夜が終わる頃
雪が屋根から落ちる音で目を覚ました。
俺はベッドの上にいて、暖炉の火はとっくに消えていた。
あの甘いホットミルクを飲んだ後、俺は寝てしまっていたらしい。
周囲を見渡すが、ヨクルの姿はない。
流石に俺が起きるまでそばにはいなかったようだ。
彼は別の部屋で眠ったのだろうか。
窓の外はまだ暗い。
俺はヨクルを探そうと立ち上がった。
毛布を退けると肌寒かったため、俺は毛布を体に巻き付けて部屋を出た。
廊下は冷え切っていた。
玄関ホールに出ると、ドアの前にヨクルの後ろ姿があった。
昨日と変わらない服装だったが、一つ、違うところがあった。
ヨクルはかぼちゃを被っておらず、手に持っていた。
「ヨクル?」
俺が声をかけると、ヨクルは手早くかぼちゃを頭に被せた。
「ああ、ティリルさん。起こしてしまいましたか。まだ早いので、寝ていて構いませんよ」
ヨクルはドアの横に立てかけてあったランプの杖を手に取った。
外に行くつもりらしい。
寝ぼけていた頭が一気に冴えた。
「異形が出たのか!? いつ鐘が鳴ったんだ……!?」
慌てて俺は天井を見上げた。
「いえ、鐘は鳴っていませんよ。日が昇ってきたので、森の巡回へ行こうかと」
「巡回?」
「森に異常がないか、定期的に見回るんです。まあ、日課の散歩のようなものですね」
つまり、森の巡回も辺境伯の仕事の一つ……。
そう認識すると、俺は巻きつけていた布団を脱ぎ捨てた。
「俺も行く」
「お休みしていて下さい。昨日の疲れも残っているでしょう? 夜中、鐘が鳴っても起きなかったほどですからね」
「鳴ったのか!?」
「ええ。二度ほど」
「全く気がつかなかった……」
俺は一度寝たら朝まで起きない自分の性質を恨んだ。
まさか、異形の発生を知らせる鐘が鳴っても眠りこけているなんて。
ヨクル一人に討伐させるなんてあってはならない。
「とりあえず! 今、準備するから待っててくれ──」
──ぐううううう……。
そのとき、盛大に腹の虫が鳴り、俺は動きを止めた。
暫しの沈黙が流れる。
「今の音は?」
ヨクルが首を傾げた。
俺は顔が熱くなるのを感じた。
そういえば、昨日の昼からホットミルク以外何も口にしていない。
「……すまない。腹が減って……。何か食べ物を貰えないか」
「残念ながら、この屋敷に食料はありません」
「は? あんたはここに住んでるんだよな……?」
「ええ。しかし、僕は食事をあまり好みませんので。人間が好む温かい食事……というのが相容れなく。僕は森に積もった雪で十分ですから」
雪を食べて生きているだって……?
こいつ、本当に人間か?
俺はじとりとした目をヨクルに向けた。
「人間以外の何に見えますか? 僕は凄腕の魔術師ですから。こういうことも可能なんですよ」
「そういうもんか」
「ええ。そういうものです」
はぐらかされた気がしてならない。
だが、今は納得するしかなかった。
彼が人外だったとしても、今彼と対立するメリットはない。
剣術の達人でもあり、魔術師でもある彼に、普通の騎士である俺が敵うはずもないのだ。
彼の言っている通り、本当にただの〝凄腕の魔術師〟の可能性もあるし……。
「暫く遭難者もいなかったので、調達を忘れていました。大変申し訳ありません」
「昨日のうちに俺を追い出すつもりだったんだな?」
「いえ。普通の人間が食事を必要とすることを失念していました」
そんな訳あるか。
「コーヒーやお酒などの嗜好品ならたくさんあるのですが……」
「酒!」
俺は思わず喜びの声を上げた。
「お酒がお好きで?」
「酒嫌いな人間はこの国にいないぞ、滅多に」
酒は好きだ。
酒で記憶を飛ばす大人を見てきたからか、俺は最初、また記憶を失うのではないかと飲むのに躊躇していた。
しかし、それは杞憂に終わった。
俺は酒にかなり強く、記憶を飛ばすことはなかった。
雪国人だな、と師匠は笑って言っていた。
それから、酒は俺の燃料と言っていいほどになっている。
「酒で腹が膨れたらどれだけ良いか……」
だが、今求めているのは酒ではない。
胃を満たす固形物だ。
俺が深いため息をつくと同時に、空っぽの腹もぐう、と鳴った。
「支援物資とか送られてこないのか? それも静雪の村で止まってたり?」
「支援物資……? 他のところから何か送られてくることは滅多にありませんが」
ヨクルは首を傾げた。
俺はすっかり忘れていた。
ここは国にも見捨てられた辺境の土地だということを。
ヨクルの『辺境伯』というのも名ばかりで、一人で異形の討伐に当たっているのだった。
「騎士団から騎士が送られてくることはありますね」
俺のことか……。
「静雪の村へ調達に行かねばなりませんが、まだ暗いですからね。村の方達はまだ寝ているでしょう。村へ行くのは巡回が終わってからで構いませんか?」
今村に行っても、すぐに食べ物にはありつけそうにない。
「……わかった」
俺は空腹を訴える腹を撫でながら、渋々頷いた。
食事を必要としないヨクルには、この空腹の辛さはわからないだろう。
「僕も行きますから、待っていて下さいね」
ヨクルはそう言って、屋敷を出た。
「待って──」
俺はヨクルを追いかけようとしたが、やめた。
エネルギー不足の状態で異形と出会ってしまったら、ヨクルの足を引っ張るかもしれない。
ここは大人しく待っていよう。
暖炉のある部屋に戻ろうと、俺は廊下へ引き返した。
曲がり角を曲がると、人影が目の前に現れた。
「びっ……!」
短く悲鳴をあげた。
よく見てみると、その人影は鏡に映った自分がだった。
ほっとしたが、違和感を覚えた。
こんなところに鏡なんてあっただろうか……?
『くすくす……』
何処からか笑う声が聞こえてきた。
これは幻聴だ。きっとそうに違いない。
ヨクルは幽霊が出るなんて一言も言っていなかった。……聞かなかったから言わなかったただけかもしれないが。
何度目かの腹が鳴る。
空腹に耐えながら、一人、いるかもわからない幽霊に怯えなければならないのか。
空腹と恐怖の限界だった。
「……一足先に静雪の村に行こう」
そう思い立つと、俺は先に村へ向かう旨の書き置きを残し、屋敷を出た。




