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黒髪巫女と銀髪少年の深淵  作者: 烏刻
第三章 求道
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第四夜 醒葵

 日光東照宮。

 その名を、俺は教科書でしか知らなかった。帝国による支配が始まる前は、日本有数の観光地として、国内外から多くの人々が訪れていた場所。豪華絢爛な社殿、徳川初代将軍を祀る神聖な領域。


 しかし、俺たちの目の前に広がる光景は、その華やかなイメージとは程遠いものだった。


「寂れてる、というと少し違うんだけど……なんというか……」


 助手席から降り立った茉奈が、言葉を探すように呟く。彼女の言う通りだった。メインストリートと思われる通りの商店は、そのほとんどがシャッターを固く閉ざし、まるで街全体が長い眠りについているかのようだ。観光客の姿はどこにもなく、時折通り過ぎる地元住民らしき人々の目にも、活気は感じられない。


「そうじゃな。昔は修学旅行の学生や外国人観光客で、平日でも歩くのが大変なほどの賑わいじゃったと聞くが。今は見る影もないのぅ」


 詩織さんが、どこか寂しげに目を細める。


「だが、かえって好都合じゃないか? 人がいないのなら、俺たちの行動もしやすいだろう」


 バンから降りてきた浜田さんが、いつもの飄々とした口調で言う。確かにその通りだ。俺たちは遊びに来たわけじゃない。感傷に浸っている暇はない。


 一行は、静まり返った参道へと足を踏み入れた。掃き清められた石畳には、朝の掃除のものと思われる箒の跡が綺麗に残っている。人の気配がない分、空気が張り詰め、神域としての神聖さが際立っているようだった。


 巨大な石鳥居をくぐり、鮮やかな朱色が目を引く五重塔の横を抜ける。茉奈の感知能力が示すマークは、このさらに奥にあるらしい。


「この先みたい……」


 茉奈に導かれ、俺たちは陽明門をくぐり、唐門を抜け、ついに反応の中心地である本殿の前にたどり着いた。


 しかし――。


 何も起こらなかった。


 大宮氷川神社で茉奈が覚醒した時のような、神秘的な光も、不思議な気配の高まりもない。ただ、荘厳な社殿が、静かに俺たちを見下ろしているだけだ。


「……結局、何もなしか」


 煉が、失望を隠せない声で呟く。彼の表情には、焦りの色が濃く浮かんでいた。茉奈、そして俺も、どこか期待していただけに、その落胆は大きい。


「まあまあ、そううまくはいかないさ。これも調査の一環だ。神様だって、そう簡単には力を貸してくれないってことだろう」


 浜田さんが、努めて明るい声で場を和ませる。


「せっかくここまで来たんだ。徳川家康公にご挨拶もせずに帰るのは罰当たりだ。しっかり参拝して、ご利益にあやかっていこうじゃないか」


 その言葉に、俺たちは気を取り直して本殿、そして眠り猫の先にある奥宮で、それぞれ静かに手を合わせた。


(どうか、俺たちに力を貸してください。この国を、人々を、帝国から取り戻すための力を――)


 俺自身の願い。そして、仲間たちの願い。それが神に届くのかは分からない。それでも、祈らずにはいられなかった。


 参拝を終え、陽明門まで戻ってきた時だった。


「あ! あそこ、何か光ってる!」


 突然、葵が声を上げ、鳥居の先にある敷石の一つを指差して駆け出した。


「光?」


 俺たちは顔を見合わせる。俺の目には、他の石と何ら変わらない、来た時と変わらないただの古い石にしか見えない。煉や茉奈も、不思議そうに首を傾げている。


「ほら、ここの石! うっすらと青白く光ってるよ!」


 葵はそう言って俺たちを振り返るが、誰一人として同意できる者はいなかった。彼女の瞳には、何かの光が映っているのだろうか。


「どうしよう……どうしたらいいんだろう? 茉奈ちゃんは、この前なんで祈ったの? 何を祈ったの?」


 葵が、藁にもすがる思いで茉奈に尋ねる。


「えっと……私は、昔あの場所で、尊を救うことができたのは、きっとこの力のおかげだと思ったから……だから、その力を貸してくれた方への挨拶と、感謝と……そして、これからもみんなを守れますようにっていう、願い、かな」


 茉奈の言葉を、葵は一言一句聞き漏らさないように、真剣な表情で反芻する。


「挨拶……感謝……願い……」


 呟くと、葵は意を決したように、光っているというその石の上にちょこんと立った。そして、陽明門の奥、本殿の方角に向かって、小さな両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。


『――どうか、私に力をください』


 声には出さない、心の叫び。


『帝国にいた時みたいに、誰かが傷つくのはもう見たくない。尊にーちゃんも、茉奈ちゃんも、煉も、詩織さんも、浜田さんも……みんな、私が守りたい。だから、お願いします。私に、みんなを守れる力をください!』


 純粋で、どこまでも真っ直ぐな願い。


 その祈りに応えるかのように、奇跡は起こった。


 葵の足元、彼女だけが見えていた石が、淡い青白い光を放ち始めた。はじめは蛍の光のようにか弱かったそれは、次第に輝きを増し、やがて光の柱となって葵の小さな体を優しく包み込む。


「「「なっ……!?」」」


 俺たちは息を呑んだ。光の中から、葵の小さな呟きが聞こえる。


「ありがとう……ございます……」


 やがて光は、葵の体に吸い込まれるようにして、すっと消えた。


 静寂が戻った陽明門の前。光の中心にいた葵が、ゆっくりと顔を上げる。その表情は、先ほどまでの不安げな様子が嘘のように、自信に満ち溢れた、得意げな笑みに変わっていた。


「どうしたんだ? どうなんだ、葵!」


 煉が、焦れたように問いかける。


 葵はにっと笑うと、煉に向かって人差し指を向けた。


「尊にーちゃんは異質だから分からないけど、今の私なら、煉に勝てるかも!」


「はぁ!? 何を言ってるんだ、お前は……」


 唐突な勝利宣言に、煉が呆れたように眉をひそめる。だが、葵は構わず、ずいっと右手を前に突き出した。


「いいから! ちょっと本気で、ここを殴ってみてよ!」


「馬鹿を言うな。お前に怪我でもさせたらどうする」


「大丈夫だって! 今の私、煉に勝てる気がするんだ!」


 自信満々の葵に根負けしたのか、煉は「……本当に、知らんからな」と呟き、軽く拳を握る。そして、葵の突き出した小さな掌めがけて、鋭く右の拳を振り抜いた。


 ――当たる。


 そう思った瞬間、煉の拳と葵の掌の間で、パキン、とガラスが割れるような乾いた音が響いた。同時に、薄い青色の光が、まるでシャボン玉のように葵の右手を包み込み、煉の拳をいともたやすく弾き返していた。


「なっ……!?」


 弾かれた衝撃に、煉が数歩後ずさる。彼は信じられないといった表情で、自分の拳と、平然と立っている葵を交互に見た。


「なんだ、今の壁は……!? 何か、少し柔らかいゴムみたいな壁に弾かれた……?」


「へへーん! だから言ったでしょ! これが私の力なんだって!」


 葵は得意げに胸を張る。


「葵、どうして分かったんだ? その力のこと」


 浜田さんが尋ねると、葵は少し考えるように首を傾げた。


「直接話しかけられたような、頭の中に響く声みたいなのが聞こえたの。『皆を守りたければ、まずは自分を守る力を』って。そのあと、なんとなく分かっちゃった。今の私に何ができるのかって」


 守るための、防御の力。それは、誰よりも仲間思いな葵にこそふさわしい力かもしれなかった。


「あとね……」


 葵はそう言うと、陽明門とは反対側、南の方角――東京のある方角をじっと見つめた。


「きっと、まだあるんだと思う。あっちから、呼ばれてる気がするんだ」


 その言葉に、詩織さんが静かに口を開いた。


「臨終候は、御躰をば久能へ納め。御葬禮をば増上寺にて申付け。御位牌をば三河の大樹寺に立つ。一周忌も過ぎ候いて以後、日光山に小き堂をたて、勧請し候へ。八州の鎮守に可く為すべし」


 古風な言葉を、詩織さんは現代の言葉に訳してくれた。


「死後、御遺体は久能山に納めよ。葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に。一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて私を神として祀れ。そうすれば、私は関東八州の守り神となろう……。ここ、日光東照宮の御祭神である徳川初代将軍、家康公の遺言じゃよ。死してなお、江戸――今の東京を守ろうとする、その強い意志が、葵を呼んでおるのかもしれんな」


「東京方面に呼ばれてるとするなら、増上寺か」


 浜田さんの言葉に、詩織さんが頷く。


「可能性は高いな」


「葵、事務所に戻ったら、次は東京に行こうか」


 浜田さんの提案に、葵は満面の笑みで、力強く頷いた。


「うん! みんなを守れる力が手に入るなら! 私、もっともっと強くなるんだ!」


 その瞳には、帝国にいた頃の怯えや悲しみはもうない。仲間を守るという強い意志を宿した、新たな守護者の光が、確かに輝いていた。


 仲間がまた一人、大きな力を手に入れた。喜ばしいことであるはずなのに、俺の隣で、煉が唇を噛みしめているのを、俺は見逃さなかった。


次回は 2026年02月05日 19時 更新予定です

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