プロローグ
こん、こん、と硬質な音が、湿り気を帯びた空気に冷たく響いていた。
古びたビルの地下深く。黴と墨の匂いが混じり合うその空間は、まるで現代から切り離された異界のようだった。剥き出しのコンクリートの壁一面に、黒々とした墨で描かれた家系図が、巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされている。それは、神代の創生から連なる日本神話の神々の系譜。その禍々しくも荘厳な空間の中心で、一人の男が木塊に向き合っていた。
男──神凪皓一朗は、手にしたノミを淡々と振るい、静かに仏像を彫り進めている。神聖な楠から削り出される像は、まだその全容を現してはいない。だが、その流麗な衣のひだや、伏せられた目元の造形には、常人ならざる技量と精神性が宿っていた。彼の表情は能面のように凪ぎ、感情の起伏を一切見せない。ただ、木を削る規則正しい音だけが、彼の存在をこの世に繋ぎ止めているかのようだった。
不意に、神凪は彫刻の手を止める。ノミを置く音すらなく、動きがぴたりと静止した。
「天照と須佐之男……光と闇、秩序と混沌。世界とは、この二元の危うい均衡の上にこそ成り立っている」
独り言は、誰に聞かせるでもなく空間に溶けていく。彼はゆっくりと立ち上がると、壁の系図へと歩み寄った。白い狩衣を思わせる簡素な衣服が、彼の痩躯を幽鬼のように見せている。
「帝国は、天照大神の威光のみを掲げ、その片翼である『闇』を忌み嫌い、力で封じ込めることしか知らぬ。なんと愚かなことか。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるという道理を解せぬらしい」
彼の声には、嘲りが滲んでいた。帝国が築き上げた繁栄と秩序。それは、多くの犠牲と、見えぬ者たちの嘆きの上に成り立つ、脆い砂上の楼閣に過ぎない。人々は与えられた平和に惰眠を貪り、自らの魂がゆっくりと死に向かっていることにすら気づかない。
「真の革命とは、破壊なくしては成し得んのだ」
白く長い指が、壁に描かれた無数の神々の中から、一つの名を探し当てる。そして、まるで長年の友に触れるかのように、その名を愛おしむかのように、ゆっくりとなぞった。
『須佐之男命』。
「彼が高天原の秩序を破壊し、その行いを恐れた八百万の神々によって追放されたように、我らもまた、帝国の偽りの秩序を破壊する『荒魂』とならねばならん。世界を一度、原初の混沌へと還すのだ。そうでなければ、新たな創造など望むべくもない」
神凪の瞳の奥に、暗く、それでいて熱を帯びた光が宿る。彼は須佐之男という神の内に、自らの理想の姿を見ていた。既存の権威に牙を剥き、破壊を恐れず、追放された先でさえヤマタノオロチを屠り新たな国を築いた荒ぶる神。その姿こそ、停滞した世界を打ち破る者にふさわしい。
彼の視線が、系図の上を滑り、やがて別の場所でぴたりと止まる。そこに記されているのは、『八幡大神』の名。
その名を目にした瞬間、神凪の脳裏に、かつての部下の顔が浮かんだ。忠実でありながら、己の正義に固執し、袂を分かった男。
「神とは、人が祀り、人が祈ることで、その力を増す存在。神自身に意思はなく、ただ人の信仰を映す鏡に過ぎん。ならば、その力を我らが目的に利用したとて、何の咎があろうか。むしろ、忘れ去られ、力を失っていく神々を再び現世に呼び覚ます、慈悲深き行いとさえ言えるだろう」
神凪の口元に、冷たく歪んだ笑みが浮かぶ。それは、神すらも自らの野望の道具と見なし、その行いを絶対的に肯定する、傲慢で揺るぎない信念の表れだった。神への冒涜ではない。これは神を真に「生かす」ための儀式なのだと、彼は本気で信じている。
「誉……お前が育てた『日本独立党』という名の駒も、いずれ我らの大義のために役立ててもらうぞ。お前たちが帝国という巨象の足元を騒がせ、その注意を惹きつけている間に、我らは静かに、確実に、その心臓を穿つ」
彼の計画は、単なるテロや反乱ではない。神域という不可視の領土を巡る、壮大な陣取りゲーム。日本独立党が神域を解放し、能力者を覚醒させる。その動きは、帝国を確実に苛立たせ、消耗させるだろう。その隙に、『残光』は真の目的を遂行する。
「藤堂尊……面白い切り札を手に入れたものだ。だが、それもまた、我らの掌の上だということを、まだ知るまい」
再び彫りかけの仏像の前に戻った神凪は、もう一度ノミを手に取る。その伏せられた仏の眼差しが、まるで神凪自身の冷徹な心の内を映しているかのようだった。これから始まる神域を巡る争奪戦を、そして血で血を洗う動乱を、ただ静かに見据えている。
こん、と。
無慈悲な一打が、地下室の闇に響き渡る。それは、新たな時代の幕開けを告げる産声であり、同時に、多くの者たちの未来に死を宣告する、断頭台の刃が落ちる音でもあった。
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次回は 2月26日(木) 19時 更新予定です




