閑話四「近くて遠い二人の距離・後編」
きっと私は欲張りな人間なのだろう。
友人の想いを知りつつ、何も知らないふりをして過ごしている。
離れてほしくない。けれど必要以上に近づいてほしくない。だから、期待させつつ突き放す。矛盾しているような私のこの行為は、私しか幸せにしない。
いや、私自身すら、幸せにできない。
そもそも私は私を幸せにしようなんて思っていない。それどころか不幸になることを願っている。だから、私を幸福にしてくれる事も者も、その何もかもを受け入れることをしなかった。
私が、不幸になるために、幸福を避けてきた。
なのに、なのにあの子は私から離れることはなかった。拒絶し、傷つけ、悪意を向けてもなお、あの子は私を求めた。私を想い、私の幸福を願った。一途に、盲目的なまでに、誰よりも強く私の幸せを祈った。それが報われない行為であると知っていても。
だからなのか、私もあの子を彼女を受け入れはじめていた。
今のつかず離れずの関係から、どう変わってしまうのか、まだ分からないけれど、私のこの選択は間違いではないと思いたい。彼女の想いは、私がずっと求めていたものだと信じたかった。
彼女の想いが、愛だと信じたい。
気がつくと新幹線は目的地一つ手前の駅で停車していた。
出発の前の晩にもしっかり寝たはずなのに、どうしてか昔から新幹線に乗ると眠くなってしまう。私は眠気を払うため伸びをしながら窓の外に目を移す。走りはじめに見えていた緑豊かな景色ではなく、代わり映えのない都市部のビル群が見える。
「あっ、やっと起きた」
窓の反対側、つまり通路側に目を向けるとやわらかい笑顔を浮かべるえりさがいた。
「まったく、新幹線乗ったら遥すぐ寝ちゃうから一人で暇つぶしするの大変だったよ」
「ごめんごめん、昔から新幹線乗ると睡魔に襲われる体質でさ。暇だったんならえりさも寝れば良かったのに。これから結構歩いたりするし休めるときに休んどかないと体力持たないよ」
「うーん。それも考えたけどね、もし私が寝て遥も起きずにそのまま降りる駅通過したらどうしようって思って、眠れなかったの」
「損な性格だね。えりさは」
私が大きくあくびをすると、えりさも眠いのか小さなあくびをする。
「降車駅までもうすぐだけど、着くまで寝てれば?」
「でも……うん、そうする」
少しの間悩んだ後そう言うとえりさはすぐに眠ってしまった。きっとすごく眠かったのだろう。別に私に気を使わなくてもいいのに。そう思いながらも私はそういうえりさを一層愛おしく思ってしまいそうになる。えりさは幸福になるべきだ。けれどそれは必ずしも私の隣でということではない。私から遠く離れたどこかで幸せになって、私はそれを眺めているだけでいい。
私も一緒に幸せになることは、私が許せない。
窓の外を流れる景色を眺めていると、不意に何かが肩に触れる。軽くて、暖かくて、どこか安心するその感触。
「こういうところがあるから、私はえりさを手放せないのかもしれないなぁ」
全幅の信頼を寄せられて、安心しきった表情で私に全てを託す。そんな彼女を振り切れない私は、まだまだ自分に甘いのだ。
けれど、今は甘えていいのかもしれない。いつかは離れていくものだけれど、今はそれを愛でていたい。今だけは他人も自分も傷つけたくない。自分を理解してくれるかも知れない存在に、自分の全てを許容してくれる存在を、今この瞬間だけは愛していよう。
そう思う私は、欲張りなのだろうか。
目的地に着いてからは二人とも他愛のない会話をしつつ、神社巡りに勤しんでいた。今日は町の中心地にある神社を中心に回りつつ、食べ歩きを楽しんだ。
「はぁ、疲れた。思ったより歩いたね」
「明日はもっと歩くから覚悟しておいてね」
「それじゃ今日はちゃんと体を休めないとね」
旅館に着く頃には二人とも声は元気なのに表情が暗かった。自分でスケジューリングしておいて軽く後悔するくらい初日で疲れてしまった。
明日はこれよりも辛いスケジュールとか何考えてたんだろ私。
「ここってさ、個室露天風呂付いてたよね?」
案内された部屋の隅にバッグを置いて何かを取り出しながら訊いてくるえりさ。
「うん。確か部屋にあったよ。内風呂とは別に露天風呂が」
そう。何しろ私は人前で裸になるのが嫌なのだ。けれどどうしても露天風呂に入りたかった私は、旅館を選ぶ基準として部屋に露天風呂が付いているというのを最優先事項とした。というかお風呂くらいゆっくり一人で浸かりたい。
「食事の前に一回お風呂入っておく?」
「うん。だいぶ汗もかいたし、ささっと入る」
私はバッグから着替えなどを取り出しながら答えると、えりさも着替えを手に持ってこちらに近づいてくる。
「え? なにえりさ、先に入りたい?」
私は困惑しながら言うと、えりさは少し不満そうな表情になる。
「折角だから二人で入ろうよ」
「嫌だよお風呂くらい一人で入らせてよ」
「でもぉ、やっぱり私は遥と一緒に入りたいなぁ」
ちょっと甘えたような声色と普段は絶対にやらないだろう上目遣いで迫ってくる。なにやめてよちょっと可愛くて許しそうになったじゃん。
「だーめ。一人でゆっくり入るために露天風呂付の部屋にしたんだから」
「……わかった。じゃあ今回は私も一人で入るよ」
寂しそうな顔で私から遠ざかるえりさを見て、私は胸が痛んだような気がした。たぶん気のせい。
「私先でいいよね?」
「うん。私ちょっと飲み物買ってくるね」
「あーい」
私の返事を聞く前に部屋から出て行くえりさ。
……私の分も頼めばよかった。
「たっだいまぁ」
私がお風呂から上がり、浴衣でテレビを見ながらストレッチをしていると、長い長い買い物からえりさが帰ってきた。
「随分遅かったね。どこまで行ってたの?」
「いやー、最初はジュースだけ買いに行こうと思ってたんだけどさぁ、夜食べるおやつとか色々買いたくなっちゃってさ、近くのコンビニとか教えてもらって買いにいってたら遅くなっちゃった」
手元を見れば何やら大きく膨らんだビニール袋を二つ提げていた。どれだけ買い込んだんだよ。
「あとちょっとで夕食の時間だから、お風呂入るなら早くしなよ」
「はーい」
えりさはお菓子の入ったビニール袋をバッグの横に置き、着替えに持ち変える。
「覗いたりとかしても、いいんだよ?」
「するかばか」
そんなことするの男子くらいだろ。あとはまぁ、比奈理とか百合子みたいなあれな女子も覗きそう。だいたい覗いて何がしたいのか全くわからない。他人の入浴シーンとか見て楽しいのかな。
「ふふっ、遥は相変わらずだね」
とそう言いながら脱衣所に消えていく。何が相変わらずなんだか。
えりさがお風呂に行ってしまい、部屋は再びテレビの音と私の浴衣が擦れる音が支配する。
「……」
私は何が不満なのかが分からないけれど、何かが不満だった。
この掴んでは離れていく感情の正体を、私は未だ知らない。
「ねぇ、遥はどうして……」
夕食後、えりさが買ってきたおやつをつまみながら退屈なテレビを二人で観ていた時、不意に遥が何かを言いかける。
どうして。
そのあとどんな言葉が紡がれるのか少し待っていたが、どれだけ待っても吐き出されることはなかった。
どうして。
それは、私の言葉だ。
どうしてあなたはそんなに私を想ってくれるの? どうしてあなたは叶わないと分かっているのに願うの? どうしてあなたは何よりも強く幸福を祈ってくれるの? どうして、どうして。いくつもの言葉が浮かんで消えて、のどから先に出て行ってくれない。言ってはいけないことなんだろう。問うてしまえばそれが終わってしまうから。伝えてしまえばそれは止まってしまうから。
テレビから流れる陽気な音だけが、部屋に響く。
「言葉は、磨耗する。だから何も訊かないし答えない。けれど一つだけ知っていてほしいことがあるの」
重く、乾いた空気の中、寂しそうな表情で話すえりさは、とても美しかった。
「私は、どんな遥でも受け入れてあげる」
彼女はきっと理解しているのだ。願いは叶わず、想いは届かず、幸福は訪れないということを。だからこそ彼女は理解のその先に見出したのだ。私の、ではなく。自分の、でもなく。ただただ純粋に、私たちの未来を。
それは、辛いことなのかもしれない。険しく厳しい道のりなのかもしれない。けれど、彼女はあえてその道を選んだ。私と共に生きる未来を、他の誰でもない私との未来を選び取ったのだ。
「……えりさ」
私はようやく乾いた口から声が出せた。理解したことも、理解してもらったことも、嬉しかったけれど、それは決して口にはしない。
だからこの一言に精一杯の愛情を込めよう。
「えりさの浴衣姿って、エロいよね」
初日の夜以降、私たちはまたいつものように他愛なく、けれどどこか確信には目を背けて過ごした。
しかし、前と違ってえりさの隣はどこか居心地がよく、安心できた。何年も何年も探してきたものが、ようやく見つかったみたいで、それでいてきっとずっと持っていたことに気付かなかったのだろう。
四日間の旅行を終えた、帰りの新幹線の中。私は流れるように過ぎていく優しく綺麗な景色を眺めていたら、不意に涙が頬を伝い左手に零れ落ちる。
何度も何度も涙が落ちて、やがて耐え切れなくなった私は嗚咽を漏らす。隣で寝ているえりさに気付かれたら恥ずかしくて死ねる。
やがて緑豊かな森が開け、海が顔を出す。
どこまでも広大に広がり、海と空の境を曖昧にする透き通った青色。私たちの世界が曖昧になり、やがては全てを知ることになるのかもしれない。以前までの私なら拒んでいただろう。けれどえりさだったら、えりさだけだったら私はそれを受け入れよう。
「たとえそれが、間違っていても」
私はもう、選び取ったのだ。
えりさとの、幸せな未来を。