私に会いにきたという理由もありえなくはない。むしろその方が嬉しい。
「比奈ちゃん」
目を閉じながら私を探すゆりちゃん。いやぁ、うちの子はどんな状態でも可愛いなぁ。私はゆっくりとその頭を撫でてあげると、苦しそうな表情が笑顔になる。
「そんなにそばにいたらうつっちゃうよ」
「うつしていいよ。むしろゆりちゃんのならうつされたい」
なにそれ。とひとしきり笑った後、ゆりちゃんはそのまま眠ってしまった。少しだけ乱れた寝息が聞こえてきたが、どうやら心配はいらないみたいだ。
繭染さんといえば、仲良くなって結構経つが未だに彼女のことをあまりよく知らない。普段はどこか能天気な一面を見せているが、たまに憂い顔でどこか遠いところを見ている。その表情はなぜか私の心をざわつかせ、不安にさせる。
「繭染、雨喜か……」
どこかで、聞いたような、聞いてないような。懐かしいような、懐かしくないような。
「呼んだ呼んだー?」
仕切っていたカーテンを勢いよく開け入ってきたのは、当の繭染さんだった。病人が寝ているのだからもうちょっと声のトーン落とそうか。
「……呼んでないよ」
呼んだと言うか、正確に表すなら名前を言ってみただけという感じかな。というか近いし、可愛いし。いや別にゆりちゃんのほうがもっと可愛いけれど、繭染さんもなかなか可愛いので、私的には喜ばしいことですけど、しかし私にはゆりちゃんがいるし、これは浮気になるのだろうか。うんきっとゆりちゃんが起きてたら嫉妬心で繭染さんに突っかかること間違いなしなので、一応これは浮気ということにしておこう。ごめんねゆりちゃん、私ちょっと心揺れちゃった。今度いっぱい愛してあげるから許してね。
「しっかし、いつ見ても可愛い彼女さんですよねー」
ちょっと恥ずかしいからそんなにストレートに言わないでよ。と思ったけれど、しかし事実なので私は神妙に頷く。
「いやはや、この艶々な髪。羨ましいですな」
と、ゆりちゃんの髪に手を伸ばす繭染さんの腕を私は掴む。ゆりちゃんの髪に触れていいのはゆりちゃんの両親と私だけなのだ。
「なに、彼女のいる前で私を口説こうとしているのかな?」
「残念ながらそうじゃない。誰の許可を得てゆりちゃんの髪に触れようとしていたのかな」
ついつい強い口調になってしまったが、けれどこれは私にとって譲れない一線なのだ。ゆりちゃんが自分から進んで差し出さない限りは、その神聖な髪には触れてはいけないのだ。
「え、誰って言われても……」
繭染さんは戸惑った表情をみせるが、それでもなにか思いついたらしく、嫌味な笑顔を私に向けてくる。
「そうか、今私が彼女さんの髪を撫でて、自分が撫でたときよりも気持ちよさそうにしたら恋人失格ですものね」
「あん?」
今度は意識して強い口調にしてみたけれど、あんまり慣れないから次からは普通に話そう。
「違うんですか?」
普段であればこんな挑発には乗らないのだが、今日はなんだかおかしな気分だったので乗ってあげることにする。まぁたまにはこの子とも遊んであげないとね。
「それじゃ、撫でてみな。ゆりちゃんは繭染さん程度の撫で方ではきっと満足しないから」
私は自信満々に自らの席を差し出す。大丈夫、ゆりちゃんは髪の撫で方にうるさいので雑だったりするとすぐ不機嫌になる。今は体調が悪いので少しばかり申し訳ないと思うが、しかしこれは私とゆりちゃんの愛の深さを繭染さんに思い知らせるために必要な行為なのだ。後でちゃんと埋め合わせはするので今だけは勘弁してねゆりちゃん。
「じゃあ、いきますよ」
繭染さんは私が明け渡した席に座ると、そっとゆりちゃんの髪に触れる。繊細なものを扱うように丁寧にかつ愛しそうに撫でるその手は、私を震撼させた。
「どうですかね。気持ちいいんですかね」
ゆりちゃんの髪を撫でつつ私を見る繭染さん。くそ、ゆりちゃんがこの表情のときは満足しているときの表情だ。悔しいがゆりちゃんは繭染さんの撫で方を気に入ってしまったようだ。
私が不満げな顔でいると繭染さんは何かを察したのか髪を撫でるのをやめる。
「これで私の実力は分かってもらえたでしょう。では失礼」
余裕の笑みを浮かべて来たときと同じように仕切りのカーテンを勢いよく閉めて去って行った繭染さん。
「……結局何がしたかったんだ、あの子は」
やっぱりあの子はよく分からん。
暖房の効いた保健室は暖かく、私は不覚にも眠ってしまったらしい。
私が起きると既にゆりちゃんは起きていて、窓の外も薄暗くなっていた。少し寝すぎたかも知れない。
「んふふ、比奈ちゃんの寝顔、すっごく可愛かったよ」
「……ゆりちゃんの寝顔には敵わないよ」
正直、寝顔なんてほとんど誰にも見られたことないのではないだろうか。姉は恐らく確実にあるだろうが、あれは勝手に人の部屋に入ってくるような常識の通じない人なので、今回はカウントしないことにしても、恐らく部屋を与えられてからは両親にも見られたことはないと思う。
そう思うと、ゆりちゃんに見られたことはすごく嬉しい。自分の知らない表情を見てくれたのが、ゆりちゃんでよかった。
「あ、ゆりちゃん大丈夫? ちゃんと家まで帰れる?」
そう言えばゆりちゃんは熱があるんだった。
「大丈夫だよ。でも、これで今日の計画も崩れちゃったな」
「計画?」
どうやらこれは私の読み通りだったようで、ゆりちゃんは何か計画していたようだ。
「うん、明日からお休みだから、比奈ちゃんのお家にお泊りに行こうかなって思って」
「よし、私が付きっきりで看病してあげる。今すぐ私の家に移動しよう」
私はゆりちゃんを優しく抱き上げる。はじめはふらついていたゆりちゃんだが、途中から私に抱きつくのが目的になっているような気がした。熱を帯びたゆりちゃんの身体はどうしてか私を安心させた。普通ならば心配するところなのに、私はゆりちゃんにまだ体温があるということを確認して、安心してしまった。
自分の心の芯が、冷たくなっていく感覚に陥る。
私は仕切りカーテンを開く直前で止まってしまった。
「……ゆりちゃん?」
いつまでもカーテンを開かない私を不安そうに見るゆりちゃん。その眼鏡の奥の瞳が、私の心を見透かしているようで、怖かった。
「ううん、なんでもない」
私はその恐怖と不安を押し隠すように、努めて明るく返事をする。
私は今日から毎日思い出してしまうだろう。
どうにもならない過去の後悔と。
どうしようもない、あの冬の景色を。
だからこそ、今あるこの暖かい時間を大切にしよう。
もう二度と、悔いることのないように。




