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百合生活  作者: 和菓子屋枯葉
秋の章
23/67

第十九話「幸福の対話」



 この学校には静かで誰にも邪魔されない場所がいくつかある。

 専門教科で使用する教室がある第二校舎の空き教室や屋上へと続く階段と踊り場、校舎裏のベンチ、部室棟周り。その中でも特に私が好きな場所は、この図書室だ。読書に勉強に待ち合わせにも使える便利な場所。そして今日は話し合いのためにある人を待っていた。放課後ということもあって利用者はほとんどいないから、窓の外から明るい声が鮮明に聞こえる。

「それにしても、本を読むなんて随分久しぶりだなぁ」

 昔はよく姉の本棚から拝借して読んでいたけれど、最近は読書をする時間がほかの事に奪われてしまって新しい本を買ったり読んだりすることがなくなってしまった。姉の世話をして、海乃の愚痴を聞き、空音と話をする。それでだいたい一日が終わってしまう。休日も同様だ。夏休みが終わってから今日まで休みなく働いている気分でなんだか滅入る。

 けれど今日はこうして少しだけ読書をする時間が出来た。なんだかんだで私は本が好きで、物語が好きなのだ。本は、物語は、読書という時間は、私をここではないどこかに連れて行ってくれる。普通の女の子のように恋愛して、強大な怪物と死闘を繰り広げ、縦横無尽に空を飛び回れる。それは私には出来ないことで、そこは私にはいけない場所で。……私はここにいたくないのだろうか。私は現状に不満なのだろうか。そんなことを考えてしまう。だから本は、物語は、読者という時間は、私という人間との対話なのかもしれない。

 あなたは今、何に苦しんでいるの? という問いかけであり。

 あなたは今、何を想っているの? という確かめであり。

 私は今どこに立っていて、何に向かい辿り着き、どの景色を見たいのか。

 苦しくも愛おしい、数少ない時間。

「…………それでも、終りはくるんだよね」

 本を閉じて、正面を見据える。座っているのは、大人しくて地味な眼鏡がよく似合う、瞳の綺麗な少女。

「遅かったね、百合子」

「ごめんね、少しだけ帰り支度に手間取っちゃって」

「私も早く帰りたいから、話は短めにお願いね」

「うん。分かった……」

 自身との対話を終えた私は、今度は少し前の自分との対話をはじめる。

 幸福だったかもしれないもしかの未来を、それでもそうならなかった現在の話を、想い思って想い続けたこの少女と、ちゃんと終わらせよう。

「さて、どこから話そうか」






 すっかり太陽も傾き落ちるのが早くなったなぁと、今日ほど実感した日はない。

 赤く照らされた図書室内は物語によく出てくる終末期のようで、私の心境にもどこか似ていた。

「傷つけたかったわけじゃないんだけどな」

 それでも私たちは傷つけあうしかなかった。そうすることでしかもう繋がる事ができないから。

 人の心に居座り続けることは意外と難しい。それこそ毎日顔を合わせていない相手なんて忘れていて当然だし、ましてや私は一週間話をしていない人の顔は基本忘れている。けれどあの子は、あの子のことだけは忘れることはなかった。何年も何年も前のことで、それ以外は全部忘れているのに、あの子に関する何もかもは覚えていた。それくらいあの子への罪の意識と愛情があったと思われても仕方ない。

「だから、また罪を重ねる。か…………百合子も上手いこと言うようになったね」

 私は、空音への贖罪をしながら、百合子にも赦されようとしていたのだ。傲慢にもほどがある。私は一人しかいない。ならば私の身をもって償うべき罪は一つまでしか償えない。それはどちらか一方を見殺しにしろと言われているようなもので、そして私が百合子への罪を自覚したのはつい最近だ。どちらを優先するかなんて、考えなくても分かる。

「……それで、あなたは私たちの話を聞いてどう思った?」

 私は本棚の間に隠れるように座っていた繭染さんに声をかける。

 昨日あれだけのことを言われた手前、一人で結論付けるのは極力控えることにした。この話し合いの場を設けるにあたって協力してくれたのも繭染さんだ。普段であればもっと人が来るはずの放課後の図書室に、今日の利用者が私たちだけなのはこの子のおかげだ。ゆっくり話すにはやっぱり野外より室内だし、そこに反論はなかったが、しかし私一人では貸しきり状態にはできなかっただろう。そこは感謝したい。校外のどこかでもよかったが、それは百合子が嫌がった。まぁ今はそんなに仲がいいわけじゃないから学校の外でも顔をあわせるなんて苦痛だったのだろう。

「あなたたちは、どうしてそこまでして繋がりあいたいと足掻くのでしょうか。それは糸なんて生易しいものじゃないです。鎖ですよ、鎖。あなたたち二人は離れれば離れるほど自らを締め付ける鎖を、未だに繋げているだけです。外そうと思えばいつでも外せるのに、お互い意地でも外そうとしない。あなたたちの運命は、あなたがたの物語は、もう途切れていてけりが付いているのに、それでもどうにかして延命させようとしている。私にはあなたたちの会話はそう聞こえました」

 日の光に隠れるように座り、こちらを見ずに俯く繭染さんはそこまで一気に話して一息つくと、緩慢な動きで立ち上がる。はじめて立った小鹿のようにおぼつかない歩き方で赤い日の下に出ると、その表情が見て取れた。

 痛々しくて、悲しそうな笑顔だ。

 きっと、そんな笑顔が似合ってしまうほど悲しいことにあったのか、悲しいことに遭わされてきたのだろう。この子は、私より不幸だ。

「あなたは、私よりずっと不幸ですね。ここ一ヶ月近くあなたを見ていて分かりまして。あなたは、幸福を恐れている。自分が幸せに近づくことを躊躇っている」

「それはそうさ。誰だって無条件で目の前に提示された幸福を享受できるようには出来ていない。幸福は、上限がないから、いつでもどこまでも欲しがってしまうから、だから私は自分の手で掴み取った幸せだけを近くに置いておきたい。誰も、傷つけないために」

「誰にも、傷つけさせないためにの間違いでしょ? あなたは相手を想って行動しているんじゃない。ただただ自分ひとりのことだけを考えて生きているんだ。結局全部、あなたの自己満足なんだよ」

「自己満足で、何が悪い?」

「悪いなんて一言も言ってない。ただそれを言い訳にして逃げ回っているのが、私は許せないの、だから」

 今にも倒れそうな繭染さんはふらふらと歩き続けて私の後ろに回ると、頭をなでるように髪の毛をといてくる。

「そんなあなたが私は大嫌いだった。ずっとずっと大嫌いで仕方なかった」

 優しく触れる彼女の手のひらはとても小さくて、今にも溶けてしまいそうなくらい暖かかった。私の手は何時だって誰かを傷つけていたから、きっとすごく冷たかっただろう。そんな手で百合子や空音に触れていたのかと思うと、堪らなく悔しくなる。私の手は、誰も幸せに出来ない。

「だから私は、私は…………」

 か細くなっていく声と、薄れゆく太陽の日差し。それは狂おしいまでに心に刺さる時間で、そして彼女が次に言うであろう言葉は、今の私にはとても恐ろしかった。私が持て余している感情だから、誰かを傷つけてしまうから。

「私は、あなたが、大好きだった」

「……」

 日が落ちて、薄暗くなっていく室内に満ちていく幸福と絶望に、どうして私は安堵してしまうのだろう。他人の好意をこんなにもまっすぐに受けて、私は嬉しさよりも悲しさを感じてしまう。私を好きになったところで、待っているのは後悔と懺悔の日々なのに。それなのにこんなにも私に愛を与えてくれる。

「雪が溶けて、桜が咲く季節に、もう一度この場所で、私たちは物語を始めることが出来る」

「……なにそれ」

 いつの間にか私の頭からは手が離れていて、彼女は扉の前に移動していた。私は立ち上がり近づこうとしたが、彼女の拒絶するような瞳にその場から動けなくなってしまった。しばしの間私と繭染さんは無言で見つめあう。パーツひとつひとつが小さく可愛らしい彼女の顔は、私の理想の女の子そのものだった。そんな彼女の悲しさと、愛しさと、期待が混じった暗い瞳の奥に、しかし私は映っていなかった。

「思い出せなのなら、それでいい。けれどこれだけは覚えておいて。あなたの記憶に誰もいなくても、誰かの記憶には、あなたがいるの」

 扉が閉まるまで、いや扉が閉まった後でさえ、私はその場を動けずにいた。私の記憶にいない、誰か。誰かの記憶で生き続ける私。

「迷惑な話だ」

 これ以上ないくらい嬉しい迷惑で、それでいて少し思ってしまった。こんな私ですら、幸せになれるのかもしれない、と。

「私自身が幸せになるのではなく、他人の中にある私という人格を幸せにする」

 それであれば、きっと誰もが幸せになれる。

「みんなみんな、幸せに……」






 すっかり暗くなった帰り道、足早に家を目指す私の隣には、なぜかさなえがいた。

「いやーまさかこんなところで愛しい比奈に会えるとは思わなかったよ! どう? 元気にしてた? ってその顔見れば大体分かるけれどねぇ」

「分かるなら訊くな。そしてそんなにくっ付くな」

「だってだってー、こうして会うの結構久しぶりだし、最近寒くなってきたし、人肌恋しいって言うか、まぁそんな感じ」

 相変わらず騒がしい性格してる奴だ。それでも今はこの明るさに救われる。どうしても一人のときは悲観的なものの考え方しか出来ないから、こういう楽観的な人が一人いるだけで深く思考している自分が馬鹿馬鹿しくなってしまう。

「私ね、今ちょっと調べてることがあってさ、アルバイトお休みしてるのさ」

「そうなのか。まぁちょくちょく行ってはいるのに姿を見ないからバイトやめたのかと思ったよ」

「寂しかった? ん? 正直に言ってみほらほら」

「正直言ってうるさい奴がいなくなってほっとした」

「んもう、照れなくてもいいのに」

 本当にうざいなこいつ。

「幸福の基準は他人からどう思われてるか。その一言に尽きる」

「どうしたのさいきなり」

「自分自身が幸せを実感しなくても、他人が自分のことを幸せそうだと思えば、その人は幸せになれるんだよ。まぁ逆も然りだけれど」

 不思議なことに、さなえは人の表情を見れば自分をどう思っているか分かるらしい。だからこいつと話すのはあんまり好きじゃない。なんだか心を覗かれているようで、気分が悪くなる。

 そして私はさなえのその語り方で理解する。さなえは自分が楽観的でも陽気な性格でもないことを解っているんだ。けれど他人から幸せに見られるように自分を偽っている。それがいづれ自らを殺す毒だと自覚しながらも、使うしかなかった。

 自分が幸せに近づくために。

「もうすぐ冬だね」

 冬は特別な季節だ。私にとっても、彼女たちにとっても。そんな悲劇と未練と情愛が折り重なるような季節が、もうすぐやってくる。

「そうだね、冬だね」

 どちらからともなく空を見上げる。厚い雲が空一面を覆って星の光は見えなかったが、丸々とした月だけはぼんやりと見えた。


 別れと再会の夏が過ぎ、確かめの秋が訪れ、降り注ぐ冬がやって来ようとしている。私はずっと答えを探していた。完璧で、隙のない答えを。どこにもなくて、ずっと持っていたと思い込んでいたその答えはやっぱり探しても見つけられなかったけれど、代わりに不完全でありながらこれしかないと思えるくらいしっくり来る答えを、今はこの手に握り締めている。定期テストが終わって年末に近づく前に、私たちのすれ違った想いに、この言葉で終止符を打とう。

 この選択が、たとえ二人を不幸にしても。



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