冷たい人
マグカップ越しにホットミルクの温かさが手に伝わる。
ぼんやりと白いミルクを見つめていると、自分の中の真っ白な部分を思い浮かべてしまう。
「俺は、自分が何者なのかずっと考えている……」
寒さで震えていた唇が勝手に動いていた。
「俺にはある地点から以前の記憶がない。子供の頃、異形に襲われてから。名前、家族、故郷……俺は全て失ってしまった。気づいたら、銀竜騎士団に助けられてた。異形に襲われてたってのも、そのとき初めて知ったんだ」
「変な話でしょう?」と俺は笑いながらヨクルを見た。
ヨクルはじっと俺を見下ろしていた。
どんな表情をしているか、被り物越しにははわからなかった。
「瘴気に晒され続けた人間は、記憶が混濁することがあります。残念ですが、失われた記憶が戻ることはないでしょう」
「医者にもそう言われたな」
俺は失笑して、話を続けた。
「俺を憐れんだ一人の騎士──俺の師匠が養育者になった。『ティルヴィング』という新しい名前をくれて、剣術と文字の読み書きを教えてくれた」
「優しい御仁ですね」
「ああ。本当に優しい人だった……」
俺はかぶりを振った。
「でも、俺に優しくされる資格はない。騎士団は俺の家族を探してくれたけど見つからなかった。それに、どこか安心したんだ……」
覚えてない家族と会うのが気まずかったから、とか。師匠と離れることが嫌だったから、とか。そんな理由では説明してはいけない気がした。
家族はいなくなった自分を心配してるだろうし、騎士団の人は寝る間も惜しんで探してくれた。
みんな、俺のために必死だったのに、当の俺は、他人事だった。
「親から貰った大事な名前を忘れ、育ててくれた親を忘れ、帰る家を忘れ……。俺はいずれ、貴方のことも忘れるんだろうな。……俺は冷たい人間だ」
目元が熱くなる。
俺は手の甲を目に当てた。
ひんやりとしていた。
「俺は優しい人間になりたい」
助けを求めている人の手を取りたい。
銀竜騎士団のように。師匠のように。
師匠には騎士団入りを反対されたけど、俺は押し切った。
それが優しい人間になれる近道だと思ったから。
……そう思った時点で、俺は何処までも薄情な人間だって感じた。
「……森の雪達が貴方を好く理由がわかりました」
「……?」
「凍りついた記憶、寒さに震える心、純粋で無垢で、貴方はまるで真っ白な雪のよう……」
「茶化してるのか」
俺はむっとした。
「そんなつもりはなかったのですが」
ヨクルはくすりと笑った。
「冷たい心を放っておくと凍えてしまうものです。貴方のそばには温かい方達がいたんですね。彼らに罪悪感を抱く必要はありません。いずれわかるでしょう。優しさの理由を」
「……訳がわからない」
もっとわかりやすく言ってくれないと困る、と俺は眉を下げた。
「今言えることは……そうですね。雪達は冷たい人間が好きとだけ」
ますますわからなくなった。
彼なりの励ましなのだろうか。
「じゃあ、森に住んでいるあんたも冷たい人間なのか?」
俺は冗談まじりに言った。
ヨクルは「いいえ」と低い声で言い、俺に背を向けた。銀糸の髪が揺れた。
「僕は裏切り者です」
自戒の念を含んだその声に俺は黙り込んだ。
「……朝日が昇ったら、森を出て行くことをお勧めします」
ヨクルは部屋を出て行こうと、ドアの方に向かった。
「フロスティ辺境伯、俺はここを出ていくつもりはありませんよ。貴方がどれだけこの森を危険だと言おうが」
「……物好きな方だ。ここには木々と、雪と、異形しかありません。変わり映えのしない風景に飽きることは、何も恥ではありません。いつでも、森を出て行って構いません」
追い出しはしないようだ。
俺は口元が綻んだ。
「感謝します、フロスティ辺境伯」
「ティルヴィングさん、僕のことはどうぞ、『ヨクル』とお呼び下さい。毎回、そう呼ぶのは大変でしょう」
「え? しかし……」
ヨクルは俺の主君だ。
ファーストネームで呼ぶのは躊躇われる。
「異形を前に、毎回その呼び名で呼ぶおつもりで?」
ヨクルは悪戯っぽく言った。
「敬語も必要ありません。ティルヴィングさんはどうやら、敬語が苦手なようですから」
「う……バレてましたか」
「結構、敬語を忘れていましたよ。瘴気を浴びて、正常ではなかったのもあるでしょう」
「昔から気を抜くとすぐに敬語を忘れてしまって……」
俺は照れ臭くささを誤魔化すように咳払いをした。
「では、お言葉に甘えて──よろしく、ヨクル!」
ヨクルは驚いたようにかぼちゃ頭を揺らした。
「あ、あれ? 俺、何か間違えたか?」
「今までの方達は敬称をつけたので……」
「あ……!」
俺はしまった、と思った。
師匠に「額面通りに受け取るな。お前は素直過ぎる」と師匠に言われたのをすっかり忘れてた。
普通の人は自分に敬称をつけて呼べ、などとは言わない。
「ヨクルと呼ぶように」の正しい回答は、「ヨクル様」だった。
俺は記憶どころか、常識まで落としてしまっていたらしい……。
「す、すみません……」
「いえ、驚いただけですので、お気になさらず。どうぞ、『ヨクル』と。僕もそちらの呼び方の方が好ましいです」
「……本当に?」
俺はヨクルの顔をうかがった。
かぼちゃのせいで、表情は見えない。
「ええ。親しい仲のようで」
「それなら、俺のことも『ティリル』と呼んでくれ。みんなからそう呼ばれているんだ」
「では、『ティリルさん』とお呼びしましょう。……ふふ。まるで、友人のようですね」
「友人なら、お互い敬語もなしでも良いな!」
「それは遠慮します。僕はこの話し方が口に馴染んでますから」
「そ、そうか……」
主君が敬語で、騎士が砕けた口調だなんて、あべこべではないか。
だが、楽しそうに声を弾ませるヨクルを見て、嘘はないのだろうと感じた。
「懐かしい……。初めて会った騎士団長さんもフレンドリーなお方でした」
「グラム騎士団長の前の?」
「どうでしょう……。僕は騎士団の内情をあまり知らないので。もっと前かもしれません」
「前か……。そういえば、フロスティ家は銀竜騎士団と古い縁があるって聞いたな。一体、どんな縁なんだ?」
俺は何となく聞いた。
すると、ヨクルは少しだけ俯いた。
「迷われたんですよ、この森で」
「……それだけ?」
「縁というのはそういうものでしょう? 袖が触れ合って深い縁が出来ることもあります。貴方とのこの奇妙な縁も……遠い未来の何処かで繋がるのでしょうね」
ヨクルはそっと俺の肩を押して、ベッドに寝かせた。
俺の体がベッドに沈む感覚がする。
「まだ夜は深いですから、お休みなさい、ティリルさん──僕の新しい友人」
手袋越しの冷たい手が俺の額を撫でる。
俺は自然と瞼を閉じた。




