閑話七「私を愛せるように」
もしもこれが現実であるならば、神様はいったいどれほど苦しい試練を私たちに与えるのだろうか。
どうしてこれが現実であると、私は認めなくてはいけないのだろうか。こんなはずじゃなかったのに、こんなことにならないために生きてきたのに。
「どう? 落ち着いた?」
心配そうに私を見る知り合いの看護婦。
「……はい」
私はそれだけ言うと、窓の外を眺める。相変わらずここからの景色は綺麗だった。夕焼けが海を染めて、空には濃紺が広がっている。普段は反対のその色は、まるで世界が逆転したかのようだった。
とある病院の待合室、海が見えるその場所で私は悲しみに暮れていた。
「酷なことを言うようだけれど、あれが精一杯だった」
「分かっています。私たちが無理矢理外出許可を貰ったんです。その上これ以上良くしてくれなんて、そんな都合のいいことは言いません。けれど、どうしてなんでしょうね」
どうして私たちは失うばかりで、得たものさえ溶けて消えてなくなっていくのだろうか。
「私たちがこの手で救えるものには限りがある。自分ひとりしか救えないものもいれば、私たちのように多くの人たちを救える人もいる。でもね、なにもかもを救えるわけじゃないの。そう、あなたの妹さんは、こう言ったら怒られるかもしれないけれど、自分を救う気がなかったように見える。自らを救う気が無い人を救うのはとても難しいことなの。だから、私たちが最善を尽くした状態が、今の状態よ。後は彼女自身の問題。だからもう私たちにはどうしようもない」
彼女自身の問題。ならばきっと彼女は眠りから覚めることは無いだろう。彼女にとってこの世界は幸福ではないから。誰だって辛いことからは逃れたい。その先に幸せも喜びも、何もない空の器なのだから。満たすものの無い器のために、自らの命を、精神を、感情を削ることは無駄以外の何物でもない。
「彼女の幸福が死ぬことなのだとしたら、私たちはその邪魔をしてしまったのかもしれないわね。でも、私たちに救わないという選択肢は無いに等しいの。どんな理由であれ、いかなる者であれ、私たちはその散りゆく命を守らなければいけない」
世界は残酷だ。だからこそ彼女が眠りにつくことを許さない。とことんまで苦しめ、壊れるまで壊し続けて弄んで痛めつけて、その上で一縷の望みを与えて、生きたいと思わせてから殺す。どうしたって彼女が負の連鎖から逃れる方法は与えられていない。誰かが幸福になるためだけの人柱であり、生贄だ。
けれど、だとしても。
「私の個人的な願望を述べるのであれば、あの子はまだこの世界で生きるべきだった。ずっとずっと辛かっただろうけれど、苦しくて悲しくて良いことなんてひとつも無かったかもしれない。けれど、だからってこの先も不幸だって、どうして決め付けてしまうのだろう。まだ、何も決まっていないのに」
彼女はそういう世界で、こういう在り方だと理解したうえで生きていた。人が想像しうる限りの不幸を受けてもなお彼女は生きることを諦めなかった。きっとどこかで自分は救われると信じていたのだろう。彼女がはじめて愛した少女が、すべての原動力だったのだろう。しかし報われることはなかった。彼女は彼女で自分の愛を信じきることができず、相手も自らの愛を疑問に感じていたようだった。
だから、あんなことが起きてしまった。
互いが互いを信じれていれば、回避できた悲劇だったのに。互いが持ちうる愛の形が歪で穢れていたから、それを無条件に自分を愛してくれる相手に与えることを、互いが良しとしなかった。どれだけ歪だろうが、どんなに穢れていようが、それはとても綺麗で、尊ぶべきものなのに。
「絶望するには早すぎたかもしれない。けれどあれだけのことをされて、あれほど心を捻じ曲げられ、削り絞られても生きていたことは、私もすごいと思うわ」
「私たちの家族があの子を引き取ったときには、身体もそうですが、何よりも精神が崩壊しそうなほど不安定だったことは覚えてるわ。それほど残虐で冷徹な仕打ちを受けたと思うと、それだけで私は苦しかった。実際に仕打ちを受けていない私があの子の姿を見ただけで辛かったのだから、あの子はきっとその何倍も何十倍も辛かったのは想像に難くない」
一番衝撃を受けたのは、その内臓のほとんどが機能していないことだった。まだ小さかった彼女がどれほどの残忍な行為を受けてきたのか、当時の私にはあまり想像できなかった。しかし、私のように恵まれた環境で何不自由なく生きているのと違って、彼女はこの世のすべてに愛されずに育った。そういう世界も存在することが、私にとって許しがたくて、そういうものを見ようとせずにぬくぬくと育った私自身にも怒りが込み上げてきた。何より今でも許せないのが、そういう生き方を許容していた彼女自身だろう。
どれだけ酷いことをされても拒絶せず、それこそが正常だと信じて疑わなかった彼女のことを、私はどうしても許すことができなかった。
「……もうすぐ冬がきますね」
冬という季節は私たちにとって特別な季節だ。彼女が生まれた季節であり、彼女と私が出会った季節であり、彼女の運命が決定した季節である。
そして今日、彼女がこの世からいなくなってしまう。
「…………そろそろ暗くなってくるから、今日はもう帰りなさい」
窓の外は寒々しい藍色に染まっていた。夕日はとっくに水平線に飲み込まれ、空には丸い月が浮かんでいる。
「ねぇ、私はこれからどうしたらいいと思う? 今までずっと彼女だけを幸せにするために生きてきた私はこれから誰のために生きていけばいいの?」
私は今路頭に迷っている状態だ。真っ暗闇の中、どこに向かえばいいか分からなくなってしまい、立ち尽くすしかできないでいる。
生かすために生きていた私は、生かす他人がいなければ生きていけない。
「誰かに生きる理由を求めてはだめよ。そんな生き方をしていたら、最も重要な選択を迫られたとき、本当に自分のための選択ができないわ。だから、あなたはあなたのために生きる努力をしなさい。あなたを生かすことができるのは、あなただけなのだから」
自分が死なないように、自分を生かし続けるの。と続けた看護師は、これで話は終りとばかりに席を立って自らの仕事へと戻っていく。
「明日も、来ます」
私はそれだけ言うと、身支度をして病院を後にする。
「うん。待ってるわ」
背中に受けたその言葉は、とても暖かかった。
私は私を生かすために生きる。
とてもじゃないが、そんな風には思えない。
けれど。
彼女の代わりに、彼女ができなかったことを、私がしていこうと。そう思うことで、私は彼女を救い、また忘れずに日々を過ごすことができるのだと思う。
理由を誰かに求めることが悪いことだと、私はどうしても思えないから。
きっと私は誰かに何かを求めて生きていくだろう。
でも、それが他人ではなくて、彼女に、空音というたった一人の少女に、理由を求め続けて。
「でも、もしもあなたがもう一度この世界で、私と共に生きてくれるのなら、今度こそ私は私のために生きて、空音を愛しぬくよ」
だから、いつかあなたが目覚めるその日まで。
私は、空音を愛せるように、明日を生きていこう。




