閑話五「そして私は、誰にも届かなかった独白を」
それはとある雪の日の光景だった。幼かった私は降り積もる白の結晶を輝かしい目で見て、その柔らかな感触に興奮したことを覚えている。
こんな真っ白な雪になれたらどれだけ良かったか。この季節が訪れるたびに私は昔に思いを馳せる。冷たくて乾燥した空気や、透き通るほどに遠く見える青空、積もった雪にできた真新しい靴の跡や轍。冬は見るものあるものすべてが私を追い詰めていく。
責められれば、どれほど楽だったか。
結果だけ言えば私は責められず、私をこうしてしまった彼女が責められる側になってしまった。私たちはただ好きあっていただけなのに。悪いのは私でも彼女でもない。悪いのは何もかもを認めなかった周りで、何もかもを無かったことにしようとした周りだ。だから誰も私を責める権利は無く、ましてや彼女を責めることができる人なんているはずが無かった。けれど誰かがその責任を、その汚名を被らなければいけなかった。だからこそ彼女はその役を背負ったのだろう。慰められたらきっと、死にたくなってしまうから。
思えばあの子はいつもつまらなそうにただそこにいただけだったような気がする。何も言わず、何も起こさず、何者にも心を開こうとはしなかった。私はそんな彼女となんとか仲良くなろうと必死だった。休み時間になればすかさず隣へと移動して下らない話を延々と繰り返し、お昼はずっと読書をしている彼女を見ながら話をするチャンスを窺って、放課後になればてくてくと後ろから追いかけて一緒に帰宅する。最初の頃はそれはそれは嫌な顔をして目も合わせてくれず、心底つまらなそうな表情しかしてくれなかったけれど、それも徐々に柔和になっていった。頷いたり、返事を返してくれたり、笑い返してくれた。時間はかかったけれど、私と彼女は親友になれたのだ。
私は充分にそれで満足だったが、しかし彼女はさらに一歩進んだ関係を望んだ。一緒に登校して、一緒にご飯を食べて、他愛ない話を繰り返し、夕暮れには寄り添いながら帰路につく。それは親友といえば美しく映っただろう。しかし私たちの関係はそんなものとは一線を画す酷く醜くて卑しく淫らな関係だった。きっと周りには理解されないだろう。きっとみんな奇異な目で見てくるだろう。確かに私たちは珍しくて、中にはこういった関係自体を嫌悪するような人もいるだろう。
でも、と私は思う。
人が人を好きになることに、いったいどんな善悪があるのだろうか。どうして誰かに認められなければ好きになってはいけないのだろうか。どうしてみんなと一緒じゃなければ異常扱いなのだろうか。どうして私たちの関係は秘密にしなければ続かないのだろうか。私は私に正直に生きていたい。そうしなければきっと後悔してしまうから。いや後悔すること自体は別に構わない。いつだって後悔してきたし、これからだっていくらでも後悔するだろう。日常を過ごす上で、人生を生きていく上で、後悔しない生き方などないのだから。
しかし、とも思う。
そんな世界だからこそ彼女はきっと恐れたのだ。自分が周囲から受け入れられなかったどうしようと。淘汰され、侮蔑され、誤解されたらどうしようかと。ずっとずっと怖かったのだ。普通ではないから、普通に憧れて。普通ではないから、普通を装って。普通ではないから、自らの異常さを理解し絶望した。そんな彼女だから周囲に壁を作り、何もかもを疑い、そして孤立した。それは彼女に平穏をもたらしたかもしれないが、同時に自分の異常性を認めてしまったことに他ならない。
それならば、と思いを致す。
それならばどうして彼女は私を受け入れたのだろうか。自身の異常性を認めてなお、自身に絶望してなお彼女は誰かに愛してもらいたかったのだ。それはシンプルでありながらも、叶えることが酷く難しい願いであり、誰しもが追い求めている理想だ。受け入れられ、認められ、愛される。そんなことで悩む人間はあまりいない。どうしてかと言えば、人は必ず誰かに愛されているから。しかし彼女は違った。誰からも、自分自身ですら愛せなかった自分を、誰かに愛してほしかったのだ。故に彼女は私を受け入れた。誰よりも彼女を知りたいと思い、誰よりも彼女に憧れた、この私を。
場面は切り替わり、私はひたすらにどこかへ向かう車に乗りながら、窓の外を眺める。
夕暮れの美しい朱色に染まる景色を車の中から見つつ、しばらく益体のないことをつらつらと思っていると、横から視線を感じた。気付いてない振りをしてこのまま外を眺めようと試みたが、一度意識してしまった視線はどうしたって私から逸れてくれなかったので、仕方なく私はそちらを向く。目と目が合い、相手は何かを言いかけるが、しかしついぞ言葉は出てこなかった。何か言いたくて私を見ていたのではなかったのかと思ったが、しかしこの人はきっと何も無くても私を見ているだろう。というか私しか見ていない。故の盲目、妄信である。これまでも、そしてこれからもずっとこの人は私のために行動し、私のためだけに生きていくのだろう。
それこそが、この人の愛の形なのだ。
そして私がどうしても欲しかった愛の形だった。無条件に愛せず、疑い、真実から目をそむけ続けた。私にとって全てだった彼女を疑うなんて、無条件に愛せないなんて、そんなものが本物であってはならない。それを本物だと認めてしまったら、きっと私の奥底に眠る大切な何かが壊れてしまいそうで。
いつの間にか俯いてしまった私が再び前に向き直ると、そこにはもうだれもいなかった。
もう、現実と幻の区別さえつけられなくなってしまった。いやきっとこの景色も、この現状も、きっとこの時間すら、私が作り上げた幻想でしかない。
既に分かりきっていることだった。
私はもうここから逃れることができないことも、もう誰とも言葉を交わすことができないことも。このまま徐々に自覚できないくらい遅々とした速度で、私の意識は薄れていくことも。
両親に愛され、姉に愛され、彼女に愛された。私にとっては充分すぎるくらい充実した人生を歩んだ気がする。普通にしかなれなかった私を、最後に特別扱いしてくれた。ちゃんと最後まで愛してくれた。突然いなくなってしまった私に、今はきっと怒っているだろう。けれどこれで良かったのだ。最後の最期まで、彼女の足枷には、なりたくなかった。今後彼女が生きていく上で、私はもう必要ないのだ。もう彼女には新しく彼女を愛してくれる、彼女を認めてくれる人がいる。それでいい。私はもう、消えてなくなってしまうから、愛し続けられなくなってしまうから。
瞬きをすると、場面が一転した。
十字路の角に私は立っている。ああ、これは思い出したくない記憶のひとつだ。けれど今の私という人間を決定付けた記憶である以上、この記憶とも向き合わないといけないらしい。
倒れた昔の私と、そのそばで泣き崩れる少女。真っ赤な花が咲き広がる景色は、周りの白と相まってとても美しかった。ともすれば見とれてしまいそうになるほどだ。
人は死に近いものほど美しく感じる。
それはきっと死に憧れているから。死を絶対的なものだと信じているから。死こそが到達点だと思い込んでいるから。
まぁこの景色と、今の私を思えば、それはあながち間違いでもない気がする。この景色は、疑いようも無く美しいから。
このときどうして私は頑なに謝ろうとしなかったのだろうか。考えれば考えるほど答えが曖昧になっていって、私の手は空を掴むばかり。思えば下らないことで怒ってしまった。そのときの私は彼女の言うこと全てを否定するだけで、彼女の想いを聞くことを拒んだ。
私の選んだ未来は、結果として最悪なものだったけれど、それでも間違っていなかったと思いたい。彼女には酷く辛い思いをさせていしまったし、周りのみんなにも迷惑をかけてしまった。それでもきっと私が選び取ったこの未来は、幸福に満ち溢れている。
そう願わずにはいられない。
そして世界は閉塞する。
どこかの部屋だろうか、見覚えはあるのにどこか思い出すことができない。シンプルでありながら所々にこだわりを感じる部屋だ。窓はあるが肝心の扉がどこにも見当たらない。もうここから出ることはできないということと、この空間にはもう誰も訪れることがないという意味なのかもしれない。私は仕方なくベッドに寝転がって思考に耽っていようとしたが、そこで違和感を覚える。
そこには、先客がいたのだ。
毛布の上から細くしなやかでありながら艶かしいその肢体が浮き上がり、可愛らしい寝息が微かに聞こえてくる。間違えるはずが無い。彼女は、私が唯一この世で愛して、愛し続けて、愛しきった、少女だ。
比奈理。と小さく名前を呼ぶ。しかし反応は無い。
比奈理、と今度は毛布ごしに頭を撫でながら名前を呼んだ。しかしそれでも反応は無かった。
だったら、と思い、私は比奈理の身体を撫で回す。二の腕や、腰や首元、乳房や太もも、穢れの無いその局部も、比奈理のありとあらゆる箇所を優しく触る。私の穢れた手で触れるのには若干の抵抗はあったが、それでも触れずにはいられなかったのだ。
愛おしいが故に、汚したくなる。
比奈理は実に蠱惑的な肢体をしている。細すぎず、かつ肉感を失わない程度には痩せていて、少しばかり乳房は小さいが、それも全体的なバランスを考えるとベストな大きさで。比奈理を構成する全てのものが完璧とは言えないが、それが合わさるとこうも人は魅力的になれることを教えてくれる。
比奈理。と最後にもう一度だけ名前を呼ぶ。たっぷりの愛情と、ほんの少しの悲しさを混ぜて。
そして私は最期に独り、闇に包まれながら幸福のうちに、誰にも届かなかった独白を終える。




