第三夜 違和
首都高速を滑るように走るバンは、池袋の喧騒を抜け、いよいよ帝都の中心部へと侵入していた。
最初の目的地は、芝公園に鎮座する徳川家の菩提寺、増上寺。詩織さんの推測によれば、葵が日光で感じた「呼び声」の主が祀られている可能性が最も高い場所だ。
「うわー……! ビル、高すぎ! 空が見えないよ!」
後部座席で、葵が子供のようにはしゃいでいる。窓ガラスに額をくっつけんばかりの勢いで、次々と視界に飛び込んでくる摩天楼を見上げていた。その無邪気な姿に、運転席の俺の口元も自然と緩む。
だが、そんな和やかな空気とは裏腹に、俺の神経は張り詰めていた。甲陽新陰流の呼吸法『調息』を続け、精神を研ぎ澄ます。ここは帝国の心臓部。何が起こってもおかしくない。
《尊、聞こえる? 周辺に帝国軍の検問や不審な動きはなし。今のところ、順調だよ》
脳内に、与野の事務所からリンクしている茉奈のクリアな声が響く。
「ありがとう。こっちも異常ない」
そう短く返信した時だった。
後部座席で景色に夢中だった葵が、ふと動きを止め、不思議そうな声を上げた。
「うーん……?」
彼女は自分の胸のあたりにそっと手を当て、小首を傾げている。その小さな眉間に、わずかに皺が寄っていた。
「どうした、葵。何か感じるか?」
俺の声に、葵は困ったような、それでいて何かを探るような曖昧な表情でこちらを見た。
「なんかね、違うかも……」
「違う、とは?」
「うん。呼ばれてる感じは、ずーっと続いてるんだ。あったかくて、優しい感じ。でもね、こっちじゃない気がするの」
葵はそう言うと、車の進行方向とは違う、左側を指差した。
「もっと……あっち。左の方から、もっと大きくて、もっと優しい感じがするんだ。なんて言うか……こっちの呼び声は、だんだん小さくなってるのに、左から来るのはどんどん大きくなってる、みたいな?」
彼女の言葉は、感覚的で、論理的な根拠は何もない。
だが、俺はその言葉を疑うという選択肢を持たなかった。
日光東照宮での覚醒。そして、この東京神域調査そのものが、彼女のその超常的な感覚によって導かれたものだ。その直感を、俺が疑ってどうする。
《尊、葵ちゃんの言う通りかもしれない。私の認識でも、葵ちゃんが東京に入ってから、増上寺の方角から感じる神気の反応より、北……上野方面の神気が、相対的に強まってるように見える》
茉奈の分析が、葵の直感を裏付ける。
俺は迷わず、コンソールに設置された通信機のスイッチを入れた。相手は、与野事務所で全体指揮を執る浜田さんだ。
「浜田さん、こちら尊。聞こえますか」
《おう、どうした。もうすぐ増上寺に着く頃だろう》
スピーカーから、いつもと変わらない落ち着いた声が返ってくる。俺は、ルームミラーで葵の真剣な表情をもう一度確認し、はっきりと告げた。
「葵の感覚が、目的地は増上寺ではないと言っています。呼び声は、北より……上野方面から強く感じられる、と」
一瞬の沈黙。茉奈からの情報も共有されていただろうが、直接話をすることで意識を共有する。
スピーカーの向こうで、浜田さんが息を呑んだのが分かった。
「……上野か……?」
無理もない。作戦会議で立てた仮説を、早速一人の少女の「感覚」だけで覆そうというのだ。普通の指揮官なら、即座に却下するだろう。
「はい。俺は、葵の感覚を信じたいです。進路を変更し、先に上野方面へ向かう許可をください」
俺は、一切の迷いなく言い切った。
もし、この判断が間違っていたら? その時は、俺が全責任を負う。何より、葵の曇った顔を、これ以上見ていたくなかった。
スピーカーの向こうで、浜田さんが誰かと短い言葉を交わす気配がした。おそらく、隣にいる詩織さんだろう。数秒にも、数分にも感じられる沈黙の後、浜田さんの決断が下された。
《――わかった。葵の感覚を信じよう》
その声には、驚きや戸惑いを乗り越えた、指導者としての確かな信頼が込められていた。
《詩織も同意見だ。上野には寛永寺がある。そこも増上寺と並ぶ、徳川家ゆかりの地。江戸の鬼門を守るために建立された、重要な神域だ。むしろ、家康公の『八州の鎮守たらん』という遺志を考えれば、寛永寺の方がより強い繋がりを持っている可能性すらある。面白い展開になってきたじゃないか》
浜田さんは、どこか楽しむような口調で続けた。
《よし、いってこい! 目的地を上野・寛永寺に変更。引き続き、茉奈が後方からサポートする。何かあれば、すぐに報告しろ》
「了解!」
通信を切り、俺は迷わずハンドルを切った。バンは滑るように車線変更し、首都高速のジャンクションを北へと向かう。
「尊にーちゃん……」
後部座席から、葵の不安そうな声が聞こえる。自分のせいで、作戦を大きく変更させてしまった。その責任の重さを、彼女なりに感じているのだろう。
「気にするな。問題ない。俺が信じて、浜田さんが許可したことだ。お前は、自分の感覚だけを信じて、俺に進むべき道を教えてくれればいい」
俺はルームミラー越しに、力強く笑いかけてみせる。
「……うん!」
葵は、ぎゅっと唇を結ぶと、力強く頷いた。そして、再び窓の外へと視線を移す。
その表情が、北へ、上野へと向かうにつれて、少しずつ、本当に少しずつ明るくなっていくのを、俺は見逃さなかった。
雲間から差し込む光のように、彼女の顔に差していく安堵の色。
それは、彼女の巫女としての感覚が、そして俺たちの選択が、正しかったことを示す何よりの証だった。
「……あったかい。こっちだ。やっぱり、こっちだよ」
葵の口から、確信に満ちた呟きが漏れる。
俺はアクセルを強く踏み込んだ。
新たな目的地、上野・寛永寺。
そこに何が待ち受けているのかは、まだわからない。
だが、俺たちの進むべき道は、確かに示された。
希望と、一抹の緊張感を乗せて、バンは帝都のビル群を駆け抜けていく。
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次回は 3月9日(月) 19時 更新予定です




