第二十二話「やがて全てが溶け合う日に」
喧騒が遠くに聞こえ、壁一枚隔てた先には友達とのお喋りに花を咲かせている同級生たちがいる。そんないつもの放課後、どこか日常とは違った雰囲気の空間に対面する二人がいた。夕暮れが綺麗に輝く夕方、私は図書室へと比奈ちゃんを呼び出していた。
久しぶりの、対話。
それがどれほどの意味を持つものなのか、今の私には分からない。けれどきっとこの時間は私たちの関係を一歩前進させてくれるに違いない。それに、こうして近くで話すことが、今は堪らなく嬉しい。私を意識的にか無意識的にか避けていた比奈ちゃんが、こうして会話の機会を受け入れてくれるなんて、思っていなかったから。私は嬉しかった。
だからだろうか。私は少しだけ浮かれてしまっていた。
自分と比奈ちゃんの間には、もう埋めることのできない溝が横たわっているのが、見えていなかった。事実は何時だって残酷で、人を救いはしない。それを知っていたのに、そう思っていたはずなのに、私はまた間違いそうになってしまう。思いはどれだけ経っても綺麗だったから。願いは少しも錆付かなかったから。私は何度も間違えてしまう。
私は、いつだってそのせいで独りだったはずなのに。
独りぼっちがいくら互いを認め合っても、独りなのには変わりないのだから。
私たちは、これ以上近くには立ち寄れないのだ。
こんなにも想っているのに。
こんなにも、愛おしいのに。
あなたはいつだって独りを望んで。
私はその度独りを自覚してしまう。
こんなにも似ているから。
鏡写しのような私と彼方。
だから何度も許容し合って。
何度も何度も拒絶し続ける。
それが最善だから。
これが現実だから。
「だったら、どうして私を選んだの?」
思わず口に出してしまう。相手はそれでも動じることなく淡々と述べる。
「選んだわけじゃない、誰でもよかった。誰でも同じだった。たまたまそこに百合子がいて、たまたま私が誰かを望んでいた。ただそれだけさ」
いったい何度目の拒絶だろう。私の心は既に黒く染まってしまった。そんな言葉が聞きたいんじゃない。もっと暖かくて心地よい言葉が欲しい。それを望むのはいけないことなの? 私はもう彼方を望んではいけないの?
「百合子はどうしたって空音にはなれない。私はもう現状に満足してる。これ以上は望まないよ」
「もう、私は必要ないの?」
「そうだね。端的に言えば、百合子はもう必要ない」
冷たく放たれた言葉一つ一つが、私に突き刺さっては消えない傷となって残っていく。こんな気持ちを欲したわけじゃない。もっとずっと心の底から溢れてくるような、そんな言葉を求めてる。
「私はまだ、比奈ちゃんが必要なの」
「違うわ、必要だと思いたいのよ。何故ならあなたは未だ誰かの代わりを探しているから」
「代わりなんかじゃない! 比奈ちゃんは誰かの代わりじゃないの! あなただって私を代わりとしては見ていなかった! 愛されなかったから愛したんじゃない! 満たされなかったから求めたんじゃない! いつだって比奈ちゃんだから愛した! 比奈ちゃんだったから満たされた! それは比奈ちゃんも同じでしょう?」
「それは……」
おそらく初めて見るであろう比奈ちゃんの苦しそうな表情に、私も胸を締め付けられる。
そうじゃない。そんな顔が見たくて言ったんじゃない。あの輝くような笑顔が見たくて、愛おしそうな表情で見てほしくて、私はあなたとこうして話しているの。
「私は、比奈ちゃんを笑顔で満たしてあげたいの。だって最近はいつ見ても暗い表情だったから、だから私は比奈ちゃんを笑顔にしたかったの、ただそれだけなの」
頬を涙が伝うのがわかった。視界が徐々に不鮮明になり、やがて何も見えなくなる。比奈ちゃんの悲しそうな表情も、赤く照らされた書架も、二人が笑顔でいられる未来すら、もう見えなくなって。
私は目を閉じる。
「……でも、それでも比奈ちゃんは私を求めてはくれないんだよね。私を選んではくれないんだよね。ならもう、これ以上は話すこと、ないよね」
「最初から言ってるだろ。私はもう、誰も必要ないんだって」
私はその言葉を聞くと、私は脇目も振らずに出入り口へと駆け出す。
「そうやって全部一人で背負おうとするから比奈ちゃんは、どうしようもなく不自由で不幸なんだね。そして比奈ちゃんは不幸だからこそ、また罪を重ねるしかなくなる。ずるいよ、そんな生き方」
そう言い残し、図書室を後にする。
最後に比奈ちゃんが、少しだけ笑った気がした。
「長内百合子さん。少しいいかな?」
比奈ちゃんとの対話のあと、私は覚束ない足取りで俯きながら歩いていると、校門のあたりであまり話したことのない転入生に話しかけられた。名前は確か……繭染さんだったような。
「秋山比奈理のことで、お話がありまして」
彼女の笑顔をはじめて見たが分かった。この子の笑顔はいつだって誰かを想ってきた笑顔だ。大切な、誰かを。
「……別に、構わないけれど」
「それじゃどこかゆっくりお話ができるところに行きましょうか」
少しって言ったくせにゆっくりと話せる場所に行くのか。なんだか結構マイペースな人だなぁ。
「とりあえず駅前まで一緒に歩こうか?」
そう促された私は転入生についていくように歩き出す。
その足取りは、どこか重いまま。
どこか懐かしい雰囲気が漂う喫茶店の一角で、私たちは向かい合うように座る。この喫茶店は確か、比奈ちゃんの友達が働いていた気がするが、今日は見当たらない。すっかり陽も暮れて辺りは薄暗くなり始めていた。
「もう冬ですね」
ホットコーヒーを飲みながら転入生はそう切り出す。こちらとしては早く本題へと入ってほしいのだが。
「あなたは一体誰を救いたいのですか? 自分? それとも比奈理? あるいは……ゆいちゃん?」
その名前が出たことに、私は驚く。どうしてゆいのことを知っているの?
「人間本気を出せば大抵のことは分かるようにできているのですよ。比奈理のことも、百合子ちゃんのことも、もちろん私のことも」
「でも、今回のこととゆいは関係ないわ」
「そうだね。今回は百合子ちゃんと比奈理の歪な関係が主軸だ。ゆいちゃんは関係ない。けれどそれなら尚更私は分からない。どうして君たちはそこまでして求め合うのだろうか。苦しいだけなのに、悲しいだけなのに。それほど比奈理は大切なの? 自分が傷ついてまでそばに置いておきたいほど?」
「そうだよ。私がどれだけ傷ついても、隣に比奈ちゃんがいてくれるなら私はそれでいい」
もう、私の心は比奈ちゃんで埋め尽くされているの。忘れて生きていくなんてできないし、手放すなんて無理な話だ。だから、振り向いてもらえなくても、どこまでも拒絶されても、私が好きなのは、比奈ちゃんだけなんだ。
「やがて全てが溶け合う日に、私たちは再びめぐり合うことができる」
「安っぽい言葉ね。けれど、なぜかいい響き」
「そうだね。私もそう思うよ。だから私は執拗なまでにその時を待つの。私もね、あなたと同じで待つのには慣れているの」
そっか。懐かしかったのは、この場の雰囲気でもなく、この笑顔でもなく、この子自身だったんだ。これはずっとずっとゆいを待っていた私と同じで、今の比奈ちゃんが振り向いてくれるのをじっと待っている私と同じなんだ。そしてこの子自身もまた、何かを、誰かを待っている。その瞳が、その表情が、言外に物語っている。
最初に求めていたものは、遠くにあって。私はずっと妥協してきた。けれど比奈ちゃんのことに関して私は妥協したくない。これくらいでいいとも、これでいいとも思いたくない。私は私の想いを貫き通して必ず比奈ちゃんを、そして私自身を救い出して、幸せに向かっていきたい。
幸せの向こうに、更なる悲劇が待っていたとしても。




