第二十三話「くちづけ」
息が白く染まるように、東の空も段々と白けてきた。
十二月に入り、本格的な冬の到来を感じさせる日々が続いている。この季節になるとマフラーと手袋は必須アイテムだ。私は去年買ったそれらの小物やコートをしっかり着込んでから、まだ夜も明けきらない早朝に家を抜け出す。今こうしてしっかりと自分の足で、自分の思いで歩けるのは、それを気付かせてくれる人たちがいたからだと思う。私という人が今誰を愛していて、私という人の幸せが誰の幸せに繋がっているのか。私はもう迷わない。彼女を幸せにできるのは、きっと私だけなのだから。
例えこの選択が、誰かの願いを摘み取ってしまうとしても。
愛されたいから愛するのか。愛したから愛されたいのか。少し前の私だったら悩んでいたそんな問いにも、今は堂々と答えることができる。
私は、愛したから、愛されなくてもいいと思える。
ただそばにいたい。ただ見守っていたい。些細な変化も見逃さずに、ちょっとした成長も余すことなく、私は見つめていたい。私を愛さなくていいから、私を認めなくてもいいから、ただその横で笑っていたい。それが私の想い。
一歩ずつ確かめるように、心残りのないように思いを固めながら進む。最愛であった、彼女の元へ。
いつも見ているはずのこの家も、今となっては随分と懐かしく思える。私は何時だってそうだった。理解したときには既に手遅れで、もうどうにもならないところまで行き着いてしまっている。そっと近づいてくる悲しみを当然とばかりに受け入れてしまう。そうじゃないのに。それではいけなかったのに。手のひらから零れていくものを運命だと勘違いし、空になった器を見ては嘆き悲しむのが当たり前になっていく。これは求めていたものではないのに。これが間違いだと分かっていたはずなのに。
足を前へと向ける。
今にも崩れそうな私は、そうしていないとまともに立っていられないから。
その家の玄関扉に手をつき、その上から額を当てる。もう温もりすら感じることができないくらい冷たくなってしまったその扉は、どこか寂しそうだった。
「どうしてみんな、いなくなっちゃうんだろう」
何も語らずに、何も残さずに。私を悩ませるだけ悩ませて、私が全てに気付いたときには、もう何もかもが手遅れで、だからどうにもならないほど終わりきってしまった場所で、私はまた独り。
「また……私は独り、か」
「違うよ、比奈ちゃん」
背後から声が届く。
心の奥を突くような鋭い痛みと、湧き上がってくる感覚の温かみが入り混じった、そんな少女の声。私が求めていた存在。私が探していた存在。
「ずっとそうやって自分を傷つけてきたんだね」
「そうするしかなかった。誰も答えをくれなかったから。誰一人として、私と一緒に生きてはくれなかったから」
私は好きで独りになったわけじゃなかった。いつだって求めて、手を伸ばして、掴めそうで掴めなかった私の願いは、どうしたって誰かを傷つけていた。私の幸福は、私以外の不幸に繋がっていると、そう思っていたから。
けれど、背後の少女は優しくも力強い言葉でそれを否定してくれた。
「これからは、違うわ。私がいるから。そばにずっといるから」
背中に温もりが伝わってくる。こうやって人に抱きしめられるのはいつ以来だろうか。泣き出しそうになるのを堪えるのに必死だった。今泣いたら止められなくなってしまう。私の心の叫びと、私の心からの想いが止め処なく溢れてしまう。
「比奈ちゃんはずっとずっと他人のために頑張ってきた。だから、もう自分のために生きてもいいんじゃないのかな」
「それじゃだめなんだよ。私は私を好きにはなれない。今までも、これからも。だから私が私のために幸せになるのは絶対に許せない」
私は好きな人を好きなままでいられず、結局中途半端な気持ちのまま好きな人を見殺してしまった。
「本当にめんどくさい性格だよね、比奈ちゃんって」
少しだけ笑い声が混じった声が、とても心地よい。というかめんどくさいのは自分でも分かってる。分かってるから、苦しいんだ。分かりきってるから、あがいてるんだ。
「でも、だからこそ、私は比奈ちゃんが好き」
その言葉を聞いた瞬間、不意に涙がこぼれてしまった。私の全てを知ってもなお、好きでいてくれる。何もかもを否定しきったこの私に、愛を惜しみなく注いでくれる。ずっとずっと怖かったのかもしれない。私の本性を知ってしまえば、周りの人はきっと私から離れていく。目を閉じていないのに何も見えず、耳を塞いでいるわけではないのに声が聞こえず、本音を伝えたいのに言葉がのどに引っかかる。そんな毎日がまた訪れるんじゃないかと思って、自分の願いから目を逸らし続けていたんだ。
「ねぇ比奈ちゃん。比奈ちゃんがもし、自分のために幸せになれないのだとしたら、私のために幸せになって。私が比奈ちゃんの代わりに比奈ちゃんの幸せを願うから、比奈ちゃんは私のその願いを叶え続けて。やっぱり私は比奈ちゃんじゃなきゃだめだから。比奈ちゃんが隣で笑ってないと苦しいから。だから私のために、私だけのために幸せになって」
いっそう強く抱きしめられる。きっと彼女は理解しているのだ。それが最善ではないということを。けれど今はそれしか選択肢がなかったのだ。私の隣にいるには、この方法しかもう残されていなかったのだ。
私は好きな人を自分という器に縛り付け、彼女は好きな人自体を器にした。
やっぱり私たちは、互いを利用し合っている。けれど、そこには確かな愛情がある。そこだけが昔とは違い、それこそが一番大切なことだったのかもしれない。
利用しあっていたとしても、それが仮初だったとしても、どこまでも純粋にはなれなくとも、本物になりきれなくとも、その関係にほんの少しの愛情さえあれば、他には何もいらないのだろう。
私はそっと手を重ねる。
「そうだね。百合子のお願いなら、ちゃんと叶えてあげなくちゃいけないね」
涙が頬を伝い、地面を湿らせる。止めようにもどんどん後から溢れてきて、私の悲しみや苦しみを洗い出してくれているようだった。
「比奈ちゃん、愛してるよ」
彼女は、百合子は私の正面に移動して流れ続ける涙をそっと拭う。
そして恐らく初めてであろう、百合子からの口付け。懐かしくて安心する唇の感触に、私はそのとき心を奪われた。
今この瞬間、私はようやく長内百合子という女性を本当の意味で好きになった。
その日私たちは少し早めに登校し、誰もいない教室の中二人で身を寄せ合いながらゆっくりと話しをすることにした。
空音と海乃はもうこの町にはいないらしい。
結局のところあの二人が何をしたかったのかは分からなかった。もう会うことはないだろうから、真意を訊くこともできないだろう。けれどあの二人が残していったものは大きくていつまでも忘れることはない。悩んで、傷ついて、迷って、最後に残ったのは本当に些細なものだったかもしれない。けれど、それは最も私に必要で、求めて手を伸ばし続けていたものだった。
私は思う。
きっとあの二人は私のそばにいられなくなるからこそ、私の前に今一度現れて、私にとって一番大事なものが何かを気付かせてくれたのかもしれない。私が孤独に押しつぶされないように。私が悲しみ続けないように。どこまでも優しい姉妹は、最後の最後までその優しさを私に気付かれないように与え続けてくれた。そんなところが大好きで、そういうところに憧れた。
私の最愛だった、彼女たち。
「それで、最後に話を聞いた私は、きっと比奈ちゃんはあの家に来るだろうって思って待ってたの」
柔らかい笑みを浮かべながら、私にそう語る百合子。
「そっか。でもひどいよな、あそこまで私を悩ませておいてお別れの挨拶もないんだから」
少しだけ不貞腐れたような表情をする私に、百合子は苦笑しつつフォローする。
「それが、あの子達なりの優しさなんだよ。自分たちがどれだけ優しいかを悟らせないように、わざと冷酷な振りをする。それに、きっと面と向かってお別れしたら離れがたくなっちゃうじゃない」
「今の私達みたいに?」
私がふざけた調子でそう言うと、百合子は両手を顔の前で絡ませて輝く天使のような表情で言葉を紡ぐ。
「そう、今の私達みたいに。だよ」
面と向かってそんな表情をされたら、流石の私も照れてしまう。視線を窓の外に逸らしてそれを隠そうとするが、きっと耳まで赤く染まってしまっていてバレバレだろう。
「ねぇ比奈ちゃん。こっち向いて」
百合子が甘えたような声を出すときは求めているときだ。だから私は照れくさいのを必死に堪えて百合子のほうへと向き直る。
「んふふ、比奈ちゃん可愛い」
「うるさい」
可愛いのは今の百合子のほうだ。本当にこの世のものとは思えないくらい可憐な表情。私はその表情に手を伸ばし、不恰好な眼鏡を外してあげる。眼鏡を外された百合子は目を閉じて受け入れの体勢になった。両手を肩に置き、ゆっくりと顔を近づける。永遠のようで、刹那の時間。この時間が、ずっとずっと続くようにと、私は願いながら愛おしい百合子と唇を重ねる。
景色が白く凍える季節に、甘く蕩けるくちづけをあなたと共に。
更新遅くてごめんなさい。
これで秋の章が終了です。栗山姉妹の閑章を挟んだ後、冬の章が始まります。
更新速度が不安定で冬の章がいつからになるのか未定ですが、今後ともよろしくお願いします。




