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ヨクルと奇妙な森  作者: フオツグ
第一話

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3/11

惑わす森の

 ヨクルはランプのついた枝を杖にして、霧の中を進む。

 彼の歩みは飛ぶように早い。まるで地に足がついていないかのようだ。

 体力を温存しなければならないとわかっているが、走らないとついていけない。自分が体力のある方で助かった。

 ヨクルを見ると、息一つ上がっていないように見える。一体、どういうことなんだ。


「異形が現れた地点はわかってるんですか?」


 霧の中を迷いなく進んでいくヨクルに、俺は息を切らせながら尋ねた。


「ええ、大体は。鐘の音でわかります」

「鐘を鳴らす時のルールがあるんですか。一人で暮らしてると聞きましたが、見張りの番はいるんですね」

「いませんよ」

「え? じゃあ、さっきの鐘は誰が……?」

「ふふ。あの鐘にはちょっとした仕掛けがあるんですよ。おかげで、僕が常に森を見ていなくても良くなりました」


 森を進んでいると、どんどん紫色の霧が濃くなってくる。


『──誰か助けて!』


 静かな森の中、何処からか、女性の声が響いた。

 俺は驚いて足を止めた。


「フロスティ辺境伯、今、人の声が」

「幻聴です。妖霧の中ではよく聞こえるんですよ」

「幻聴だって……?」


 それにしてははっきりと聞こえた。

 ヨクルは足を止めず、どんどん先へと進んでいく。

 彼を追いかけながら、俺は耳を澄ませてみた。


『そこに誰かいるの!? 助けて! 異形に襲われてるの!』

『ママー!』

『もう大丈夫よ……! 助けが来たみたい!』


 女性の声と一緒に、子供の声も聞こえてきた。親子だろうか。


「これ……本当に幻聴か……? 一度確かめに行くべきでは」

「異形の殲滅が最優先です」


 ヨクルは冷たくそう言った。

「今は異形を倒すことが最優先だ」──分隊長の言葉が蘇る。

 俺はあの時、指示に従わず、親子を助けた。だから今、この場にいる……。


『きゃああああああああああ!』


 女性の悲鳴が響いた。


『異形、異形……! 嫌っ! 来ないで!』

『ママー!』

『お逃げなさい……! 人がいる方に走るのよ!』

『ママ! やだよ、ママ!』

『お願い、言うことを聞いて……! ねえ、そこに誰かいるんでしょう!? お願い! この子だけでも助けて!』


 俺はヨクルの肩を叩いた。


「異形があっちの方にいるみたいですよ……!?」

「気を引くための妄言です。耳を貸してはなりません」

「だがっ!」


──行ってみないとわからないじゃないか。

 幻聴だったら、それで良い。しかし、そうでなかったら……? 手遅れになる前に向かわなければ。


「ティルヴィングさん、何が聞こえますか?」

「女性と子供の、助けを求める声だ」

「そうですか。僕には雪の声が聞こえます。尊厳を踏み躙られ、怒りの中、身を溶かした雪達の悲鳴が……」

「今は冗談を言ってる場合じゃない!」


 俺は声を荒げてしまった。

 ヨクルはただ黙って、俺が落ち着くのを待っていた。


「幻聴はそれぞれ聞こえ方が違うものです。貴方の幻聴を、貴方以外の人が聞くことは出来ません。何故、貴方が焦っているのか、僕にはわからないのです」

「本当に……この声が聞こえないのか……?」


「ええ」とヨクルは頷いた。


「か弱い者の助けを求める声……貴方の気を引くには十分なようですね」


 悲痛な声が聞こえる度、体の中心部から冷え切っていくような感覚がする。

 俺は銀竜騎士団の騎士だ。

 異形に襲われている人を助けなければならない。

 はやる気持ちが抑えられない。

 俺は……俺がすべきことは……。


「ティルヴィングさん?」


 俺はハッと我に返った。


「……これと同じような声が、この森では〝よく聞こえる〟のか?」

「ええ。聞き慣れた僕にとっては、子守唄のようなものですよ」


 女性の悲痛な声と泣き叫ぶ子供の声がまだ聞こえてきていた。

 これは幻聴だ、と自分にそう言い聞かせる。

 目を瞑ると、声が先程よりも鮮明に聞こえて、俺はすぐに目を開けた。

 目に映った光景に、俺はハッと息を呑んだ。

 木と木の間に、異形に襲われている親子の姿が見えたのだ。


「あそこにいる……! 俺には見える! 助けを求めてる人が!」


「ああ」とヨクルはなんてことのないように言った。


「それは幻影です。幻聴と同じ、貴方を呼び寄せるための手法に過ぎません」

「確かにいるんだ! 異形に襲われてるの親子が……!」

「こんなに濃い妖霧の中、どうして遠くの風景を見ることが出来るんです?」


 ヨクルは肩をすくめて言った。


「もう良い……! 俺が助ける! ……おーい! 今行く! もう少しの辛抱だ!」


 止めるヨクルを振り切って、俺は親子の元へ駆け出した。


 だが、いくら走っても、親子の元に辿り着けなかった。

 異形に襲われている親子の姿は、逃げている訳でもないのに、俺と一定の距離を保ち続けている。

 一体、どうなってるんだ……?

 依然として、親子の叫び声は聞こえている。

 異形に襲われているのなら、そろそろ、声が途切れても良いはずだ。

 俺は……騙されたのか?

 ハッとして、後ろを振り返った。

 ヨクルの姿はない。

 俺は助けを求める親子に背を向け、来た道を引き返した。

 ……体が鉛のように重かった。

 

「フロスティ辺境伯! 聞こえますか!」


 ヨクルの名前を呼ぶが、返事はない。

 当たり前だ。彼の言うことを信じず、幻影に惑わされた俺のことを待っているはずがない。

 彼は一人で異形の群れの元に向かっているだろう。

──「もし森で僕と逸れたら、来た道を引き返して下さい。僕の足跡を辿れば、屋敷に戻れるはずですから」

 ヨクルの言葉を思い出した。


「そうだ。足跡!」


 足跡を辿れば、ヨクルに追いつけるかもしれない。

 俺は視線を下に向けて、ヨクルの足跡を探した。


 雪は積もり続けているのに、足跡はくっきりと残っていた。

 それも、ヨクルの足跡だけ。

 幻聴や幻影で惑わせたかと思えば、「追え」と言うかのようにヨクルの足跡を残す。

 奇妙──この森はあまりにも奇妙だ。

 踵の方へ向かえば、フロスティ邸に戻れるだろう。

 俺は迷うことなく、爪先の向いた方へと走り出した。

 彼が異形と相対する前に──もの言わぬ骸となる前に。

 どうか間に合ってくれ、と心の中で願った。


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