第十八話「たった一つだけ」
どうしようもなく何もない日々が流れ、気がつけばもう十一月も第二週に入っていた。
平面状は何も変化していないように見えて、私を取り巻く関係性は少しずつその形を変えていった。遥とえりさは心なしか一緒にいる時間が長くなったように思う。さなえはアルバイトを一時的に休んでいるらしく、いつもの喫茶店に行っても見かけなくなった。私もみんなといる時間が短くなって、その代わりに繭染さんと二人でいる時間が多くなった。
そして百合子は、海乃と二人きりでいるところを頻繁に見かけるようになった。
教室内でも、学校内でも、街のいたるところでも、その姿は見ることができた。それも二回や三回だけではない。何度も何度も、何度も何度も何度も。少し目線を動かせば、一歩外へ出れば、それは視界に入ってくる幻想のようで。しかし贋物みたいな事実だった。
「ひなりん、次私たち移動だよ」
退屈な表現技法やら近代文学やらの授業はいつの間にか終わっていたらしい。私は呆けた脳を無理矢理起こして鞄から次の授業の教材を取り出す。次の授業は確か古典文学だったような。
「ひなりん、次は古典文学じゃなくて基本文法だよ?」
私は取り出したペースのまま古典の教材を鞄に押し込み、基本文法の教材を取る。何やってるんだろ私。
閑散とした教室は時計の秒針が動く音と、廊下の方から微かに聞こえる話し声だけが空気を支配していた。動いているのに止まったような感覚に陥りながら、私は教室のある一点を見つめる。
「たった一つだけ……」
「ん? 何か言いましたん?」
「あっ、いやなんでもない」
つい声に出てしまっていたらしい。私はその言葉をごまかすように少しぎこちない笑顔で「なんでもない」と繰り返し、足早に教室を出る。
「次の授業がある教室、そっちじゃないですよん。ひなりん」
「……分かってるし」
ホント、何やってるんだろ、私。
最近は何をしていても身が入らない。
この授業は比較的人数が多いので、こうして窓の外を見ながらあることに思いを致す。
もしも私の前に空音が現れなかったら、今でも百合子と仲良く過ごせていただろうか。もしもあのとき空音と言い争いにならなければ、空音とずっとずっと愛し合っていれただろうか。もしもあのとき空音ではなく、百合子を選んでいたら、今こうして悩まずに済んでいただろうか。考えたって仕方ないのに。考えたところで何一つ変わりはしないのに。
「ひなりんひなりん。ぼんやりしてると当てられちゃうよ」
「大丈夫だよ。この授業はやる気元気に満ち溢れた子達が何人かいるから、その子達が休んだりしない限りは私たちみたいな目立たないその他大勢は当てられることないんだよ」
「ほほう、そうなんですの」
そう言うと繭染さんは机にぴったり入っていたスケッチブックを取り出して何かを描きだす。そんな堂々とほかのことしてたら注意はされるよ。だから仕舞おうね。と言おうとした私は、その言葉を飲み込んだ。
あれ? この絵、どこかで見たこと……ある?
「何ですか私の絵がそんなに綺麗で上手いからってそんなに見つめないでくださいよん」
「別にそんなんじゃないけどさ。いやまぁ確かに上手いけれど」
「褒めても何も出ませんよ?」
「いらないし。繭染さんからの贈り物なら特に」
「酷いです! 私傷つきました! この責任はちゃんととってくださいね?」
「嫌だ」
漫才がしたかったわけじゃないけれど、結果的に漫才になってしまった。今はそんな気分じゃないのに。
「何か悩み事ですかな? ひなりん殿」
そう言った繭染さんの笑顔は彼女らしい華やかなものだった。けれどどこか引っかかる。この笑顔を、私は知っている? いや気のせいだろう。こういう笑顔は見慣れているはずだ。同情するような、理解しているようなそんな笑顔。私の嫌いな笑顔だ。
「そんなんじゃないよ。ただちょっと思うことがあって」
「やっぱり悩んでるんじゃないですかぁ。私でよければ相談乗りますよ?」
「いいよそういうのは。それにこういう悩みとかは結局自分で解決しないと意味無いんだよ」
「ひなりんは、そうやって自分を追い詰めてどうするつもりなの?」
「追い詰める? 何言ってるのか分からないんだけど」
「気付いてないの? 普通はね、悩みとかは他人に相談してさ、重荷を分け合うんだよ。そうすることで後で「あの時決断したのは私の意志だけじゃなかった」って「私も悪いけれど、あの子も悪いよね」って逃げ道を作るんだよ。けどさ、ひなりんはそんなことしないよね。どうして?」
「逃げ道なんて作ったところでどうにかなるわけじゃない。誰かに背負わすくらいなら自分ひとりで全部背負いたい。そのほうが」
「そのほうが、楽だから? 確かに楽でしょうね。何もかも自分ひとりで背負い込んで悩んで苦しんで、息が詰まってしまいそうなくらい淀んだ気持ちを、黒々しいほどの嗚咽を誰にも見せることなく、聞かせることをしないことは、さぞかし楽でしょう。けれど、周りはどうなの? ひなりんの周りには誰もいなかったの? あなたに寄り添って、一緒に苦痛を背負ってくれる人はいなかったの? あなたはそういう人たちを拒絶したんだよ。私に関わるなって脅してたんだよずっと。否定も肯定も自分で飲み込んで、いつも雲がかかってるように暗い顔してるのに、それでも平然といつものように過ごしてるんだから、質が悪い」
「うるさいな。私がどう生きて、何を考えて、どんな結論を出そうが関係ないだろ。余計なお世話なんだよ」
「それが他人を苦しめてるって、悩ませてるって、どうして気付かないの? 私は悲しいの。あなたの役に立てないことが。私は悔しいの。あなたは優しいのに、その優しさが誰にも理解されないのが。こんなにも近くにいるのに、どこにもいないみたいなのが、たまらなく寂しいの」
「…………」
私は、何も言え無くなってしまった。泣き出すなんて、ずるいじゃないか。
言われたことはそうなのかもしれないと思う反面、そういう自分が嫌いになれなくて、むしろ好ましいとさえ思ってしまうのは、やはり質が悪いんだろう。理解されることを諦めたのは、いつからだろう。ずっとずっと昔のことすぎて思い出せない。けれどひとつだけ覚えていることがある。桜が散り終わった春の終りのこと、それは些細なことだった。
『私、ひーちゃんのこと、きらい。だってなにかんがえてるか分かんないんだもん』
そう同級生に言われたことがあった。それ以来私は自覚的に何を考えているか分からない子になったんだと思う。そのほうが相手も困らないだろうと思って、そうしたほうが一番いいだろうって。
分かってたんだ。自分が誰からも逃げているなんてこと。
だからこそ、たった一つだけ、分からないことがあった。
私は、どうして百合子から逃げていたんだろう。って。
「さて、と。今日はこのくらいで終りだろうな」
黒板の前に立って板書していた教師がぱたりと教科書を閉じて授業の終りを告げる。
「今日やったところは丸々テストに出るから、分からない場所あったらいつでも質問は受け付けます。まぁここらへんは覚えるの簡単だから大丈夫か」
そう言いながら教材を片付ける教師に続いて生徒たちも黙々と片づけを始めだす。私たちはそんな中、動くことができなかった。
動いているのに、止まったような感覚に陥りながら。
「それで、今日はどんなことがあったの?」
「今日はね、前に話した繭染さんと話が弾んじゃって、中々帰してくれなくてさ――」
目の前の少女は、いつまでも綺麗なままの笑顔で私の話を聞いている。閉じたときのまつ毛の曲線、少しだけ赤く染まった頬、潤んで艶かしい唇。華奢な身体に結った二房の髪を纏い、両手は私の右手を優しく包んで離さない。そんな穏やかな雰囲気が漂う古めかしい洋室の中、私は汚れ乱れた心の声を偽物のように語る。
私のたった一つだけの世界を、残酷に繋ぎとめながら。




