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百合生活  作者: 和菓子屋枯葉
秋の章
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第二十一話「器を満たすものは、きっと」



 朝早く登校した私はどこか寂しい雰囲気の廊下を歩き、自分の教室を目指す。自分以外の生徒を見かけることもなく、まるで今この学校という場所には自分独りしかいないのではないかと思うほどであった。教室に着いて扉を開けると、スライド式の扉の独特の開閉音が辺りに響きすこし驚く。普段であれば気にならないその音も、今のこの空気にはとても似つかわしくない気がして、私は残りの半分を静かに開けることに努める。やっとの思いで教室に入り、また音を立てないようにそっと扉を閉める。暖められていない部屋の温度に身震いさせながら鞄を自分の机に置くと、前にあるエアコンのスイッチを押して快適な温度へと変化させる。しばらくして段々と温まった私はアウターを脱いで後ろのクローゼット式のロッカーにそれを掛ける。

 そこで私は、あるものに目をとめる。

 私のロッカーから左に三番目、そのロッカーの中に白い袋が入っていた。おそらくは体育着が入ったものだろう。私はその袋を見つめる。

 分かっている。それはすごく変態的な行為であって、誰かに見られることがあれば相当恥ずかしい行為だということは。しかし私は今猛烈にその匂いを嗅ぎたいと思っている。昔の私なら、こんなこと思いもしなかっただろう。比奈ちゃんに影響された結果かな。

「誰も……いないよね?」

 教室全体を見渡し、ついでに廊下も覗いて周りに誰もいないことを確認する。そして私はその袋に手をかけて中身を取り出す。真っ白な体育着の胸部分には小さく”秋山比奈理”と書かれていて、汗の匂いがとても心地良かった。手に持ったそれを徐々に顔へと近づけていく。

「ああ、比奈ちゃんの匂い、久しぶり」

 洗剤の匂いと汗の匂いが混ざり合い、甘く蕩けるような幸福感に包まれる。願わくは、ずっとこうしていたいと思う。そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。私はすぐに体育着を袋に戻すと、何事もなかったかのように自分の席へと座る。足音はこの教室を通り過ぎていき、隣の教室へと入っていく。危なかった。あんな姿、他人に見られたら本当に学校生活送れなくなる。けれど、どうしてかすごく興奮してしまった。胸の鼓動が速くなり、あんなに冷たかった身体も芯から熱くなっている。私は堪らずスカートの上から触れる。そこは特に熱く疼いていて、次第に息も荒くなっていく。

「う、あっ……ん……」

 徐々に激しくなる腕の動作のせいで、誰かが教室の扉を開ける音に一瞬反応が遅れる。

「あれ? 今日はお早い登校ですね。百合子ちゃん」

「お、おはよう。遥ちゃん」

 私は慌ててスカートを直す仕草をして誤魔化す。ちょっと声が震えちゃったけれどこれくらいなら大丈夫だよね。

「今日寒いよねー。って百合子ちゃんどうしてそんなに息切らしてるの?」

「え!? い、いやちょっと、今日は走ってきたから」

「まぁそうね、今日はすごい寒かったからね」

 窓の外を眺めながら言う遥につられて私も色が薄くなっていく景色を見る。世界が灰色に溶けていくようなその風景は、私の中の思い出も透明にしていくようで、怖かった。






 ここのところため息が増えたような気がする。授業もあまり集中して話を聞けないし、体育も見学が増えたように感じる。大抵の授業が比奈ちゃんと一緒なので少しばかり気まずくはあるけれど、決してそれが原因でため息をついているわけではない。

 ならどうして私はため息をついてしまうのだろうか。

「そんなの簡単なことじゃない。満たされていないからよ」

 放課後いつものように海乃さんに呼び出され、二人で帰宅している途中にその話をすると、海乃さんはさも当然とばかりにそう言った。

「何が満たされていないの?」

「人はね、自分という器が何かで満たされていないと不安になるのよ。そこで重要なのが、なにでその器を満たすかってこと」

「なにで満たすか? どういう意味?」

 私が不思議そうな表情で海乃さんを見ると、どこか陰のある笑顔を浮かべる。私を確かに見ているはずのその瞳には、しかし私は映っていなかった。

「楽しいこと、嬉しいこと、愛やら恋やらの幸福なことで満たされているならそれが一番良いのかもしれない。しかし、そうじゃない人もいる」

 口元が、卑しく歪む。

「悲しみや苦しみ、痛みや寂しさでそれを満たすことのできる人がいるのさ」

 それが誰を差しているのか、分かった。だから私は何も言えなかった。

「君の器が今なにで満たされようとしているのか、私はとても興味があるよ」

「私は……」

 私は今、何で自分を満たそうとしているのか。溶けてしまって見えなくなったものをどう色付けしていくのか。自分のことなのに、何も分からなかった。





 帰り道、ふらふらと町をさまよっていると辺りが暗くなっていることに気付いた。どこに行くわけでもなく、何か目的があるわけでもないのに、まだ地元に帰っていないのは初めてのことかもしれない。さらに言えば無意識に歩いていたからか、ここがどこなのか分からない。要するに道に迷った。やっぱり考え事をしながら知らない町を歩くのは危険だった。

 とにかく目印になるような建物などがないか辺りを見渡すと、少し行った先にスーパーが見えた。懐かしい場所だ。と思ってしまうくらいには昔の思い出だ。

「ならこの近くに……」

 私は消えかけた記憶を必死にかき集め、その場所を探す。どこに行くわけでもなかった、何が目的でもなかった。けれど、私は何時だってそこを目指していたのかもしれない。心が休まる唯一の場所。最も愛しき人のいる場所。

「……あった」

 住宅街のとある一軒家の前で、私は足を止める。一度しか来たことはないけれど、どうしてか見ていると安心するその家はまだ光が灯っていなくて、主が不在だということを無言で知らせてくれる。

 比奈ちゃん、どこにいるの? 私はここにいるよ。早く見つけてくれないと、歪んで溶けて消えて見えなくなっちゃうよ。

 しばらくその家を眺めてから、私は駅へと向かう道を歩き出す。星空が綺麗だったけれど、上を見ながら歩く気になれず、ひたすら舗装された灰色の道を見つめる。

 私と比奈ちゃんは、どこか似ている。その心のありようも、相手の想い方も。そして、何もかもを守ろうとして自分を傷つけるその生き方も。何もかもが似すぎているから、見つめあうのが、辛い。

 だからきっとこの瞬間も、私たちは互いを傷つけあってしまうのだろう。

「あっ、比奈ちゃん……」

「百合子……」

 この道を歩いていれば会えるかも知れないと思っていたけれど、いざこうして顔を合わせたとき、どうすればいいのかわからなくなる。泣きつけばいいのだろうか、喜べばいいのだろうか、悲しめばいいのだろうか、笑顔になればいいのだろうか。今きっと私は戸惑った表情を浮かべているに違いない。だって比奈ちゃんがあんなにも苦しそうで、愛しそうな顔をしているのだから。

「……」

「……」

 しばらく視線を交わした私たちは、けれど互いがすれ違うその瞬間まで一言も発することはなかった。今じゃない。話すことはたくさんある。しかし今ここではない。もっと効果的で、最も効力を発揮する機会にこの言葉は取っておかないといけない。

「私は……私の器を満たすものは」

 届かない言葉を飲み込み、ひたすら涙を堪えて駅を目指す。


 私の器を満たすものは、貴方だけ。

 そして。

 貴方の器を満たせるのは、きっと私だけ。



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