第二十話「喪失」
甘くとろけるように私の中を犯していく感覚に、全身が震える。唇が重なり合う瞬間や、舌が絡みあう感触で快楽に溺れ沈みそうな私を引き戻すのは、何時だって彼女の辛そうな笑顔。私は頭を掻き撫でられながら、徐々に下へと下ろされるその手を掴んで止める。
「……やっぱり、まだだめ?」
拗ねたように口を尖らせる彼女は、いつもの倍は妖艶さが際立っていた。私とお揃いにしたという二つに結ったセミロングの髪は、そのギャップもあいまってかすごく魅力的に映る。
「だって、私はまだ、比奈ちゃんのことが――」
「何度も言ったはずだよ。忘れなさい。そのほうが百合子のため」
「私は! 私はただ、比奈ちゃんのことが……」
言葉にすれば、きっとどこかに行ってしまう。消えてなくなってしまう。そう思った私は続きを語らず黙ってしまう。そんな私を見て彼女は優しい手つきで頬を撫でてくれる。またそれが心地よくて、ずっとこうしていたいと思う反面、比奈ちゃんを裏切っているんじゃないかと不安になる。
『比奈理を救いたいのであれば、あなたはそばにいるべきではない。あなたがそばにいれば比奈理が苦しむだけよ』
冷酷で、無慈悲な声色で言った彼女は、私を惑わせ比奈ちゃんへの想いも消し去ってしまおうとしている。けれど、どうしたって私が好きなのはこの世でただ一人、比奈ちゃんなのだ。それだけは、譲ることのできないたった一つの答えなのだ。
「それでも、もう比奈理はあなたに微笑んではくれない。私だったら、百合子を幸せにできるの。私のほうが百合子を笑顔にできるの」
その微笑みは私の心をざわつかせる。うっとりと見惚れるほどに潤んだ唇が、私の乾いた唇へと重ねられる。その行為は決して許されるようなことではないのかも知れないけれど、今はまだもうちょっとだけ、このままでいよう。
そう思ってしまうくらいには、私は彼女に魅入られてしまっていた。
おそらくこれほど憂鬱な日は無かっただろう。そう思えるくらいには、私と比奈理の仲は気まずくなっていた。夏休みが終わってはじめての登校日、今日は生徒集会があるだけで午前中に終わる。それもあってみんなどこか浮ついていて、その中で比較的落ち着いた雰囲気の私や比奈ちゃんが目立ってしまっている。教室から集会場である体育館までの道のりで時折耳に入ってくる話題は夏休みのことと、今日来る転入生のことだった。
今日、海乃さんが転入してくるらしい。
それ自体は大した問題ではない。一番の問題は、海乃さんが私との交際を比奈ちゃんに言わないかどうか、ということ。私自身はまだ比奈ちゃんとは別れていないつもりで、今はたまたま疎遠になってしまっているけれど、きっといつかまた比奈ちゃんは私を必要としてくれると信じている。だから、海乃さんが私と交際していると口走らないか不安で仕方なかった。
そわそわしながら体育館へと入り、生徒会長の話や理事達の話を黙って聞いているが、しかし頭の中ではどこか焦りに似た感情を落ち着かせようとする。大丈夫、何もやましいことはない。大丈夫、私はまだ比奈ちゃんのことが好きだ。まだ大丈夫、私は何時までも待てる。大丈夫、大丈夫。
私は一体どうしてこんなに焦っているのだろう。何か比奈ちゃんに言えない事をしてしまっているのだろうか。いやしているのだけれど、そんなことで嫉妬したり怒ったりするような子ではない。キス以外はまだ何もさせていない。大丈夫、比奈ちゃんなら分かってくれる。
ふと、視線を感じて前を見るが、誰も私を見てはいなかった。みんな前を見ているわけではないが、少なくとも私を見ている人は見つけられなかった。けれど代わりに、彼女の憂い顔を見ることができた。長いまつ毛、肩の上で切り揃えられた髪、思った以上に華奢な肩、控えめな胸に少し筋肉質な太もも、全身が人形のように整っていて、まるでどこかの絵本から飛び出してきたかのような、可憐な少女。
「比奈、顔色悪いよ。保健室でも行く?」
つい、声をかけてしまった。暗く虚ろな瞳が私を捉える。
『あの子はもう、君を必要としない。いや、誰も必要としない。あの子が好きだった女の子は、もうこの世にいないから』
どうして私はこんなときに海乃さんのことを思い出してしまうのだろうか。私は彼女のその瞳で、その口で、否定してほしかったのかもしれない。そんなことはないと、私には百合子が必要だと。
無駄な祈りだと、理解しながらも。
「いや、いい。保健室はあんまり好きじゃない」
それは、誰に発したのかも分からないほどの小さな声で放たれる。もし言葉に色があって、私がそれを見ることができるのであれば、きっと今の言葉は無色透明に違いない。何も込められていない。ただ音を発しているだけの、いわば作業のようなもの。
「そう、分かった」
だから、私もなるべく無感情で返答する。それきり比奈ちゃんは私を見ることはなく、遥さんとの会話に戻ってしまった。私も私で、前を見ることが苦痛で俯く。自分のスカートからのぞく健康的な太ももとひざに数滴の涙が零れ落ちていることに気付き、慌てて目元を拭く。会話できることが、返事があるということがこれほど嬉しくて、悲しいことだとは思わなかった。
やっぱり私は、比奈ちゃんのことが好きだと、そう改めて感じた瞬間だった。
きっと私たちが間違えたのは、出会い方と付き合い方だと思う。
夕方、家に帰ると私はすぐに着替えてベッドへと寝転がる。考えることに集中したいから電気はつけないでじっと天井を見つめる。
私たちはもっと普通に出会うべきだった。普通に出会って、何気ない会話を繰り返しながら、徐々にお互いを意識しあって、ゆっくりと恋人同士になるべきだった。比奈ちゃんはあの時、何もかもがどうでもよくて、心に空いてしまった大きな穴を埋めるかのように私を選んだ。極端なことを言えば目に留まった人なら誰でもよかったのだと思う。
そうじゃない。
私たちはもっとちゃんと互いと向き合うべきだった。互いが互いのことを知らなさ過ぎて、本当にただ一緒にいて傷を舐めあっているような関係だった。
それじゃだめなんだ。
少しでも出会い方を、付き合い方が違っていたなら、私たちはずっとずっと幸せな関係でいられたのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。いや考えなくても答えは分かっている。
私たちは、常に自己満足で終わっていたのだ。
満たされて、満たされ続ければよかった比奈ちゃんと、誰かに尽くし、必要とされれば幸せだった私。どちらも自分のことしか考えていなかった。だから、どうしたいのか、なにがしたいのか、なにに悩んでいるのか、なんで困っているのか、どうしてそんなに悲しそうなのか。私たちは、もう少し相手を見るべきだった。私たちの関係は、恋人でも友人でもなかった。相手をただの道具のように思っていて、いつでも替えがきくものだと思っていたのだ。
そんなはずはないのに。
私は比奈ちゃんと付き合っていく中で、少しずつ徐々に比奈ちゃんへの想いを積み重ねていった。誰でもよかったわけじゃない。比奈ちゃんがよかったのだ。どんな始まり方でも、どんな付き合い方でも、私は比奈ちゃんがよくて、比奈ちゃんじゃなきゃ嫌だった。
「ん……あっ……」
比奈ちゃんのことを考えていた私は、いつの間にか右手が下のほうへ動いていた。未だ私と比奈ちゃんだけしか触れたことのない神聖な部分。考えていただけで何かが中から溢れ出てきては身体を濡らし、その分だけ私の気分は高揚する。全身が痺れるような感覚の連続に比奈ちゃんを思い出す度に、行為は激しさを増していった。
「比奈ちゃん……比奈ちゃん……!」
私は、ずっとずっと比奈ちゃんが好き。ただそれだけ。
ただ、その想いだけ。




